2011年3月11日、東北地方を襲った大地震は、地震そのものによる被害に加え、想像を絶する津波の被害をもたらした。それだけでも大変な被害だったのに、それに追い打ちをかけたのが福島第一原子力発電所の事故であった。その現場で起きていたことが「Fukushima50」として映画化された。今年の3月に上映されるということだったのだが、毎年年度末は映画なんか観に行ける時間はまったく取れないほど忙しいので映画館での鑑賞は諦めていた。それが新型コロナウイルスの関係で、この時期にまた上映されていることに気付き(とは言え、これを書いているのはそれから一か月ほど経っていますが(^^;)、慌てて映画館に観に行ってきた。かつてイスタンブールで現地の人に教わった「どんなに悪いことでも、一つはいいことがある」という格言は、どうやら正しかったようである。
題名が示すように、海外でヒーローと称えられた福島第一原発の事故に立ち向かった人たちの物語である。正直言って映画の出来はさほどいいものではなかったが、そこに描かれている状況が概ね事実であろうことは、容易に想像できた。もちろん、映像表現の中に含まれるデフォルメやフィクションなどを捨象した上でのことであるが、本社と現場、企業と国の関係など、これまでの仕事の経験から「さもありなん」と腑に落ちるものが多かった。正確に分析して論評する能力には欠けるので、詳細な記述は避けるが、優秀なテクノクラート集団を持つ政府や大企業などがどうして判断を誤り、間違った方向に進んでいってしまうのか、映画を見終わってからはそんなことを考えていた。今から考えれば勝てる見込みが無い太平洋戦争に突入してしまった決断や、まさに現在進行形の新型コロナウイルス対策など、そこには日本人が持つ何らかのメンタリティに内在する決定的な欠点があるように思えてならない。映画の中で本当に描かなければいけなかったことは、そこだったんではないかと。
福島第一原発の事故も太平洋戦争も私たちの子孫に及ぶ数世代に渡る大きな災厄を招いてしまった。今回の感染症対策は一体どうなっていくのであろうか。そして日本はいつか自分自身が持つ弱点を克服することができるのであろうか。現在進行中の事象に今評価しても意味がないことは理解している。ただ、トイレットペーパーを求めて並んだ人達がまたうがい薬を買いに並んでいる。そんな報道に接しながら、どうも将来が悲観的に思えてしまうのは、歳のせいだけでは無いような気がしている。
とりあえずは、映画の原作「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発(門田隆将著)」でも読んで、少し落ち着いて考えてみようかな。
題名が示すように、海外でヒーローと称えられた福島第一原発の事故に立ち向かった人たちの物語である。正直言って映画の出来はさほどいいものではなかったが、そこに描かれている状況が概ね事実であろうことは、容易に想像できた。もちろん、映像表現の中に含まれるデフォルメやフィクションなどを捨象した上でのことであるが、本社と現場、企業と国の関係など、これまでの仕事の経験から「さもありなん」と腑に落ちるものが多かった。正確に分析して論評する能力には欠けるので、詳細な記述は避けるが、優秀なテクノクラート集団を持つ政府や大企業などがどうして判断を誤り、間違った方向に進んでいってしまうのか、映画を見終わってからはそんなことを考えていた。今から考えれば勝てる見込みが無い太平洋戦争に突入してしまった決断や、まさに現在進行形の新型コロナウイルス対策など、そこには日本人が持つ何らかのメンタリティに内在する決定的な欠点があるように思えてならない。映画の中で本当に描かなければいけなかったことは、そこだったんではないかと。
福島第一原発の事故も太平洋戦争も私たちの子孫に及ぶ数世代に渡る大きな災厄を招いてしまった。今回の感染症対策は一体どうなっていくのであろうか。そして日本はいつか自分自身が持つ弱点を克服することができるのであろうか。現在進行中の事象に今評価しても意味がないことは理解している。ただ、トイレットペーパーを求めて並んだ人達がまたうがい薬を買いに並んでいる。そんな報道に接しながら、どうも将来が悲観的に思えてしまうのは、歳のせいだけでは無いような気がしている。
とりあえずは、映画の原作「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発(門田隆将著)」でも読んで、少し落ち着いて考えてみようかな。
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