月下に杯を重ね

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村正の作った槍

2005-11-12 00:01:01 | コラム
 妖刀村正、徳川家にたたる太刀と言われる村正ですが、今回は槍についてです。
 時は天下分け目の関ヶ原の合戦。
 織田信長の甥織田長孝は、西軍の将戸田重政を討ち取りました。
 長孝は、重政を討ち取った名槍と首級を徳川家康に差し出し、検分に供していました。
 そのとき、事故が起きました。
 かの名槍が、家康の指を傷つけたのです。
 その名槍の作者が村正だと知った家康は、席を蹴立てて立ち去ったといいます。
 
 関ヶ原直後という最も政治情勢が不安定な時に、信長の甥に対して取った態度としては、究めて危険な行動でした。(注.)
 そんなリスクを忘れての行動に、村正に対する家康の嫌忌の念が現れているようで興味深いエピソードです。

注.
 関ヶ原の戦いでの家康のスタンスは、秀頼を傀儡にして政権を奪おうとした石田三成を討ち果たすといったものでした。
 大坂城には毛利輝元が入っており、もし毛利軍が秀頼を立てて出陣していたら、家康はおそらく進退窮まっていたでしょう。
 また、旧主筋の織田信長(表向きは同盟者でしたが、実質は家来待遇)の甥の面子をつぶすと言うことは今の主筋である秀頼(実力では家康が上であるのは周知の事実であったが……)に対する今後の態度もこのようになるのではないかと、世間に受け取られかねない事件だったのです。