ムーミンパパの気まぐれ日記

ご訪問ありがとうございます。
日常を綴っているだけの日記ですが、
ゆっくりと遊んでいってくださいね。

Fukushima50

2020-08-08 | review
 2011年3月11日、東北地方を襲った大地震は、地震そのものによる被害に加え、想像を絶する津波の被害をもたらした。それだけでも大変な被害だったのに、それに追い打ちをかけたのが福島第一原子力発電所の事故であった。その現場で起きていたことが「Fukushima50」として映画化された。今年の3月に上映されるということだったのだが、毎年年度末は映画なんか観に行ける時間はまったく取れないほど忙しいので映画館での鑑賞は諦めていた。それが新型コロナウイルスの関係で、この時期にまた上映されていることに気付き(とは言え、これを書いているのはそれから一か月ほど経っていますが(^^;)、慌てて映画館に観に行ってきた。かつてイスタンブールで現地の人に教わった「どんなに悪いことでも、一つはいいことがある」という格言は、どうやら正しかったようである。
 題名が示すように、海外でヒーローと称えられた福島第一原発の事故に立ち向かった人たちの物語である。正直言って映画の出来はさほどいいものではなかったが、そこに描かれている状況が概ね事実であろうことは、容易に想像できた。もちろん、映像表現の中に含まれるデフォルメやフィクションなどを捨象した上でのことであるが、本社と現場、企業と国の関係など、これまでの仕事の経験から「さもありなん」と腑に落ちるものが多かった。正確に分析して論評する能力には欠けるので、詳細な記述は避けるが、優秀なテクノクラート集団を持つ政府や大企業などがどうして判断を誤り、間違った方向に進んでいってしまうのか、映画を見終わってからはそんなことを考えていた。今から考えれば勝てる見込みが無い太平洋戦争に突入してしまった決断や、まさに現在進行形の新型コロナウイルス対策など、そこには日本人が持つ何らかのメンタリティに内在する決定的な欠点があるように思えてならない。映画の中で本当に描かなければいけなかったことは、そこだったんではないかと。
 福島第一原発の事故も太平洋戦争も私たちの子孫に及ぶ数世代に渡る大きな災厄を招いてしまった。今回の感染症対策は一体どうなっていくのであろうか。そして日本はいつか自分自身が持つ弱点を克服することができるのであろうか。現在進行中の事象に今評価しても意味がないことは理解している。ただ、トイレットペーパーを求めて並んだ人達がまたうがい薬を買いに並んでいる。そんな報道に接しながら、どうも将来が悲観的に思えてしまうのは、歳のせいだけでは無いような気がしている。
 とりあえずは、映画の原作「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発(門田隆将著)」でも読んで、少し落ち着いて考えてみようかな。
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赤頭巾ちゃん気をつけて

2013-02-04 | review
 ずいぶんとまた古い小説だなあと思われた方も多いだろうと思う。庄司薫の4部作の第一作で中央公論に初めて掲載されたのが昭和44(1969)年5月なので、既に40年以上前の作品なのだから、そう思われても仕方がない。ちなみに昭和44年に起きた出来事というのを調べてみると、本書にも出てくる東大紛争安田講堂攻防戦と東大入試の中止、アポロ11号による人類初の月面着陸などが起きている。ついでに言えば、フジテレビでサザエさんの放送が始まったのもこの年の10月である。そんな「赤頭巾ちゃん気をつけて」を最初に読んだのは高校生の頃で、当時某私立高校に通っていた私は、主人公である都立日比谷高校生の感性や考え方にずいぶんと共感して何回も読みふけったものだが、そんな思い出の小説を電子書籍版でダウンロードして久しぶりに読んでみた。

 主人公の薫くんは受験を予定していた東大の入試が中止になり、子供の頃から飼っていた愛犬のドンをなくした上に、家の中でスキー板を蹴飛ばして生爪を剥がしてしまうという踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまう。ここから幼馴染の由美や治療にあたった女医への性的好奇心など、自分自身の生き様や社会との関わり方などについて深く考え込んでいく。そんなところに小さな女の子との偶然の出会いが、薫くんの気持ちを変えていく。

 私のつたない読解力ではせいぜいがそんな感じでしかあらすじを表現できないのだが、文庫版になった当時の帯にはこう書いてある。
 「女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか。さまよえる現代の若者を爽やかに描く新しい文学の登場!」
 ともあれ、芥川賞を受賞し、映画化までされた作品であり、主人公を作者と同名の「薫くん」と設定したり、主人公自身に若者の話言葉でストーリーを語らせる手法など、社会に大きな反響をもたらした小説であったことは間違いない。それにしても、久しぶりに読んでみて思うのだが、やはりこういう小説を読んで共感するためには、ある種の同時代性というものが必要不可欠だということである。現代小説(当時は、だが)だからこそ、東大紛争がもたらした影響とそれに対する市井の人々の反応や高度成長期が曲がり角にさしかかってきた社会の雰囲気といった大きな時代の潮流といったものが描かれているし、文中には流行歌の「ブルーライト・ヨコハマ」やプロレスラーのザ・デストロイヤーなども登場してくる。もちろん、そうした状況や言葉自体を知らなくても小説としての本質的な価値には影響がないのだが、それでも知っていればこそ分かる感覚というのもある。文学や芸術の世界では「時代と寝る」という言葉あるが、鑑賞者にとってもその感覚は重要な要素だなあと思わされる作品である。

 この作品を読んだ勢いで、赤白青黒の4部作(「赤頭巾ちゃん気をつけて」、「白鳥の歌なんか聞こえない」、「さよなら怪傑黒頭巾」、「ぼくの大好きな青髭」)を続けて読んでみた。自らの青春時代を少しほろ苦く思い出すとともに、あの頃は自分にも少しは純粋な部分もあったのだあと照れくさくなった。

 4部作とも昨年新潮文庫で新たに刊行されているので、興味をもたれた方はぜひお読みください。お薦めです。
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テルマエ・ロマエ

2012-05-17 | review
 久しぶりに飲み会もなく時間があったので、思いついて映画「テルマエ・ロマエ」を観に行った。公式サイトによれば、ストーリーはこんな感じである。

風呂を愛する二つの民族が出会ったとき、
世界の歴史が大きく動き出す!


古代ローマ帝国の浴場設計技師ルシウス(阿部寛)は、生真面目すぎる性格が時代の変化に合わず、職場を解雇される。落ち込む彼は友人に誘われた訪れた公衆浴場で、突然現代日本の銭湯にタイムスリップしてしまう。そこで出会ったのは漫画家志望の真実(上戸彩)ら「平たい顔族(=日本人)」。ルシウスは日本の風呂文化に驚愕、打ちのめされる。しかし、古代ローマと現代日本を行き来しながらにhンの風呂文化をローマで再現していく彼は、たちまち評判の浴場技師となっていく。その評判を聞きつけた時の皇帝ハドリアヌス(市村正親)は、自分の後継者にと考えているケイオニウス(北村一輝)のためにルシウスに大浴場を作るよう命じる。次第にルシウス、そして真実までもがローマ帝国の運命に深く関わっていくことに……。


 今年のゴールデンウィーク興業の首位を走っている作品でもあり、かなり話題になってもいるから、あらあらストーリーをご存じの方も多いのではないだろうか。ここではネタバレになりそうなことは書かないけれど、私自身は最近原作のコミックを借りて読んでから、初めてその存在を知った程度であった。ただまあ、スケールが大きいんだか小さいんだか分からないけれど、とりあえずはSFなので、映画化には向いているなというイメージは持っていた。ただ、お風呂をめぐるエピソードを単純につなぎ合わせただけでは映画にはならないから、いまだ連載中の原作にどのようなストーリーを加えていくのかが腕の見せ所って感じかな、などと想像しながら観たのだが、結論から言うとギリギリ及第点といったところ。歴史の改変とか時代を越えた恋愛とか、よくあるタイムトラベル物の定番を上戸彩の可愛さに背負わせてなんとか逃げ切ったという感じである。でもまあ、原作を読んだことのない人には、エピソード自体の楽しさで十分見ごたえがあるだろうから、こうした評価はちょっと厳しすぎるかもしれないかな。ともあれ、主要な古代ローマ人役に阿部寛を始めとした顔の濃ゆい日本人を起用したチャレンジや細かなセットの作り込みなど、エンターテイメントとしての基本を押さえた作品に仕上がっており、ちょっと肩の凝らない映画でも見てリフレッシュしたいなあというサラリーマン諸氏にはお勧めである。残業しなくてもいい日の仕事帰りにでもぜひご覧ください。
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コクリコ坂から

2011-08-18 | review
 先日久しぶりに映画館に行き、スタジオジブリの「コクリコ坂から」を観てきた。まずはオフィシャルサイトからストーリーを紹介しよう。

1963年、横浜。

港の見える丘にあるコクリコ荘。
その下宿屋を切り盛りする16才の少女・海。
彼女は、毎朝、海に向かって、信号旗をあげる。
旗の意味は「安全な航行を祈る」。
タグボートで通学していた17才の少年・彼は、
海の上からその旗をいつも見ていた。

翌年に東京オリンピックを控え、
人々は古いものはすべて壊し、
新しいものだけが素晴らしいと信じていた。
そんな時代に、横浜のとある高校で、小さな紛争が起きていた。
古いけれど、歴史と思い出のつまった文化部部室の建物、通称カルチェラタン。
それを取り壊すべきか、保存すべきか。
そんな事件の中で、海と俊は出会う。
俊はその建物を守ろうと学生たちに訴える。
海はその建物の良さを知ってもらおうと大掃除を提案する。

徐々に惹かれ合うふたりに、ある試練が襲いかかる。
「嫌いになったのなら、はっきりそう言って」
「俺たちは兄妹ってことだ」
「どうすればいいの?」
自分たちは兄妹かもしれない。
それでも、ふたりは現実から逃げずにまっすぐに進む。
そして、戦争と戦後の混乱期の中で、
親たちがどう出会い、愛し、生きたかを知っていく。
そんな中で、ふたりが見出した未来とは-。


 正直言って、この映画には余り期待していなかった。監督は宮崎駿ではなく、息子の宮崎吾朗で、彼の初監督作品となったゲド戦記は原作者まで巻き込んだバッシングの対象となってしまっていたし(もっとも、私自身はゲド戦記を観ていないので、あくまで評判にしか過ぎないが。)、最近のジブリ作品は風の谷のナウシカや天空の城ラピュタなどとは傾向が変わってきており、今回の作品も昔のようなダイナミックなものではないことが分かっていたからである。とはいえ、子供の頃から宮崎駿や高畑勲の東映動画で育ってきた身としては、どうしても観ておかなくてはと思ってしまうのである。
 で、結果はいい方に裏切られた。原作が少女マンガなので、いかにもそれらしいストーリー展開ではあるのだが、それだけに奇をてらったり、画像で驚かしてみたりということはなく、ゆっくりと流れの中で緻密に描き込まれたオーソドックスな作品として仕上がっている。もちろん、結末に向けてのストーリー展開が笑っちゃうほどご都合主義的だったりするなどの難点がないわけではないが、それもまあ少女マンガらしいご愛敬として済ませるレベルではある。ただ、時代設定が1963年なので、我々世代でもギリギリの年代である。例えば、カルチェラタンと聞けば、神田カルチェラタン闘争を思い浮かべるというような、当時の社会に対する時代感覚を前提としているシーンも多いので、その辺が分からない人にとっては面白さは半減するかもしれない。 
 ともあれ、肩の凝らない大人のアニメを楽しみたい人にはお勧めの作品である。

【若い人のためのミニうんちく講座】
 神田カルチェラタン闘争とは、1968年から1969年にかけて、東京・神田駿河台の学生街で東大紛争支援のために当時神田・駿河台近辺に校舎を構えていた明治大学・中央大学・日本大学の全共闘が明大通り一帯をバリケード封鎖した学生運動の一つ。パリの学生運動の拠点であったカルチェ・ラタンになぞらえて神田カルチェラタン闘争と呼ばれた。
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ムーミン谷のひみつ

2011-05-26 | review
 ハンドルネームにムーミンパパを使っているくらいだから、逃げも隠れもしないムーミン好きである。まあ、その辺のところはこれまで何回もカミングアウトしているからくどくど書くまでもないけれど、そんな私が久しぶりにムーミン関係の本を買ってみた。冨原眞弓著「ムーミン谷のひみつ(ちくま文庫)」である。簡単に言うと研究者によるムーミン・シリーズの解説本なのであるが、ムーミン家族を総括的に論じた後、ムーミントロール、ちびのミイ、ニョロニョロなど、各登場人物(?)ごとに、行動分析や物語の中で果たしている役割などを解説してくれている。
 ちなみに、本題とはちょっとずれるが、スウェーデン語の原書ではスナフキンSnufkinはスヌスムムリクSnusmumurik、ニョロニョロはハッティフナットHattifnatという名前だなどという話は飲み屋でちょっと語るうんちくとしてはいいかもしれない。ついでに言えば、原作者のトーベ・ヤンソンはフィンランド人であるがフィン語ではなくスウェーデン語を話す言語的少数派であったことがムーミン物語にも直接の影響を与えているということである。
 ともあれ、ムーミン物語の原作が持つ独特の感覚を実に分かりやすく解説されているので、ムーミンフリークにはたまらない一冊ではある。特にあの震災の直後ということもあり、冒頭のムーミン家族の項での解説はかなり心に響くものであった。

 「ムーミン谷の彗星」のムーミントロールの冒険や知識には、谷に壊滅的な猛威をふるう彗星のゆくえを左右する力はない。タイミングよく魔法を伝授してくれる助け手が現れるわけでもない。ムーミン谷が奇跡的に救われるのは、たんに彗星の軌道がはずれたせいだ。
 たいせつなものは偶然にゆだねられている。これもムーミン谷の重要なメッセージなのかもしれない。


 東日本大震災でも、ほんの少しの偶然やタイミングが生死を分けたなんて事例はきっと枚挙にいとまがないだろう。「たいせつなものは偶然にゆだねられている。」それはせつないばかりに悲しく厳しい真実なのだと思う。だからこそ、あまりにも無邪気すぎるムーミントロールのこんな台詞が、現実の困難へと立ち向かう言葉として力を与えてくれるような気がしてくるのである。

 彗星、彗星って騒ぐなよ。そんなのぼくたちが家に帰りさえすれば、パパとママがなんとかしてくれるさ・・・・。

 曖昧さとアナーキー、温かな家族愛、孤独と自由。複雑なプロットが読む物を惹きつけるムーミンシリーズをもう一度読み直してみたいと思う一冊である。
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食堂かたつむり

2010-09-05 | review
 映画「食堂かたつむり」のDVDを観た。海外出張の際に機内で観たものを改めて観なおすといういつものパターンだが、とりあえずストーリーを公式サイトから引用するとこうである。

 失ったもの:恋、家財道具一式、声
 残ったもの:ぬか床

 ふるさとに戻り、メニューのない
 食堂をはじめた倫子。
 お客は、一日一組だけ。
 そこでの出会いが、
 徐々にすべてを変えていく。


 失恋のショックで声を失った倫子(柴咲コウ)は、子供の頃からなじめなかった
 自由奔放な母・ルリコ(余貴美子)が暮らす田舎へ戻り、小さな食堂をはじめる。
 お客様は一日一組だけ。決まったメニューはない。
 お客様との事前のやりとりからイメージを膨らませて作る倫子の料理は、
 食べた人の人生に小さな奇跡を起こしていく。
 そして、いつしか「食堂かたつむり」で食事をすると願いが叶うという噂が広まっていった。
 そんなある日、倫子はルリコが末期のガンであることをルリコ自身から知らされる。
 倫子は衝撃を受けながらも、母のための料理を作ろうと決意する。
 料理を通して倫子とルリコの距離が縮まろうとしていた…。


 映画のストーリー紹介にしては、最後にルリコが末期ガンであることまでネタバレしてしまっていいものだろうかと思ったら、原作は80万部を超えるベストセラーだったんだね。ちっとも知らなかった。それじゃあ原作も読んでみるかなあと思いつつamazonのサイトを覗いてみると、これが厳しいレビューのオンパレードである。映画を見る限り確かにそうかもと頷けるコメントが多かったので、ここはまあ映画観賞だけにとどめておくことにした。
 とまあ、レビュー記事としてはいきなり脱線してしまったが、映画としてはまあまあの出来である。もちろん原作が持っている弱点というか、突っ込みどころはたくさんあるのだが、画面の美しさと主演の柴咲コウが秀逸で救われている。「食堂かたつむり」というタイトルからも分かるように、ストーリーは料理を軸に展開していくのだが、画面に登場する料理がなんとも美味しそうに映し出されている。実際に作ってみたら本当に美味しいのかどうかはおいといても、ちょっと食べてみたいと思わせる作りになっているから、一番肝心なところはOKというこである。料理好きな人には特に楽しめると思う。
 一方、柴咲コウは心因性失語症という役柄ほとんど台詞がないのだが、単純化されすぎていると思わせるほどの素直さや可愛さをうまく表現していて好感が持てるし、ラストシーンでは一言で母親との関係性の呪縛から解き放たれる瞬間をいい表情で決めている。彼女の演技は「県庁の星」とこの「食堂かたつむり」でしか見たことがないのであるが、個人的に割と好みの役者ではある。

 そんなわけで、とりあえずは何かの機会があれば観ても損はないと思う「食堂かたつむり」でした。。。って、いい加減なレビューだな
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あれから40年

2010-02-03 | review
 落語を始めとして漫才とか漫談、喜劇などが好きである。わざわざ舞台を見に行くほどではないが、割とよくその種のテレビ番組を見ている。関西の血が半分入っているせいか「おもろうてやがてかなしき」のキャッチフレーズで知られた藤山寛美の松竹新喜劇やまだ今ほど有名になる前の吉本新喜劇なども子供の頃から見ていた。しかも下町育ちなものだから浅草喜劇の「デン助劇場」も大ファンというのだから、節操なく東西喜劇をたしなんで育ってきたことになる。そんな私だが最近の第何次だかの漫才ブームでもてはやされている若手の中には、どこが面白いのかまったく分からず辟易することも多い。それは自分が歳をとって若い人の感性が分からなくなっただけではないかと言われるかもしれないが、それでも何人かは好きな若手芸人もいるのだから、歳のせいなんかじゃないと頑なに信じている。
 とまあ、そんな私が一押しなのが綾小路きみまろである。ジャンル別で言うと漫談になると思うのだが、今やオフィシャルグッズはもちろん銀座にカフェまでオープンするほどの人気者である。その漫談は同じことを職場で話したなら確実にセクハラで告訴されるであろうほどの内容であるが、その毒舌ぶりは小気味いいほどの冴えで笑いを誘う。ターゲットを中高年に絞って若者には見向きもしない戦略も見事だが、老いや熟年夫婦の日常をその本質にまで迫ってえぐり出しながら、笑いにまで高めてしまう話芸には感心してしまう。中高年女性をいじるという点では毒蝮三太夫の話しっぷりと通じるものがあるが、二人に共通しているのは中高年に対する愛情だったり応援だったりというという優しさが底流にあるというところであろう。その辺が聞き手に嫌味を与えない理由ではないかと考えている。
 今回勢いで購入したCD「"元祖"爆笑スーパーライブ第0集」は彼がまだそれほど売れていない頃に販売していたカセットテープを再録したもので2話で約40分。とにかく何回聞いても笑えるので、そんなものお金出してまで買うほどのものかなと思う方も是非一度聞いてみてください。絶対損したとは思わないはずです。私はまだ2枚しか持っていないのだが、また折をみて他のCDも買おうかなと密かにたくらんでいるところである。

 ああ、あれから40年。奥さん、昔はみんな若かったんです!
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神戸新聞の7日間

2010-01-24 | review
 録画してあった1月16日にフジテレビ系列で放映されたドラマ「神戸新聞の7日間」を見た。1995年1月17日午前5時46分に明石海峡を震源として発生した大地震は、6,434名の死者と4万人を超える負傷者、25万棟に及ぶ住家を全半壊させた。「神戸新聞の7日間」は、そんな関東大震災以来の大きな被害をもたらした阪神・淡路大震災から15年という節目に、地元紙である「神戸新聞の新聞記者たちが、それぞれの立場でもがき苦しみながらも、新聞を作り続けた闘いの模様を描くドキュメンタリードラマ」である。
 正直言って実際に見るまでは、またジャニーズのタレントを使った(主役は嵐の櫻井翔)ドラマかと余り期待していなかったのだが、それでも創刊以来戦時中でさえ一度も休刊したことのない新聞がどうやってその伝統を守ったのかを知りたいと思って見ただけのことであった。その予断はあっさりと裏切られた。2時間の間涙が止まらない。実際に現地で被害に遭われた方だったら見続けることができないのではないかと思うほどの場面が次々と映像として突きつけられていく。新聞を発刊し続けるための記者たちの想いと努力、我が身を捨ててまで神戸新聞に協力する京都新聞社の新聞記者仲間としての連帯、悲惨な情景を前にカメラを向けることに何の意味があるのかと自問する記者たちの苦悶。ドラマとしての主題はそういうところにあったのだろう。その想いを伝えることに失敗したとは思わない。あえて桜井を主役・ナレーターとして起用し、阪神・淡路大震災を知らない若い人たちにメッセージを届けたいというのもいい試みだったと思う。しかしながら、ドキュメンタリーの迫力の前にはすべてが霞んでしまったのもまた仕方がないことなのだろう。とにかく、目の前で繰り広げられる再現映像や実際に現場で撮られた画像は、それが真実であったとは信じたくないほどの悲しさを見る者に染み込ませていく。圧倒的な事実の山の前にドラマの訴求力が薄まってしまうことを、たぶん制作者は分かっていたのだと思う。それでもあえてドキュメンタリーを織り込んでいったのは、阪神・淡路大震災の経験を風化させてはいけないというテレビマンとして矜持であったのだろう。彼らの仕事に敬意を払いたいと思う。
 折角だから、もう一度見直してみたい。ドキュメンタリー部分を落ち着いて見られるようになれば、ドラマ部分の良さももっとしっかりと見えてくるだろう。もちろん一つの作品を2つの部分にセパレートして論評すること自体がナンセンスだというのは分かっているが、それでもやはりそう感じてしまうのである。
 平均視聴率は関西地区で19.3%、関東地区で15.3%だったとのことである。たぶん再放送される機会があるだろうから、見逃した方は是非とも見てほしい作品である。
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Crescent Moon

2010-01-10 | review
 別にブルースやジャズが嫌いというわけではないけれど、基本的に洋楽より邦楽の方が好きである。フォーク、ロック、J-POP、演歌。ジャンルはなんでもいい。要は自分の感性に合っていればいいのであって、それだけが好き嫌いの基準となっている。だから、アイドルだろうがなんだろうが、自分がいいと思えばそれでいいと思うし、高名な音楽評論家が何を言おうが、ミーハーと言われようがそんなことは関係ない。芸術を生業にして生きているわけではないのだから、自分以外の感性なんか気にする必要はないのであって、そもそも芸術なんていうのはそんなものだと思っている。
 いきなり妙な力の入った話になってしまったが、邦楽がいいと言うのにはもう一つ理由がある。それは日本語でなければ意味が分からないからである。アレンジや何やらが重要でないとは言わないが、大雑把に言って歌が持つ力の半分はメロディで残りの半分は歌詞=言葉である。英語やフランス語の名曲もたくさんあるのだろうが、歌詞の意味が分からない、というか、歌詞自体を聴き取れない私にとってはどうしてもその魅力が半減してしまうことになる。それに、例え意味が分かったとしても、母国語が持つ民族の感性や文化的な土壌をバックボーンにした歌詞が持つ魅力にはどうしても敵わないのではないのだろうか。とりわけ日本語が持つ豊かな抒情表現は世界の言語の中でも特異な地位を占めているのだから、歌詞によって歌の力に大きな差が出るのは文化的必然とも言うべきものであろう。個人的に一番好きな歌手が中島みゆきというのも、こうした歌詞が持つ力というか言霊の魅力にひかれているからなのは言うまでもない。
 とまあ、あれこれと偉そうに言っておりますが、要するに語学の才能がないからということだけなのかもしれないけどね

 そんな私の最近のお気に入りは、絢香の「三日月」。他の曲はよく知らないので、彼女のアーチストとしての実力はよく分からないけれど、この曲は女性の持つ繊細な想いをとてもよく表していて心に染みてくる。残念ながら、病気のために昨年末でいったん音楽活動を休止しているようであるが、必ず復帰してまた綺麗な歌声を聴かせてもらいたいものである。

三日月
 作詞 絢香
 作曲 西尾芳彦/絢香

ずっと一緒にいた 二人で歩いた一本道
二つに分かれて 別々の方歩いてく

寂しさで溢れたこの胸かかえて
今にも泣き出しそうな空見上げて
あなたを想った

君がいない夜だって
そう no more cry もう泣かないよ
がんばっているからねって 強くなるからねって
君も見ているだろう
この消えそうな三日月
つながっているからねって 愛しているからねって

冷えきった手を 一人で温める日々
君の温もり 恋しくて恋しくて

どれだけ電話で 「好き」と言われたって
君によりかかることはできない
涙をぬぐった

君がいない夜だって
そう no more cry もう泣かないよ
がんばっているからねって 強くなるからねって

今度いつ会えるだろう それまでの電池は
抱きしめながら言った あなたの「愛してる」のひと言

君がいない夜だって
そう no more cry もう泣かないよ
がんばっているからねって 強くなるからねって
君も見ているだろう
この消えそうな三日月
つながっているからねって 愛しているからねって

三日月に手をのあした 君に届けこの想い


 それにしても、これって2006年にリリースされた曲だったんですね。今頃になってお気に入りだなんて、どんだけ時代から遅れているだって感じですな。ま、おじさんだからしょうがないんですけどね・・と、開き直る今日この頃でした
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ガマ王子vsザリガニ魔人

2009-09-24 | review
 小説やコミックが映画化されることが多いように、ミュージカルや芝居が映画化されることも多い。私のようになかなか劇場まで足を運ばない者には、わざわざ劇場まで行かなくてもテレビやDVDでストーリを知る機会が増えることになるから、それはそれでありがたいのだが、やっぱり舞台と映画では根本的に媒体が異なるのでどうしても芝居の方も観てみたいという欲求不満が溜まっていくことには違いがない。しかも、本屋に寄って原作の小説を買って読むのとは違って、それこそ中野じゃなくて本物のニューヨークのブロードウェイまで行かなければ見られない舞台も多いから、そう簡単に解消することができない欲求不満なのだから堪らない。
 先日感想を書いたパコと魔法の絵本もそんな作品の一つなのだが、幸いなことにスカパーで舞台の放送があり、この連休を利用してようやく録画を見ることができた。もちろん生で舞台を観るのとディスプレイで見るのが違うことは十分分かっているが、それはまあセカンドベストというものである。ともあれ、ラストシーンに至るまで既にストーリーは把握しているので、もしかして途中で飽きるのではないかと思っていたが、意外とすんなりと感情移入して最後まで見ることができた。もちろん映画ではCGを駆使してスピード感あふれる展開と豊かな色彩を見せていたが、それはそもそも技法が違うのだから舞台には望むべくもないものであり、そこを比較してみても仕方がない。そのかわり個性的なキャラクターを自分のものにしようと演技する俳優の息遣いが観客を楽しませてくれるのが舞台の醍醐味。それはテレビ画面を通じてもそこはかとなく伝わってくるものである。単純な話、映画には映画の、舞台には舞台の楽しみがあるという結論に行きつくのである。
 まあ、こんな当たり前のことをぐたぐたと書いていても仕方がないのであるが、とにかくスポーツでも舞台でもやっぱりライブがいいよなあとDVDを見ながら改めて感じたのであった。
 時間とお金がもっとあれば、あちこち行くんだけれどねえ。。。toto-BIG当たるの待つしかないのかあ。いつもいつも同じ結論で悲しいなあ
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真夏のオリオン

2009-07-11 | review
現代― 雨の降る海辺の町。
倉本いずみ(北川景子)は今、ひとりの人物を訪ねようとしていた。彼女の手には、英文で書かれた手紙が携えられている。アメリカから届いたその手紙は、こうはじまっている。
『あの夏、私の祖父が何を失い、何を手にしたのか―。それを知りたくて、こうして手紙を書いています』
差出人の祖父は、かつてアメリカ海軍で駆逐艦の艦長として日本と戦い、輝かしい戦歴を誇った。にもかかわらず、終戦後は一度としてあの戦争の思い出を語ったこともなく、当時の品も一切手元に残さなかったという。しかし、その祖父の遺品の中に、ただひとつ大切に保管されていたもの。それが手紙に同封されていた楽譜であった。古びた手書きの楽譜には、いずみの祖母・有沢志津子(北川景子・二役)のサインがあった。
いずみは過去を紐解くために、かつて日本海軍で潜水艦長を務めた祖父を知るただひとりの存命者・鈴木(鈴木瑞穂)を訪ねてきたのだ。海が一望出来る展望台で鈴木老人と対面した彼女は、こう問いかける。
「日本とアメリカは戦争をしていた……それって殺し合っていたってことですよね? なのに、どうしてこの楽譜が戦っていた相手の手に渡ったのか、なぜ60年以上も大事にしまわれてきたのか……」
「難しいことは何もない」そう言ってから鈴木老人は、いずみの疑問に答えるかのように遠い昔の記憶を語りはじめた。
「私たちはみんな一生懸命だった。ただ、それだけです。でも、あの夏、倉本艦長と共にした二週間を、私は忘れたことはありません」
いずみの眼下に広がる雨の向こうの海に、64年前の夏。1945年8月の紺碧の海原が広がり始めた ―

第二次世界大戦末期、沖縄南東海域―
日本海軍は、米海軍の燃料補給路を叩くためイ-77をはじめとする最後の潜水艦隊を配備していた。日本の戦局は日に日に悪化を辿り、米軍の本土上陸が近い今、この作戦は最後の防衛ラインともいえた。
イ-77の艦長・倉本孝行(玉木 宏)は、同作戦に参加するイ-81の艦長・有沢義彦(堂珍嘉邦)とは海軍兵学校からの親友であり、その妹・志津子とも互いに想いを寄せ合う仲であった。いつ戻るとも知れぬ作戦への出航前、志津子は倉本に手書きの楽譜を手渡した。イタリア語で『真夏のオリオン』と題されたその曲は、志津子が作ったもので、そこには倉本に宛てたメッセージが書き添えられていた。

『 ― オリオンよ、愛する人を導け』

冬の星座の代名詞であるオリオン座が、この季節に海上から見えるのは夜明けのほんのわずかな時間だけ。真夏に輝けば、それはこの上ない吉兆だと、船乗りの間では語り継がれている。志津子は倉本への想いをそのオリオンの輝きに託したのであった。
倉本たちが迎え撃つのは、米海軍駆逐艦パーシバル。艦長のマイク・スチュワート(デイビッド・ウィニング)は、米海軍きっての歴戦の勇士であり、日本軍の人間魚雷「回天」の攻撃で弟を失くしたことで、さらなる闘志を漲らせていた。スチュワート艦長は、大胆かつ周到な知略で日本側の二重三重の防衛ラインを切り裂き、ついに倉本たちの前衛に配備された有沢の潜水艦イ-81と対峙した。
日本海軍きっての潜水艦艦長として数々の駆逐艦を沈めて来た有沢もまた、スチュワート艦長の裏をかく戦術で応戦するが、スチュワート艦長の奇策の前に防衛ラインを突破されてしまう。
残された希望は、倉本たちイ-77の乗員たちに託された。
そして、イ-77と駆逐艦パーシバルは、互いの策敵範囲に相手の機影を捉えた。
おおらかな笑みを絶やさず、あたかもチェスの駒を進めるが如く一手一手冷静に相手の動きを読み、一転大胆な決断で敵の意表を突く倉本。対するは、豊富な戦歴をもとに一切の楽観と予断を排し、確実な勝利を手中に収めるまで執拗に、そして非情なまでの冷徹さで爆雷を投下するパーシバル艦長スチュワート。二人の艦長は、限られた本数の魚雷と爆雷を武器として、持ち得る限りの知力と体力の限りを尽くして戦い続ける。三昼夜にも及ぶ激戦の果てに劣勢に立たされたイ-77は甚大な損傷を受け、艦内酸素の残量がわずか1時間となり、まさに万策尽きたと思われた。
イ-77に同乗していた人間魚雷「回天」の特攻隊員たちは、最後の手段として倉本に出撃を乞う。しかし倉本は、はやる特攻隊員を抑え説き伏せた。「いいか、俺たちは死ぬために戦ってるんじゃない。生きるために戦ってるんだ。人間は、兵器じゃないんだ」
若き潜乗員たちの命を預かる倉本は、この戦局を切り抜けるために重大な決断を迫られる。志津子の想いが込められた『真夏のオリオン』の楽譜を胸に、倉本は起死回生の一手に賭けて希望への最後の戦いに臨んでいく。

命を賭した戦いの中でも、生きる希望を決して失わないイ-77潜水艦艦長、倉本孝行。
水面下の敵を徹底的に追い詰める駆逐艦パーシバル艦長、マイク・スチュワート。
1945年8月― 互いが知力と体力の限りをつくした最後の戦いの熱い火蓋が切られた。
紺碧の海で繰り広げられた男たちの誇り高き戦いが、今、64年の時を越えて語り継がれていく。


 携帯電話で読んでる人は途中で投げ出したくなっただろうなと思うほど長い引用で申し訳ない。オフィシャルサイトからの無断引用なので、せめて無断編集だけは避けたというささやかな配慮だったのでご容赦を。
 前置きが長くなったが、真夏のオリオンを見てきた。「亡国のイージス」、「終戦のローレライ」、「川の深さは」など、福井晴敏の作品好きな私としては見逃すわけはいかないというわけで、封切り早々の観賞だった。ストーリー展開はまあまあということなのだが、見始めてすぐに「ああ、これは『眼下の敵』の翻案だなと思ったし、ラストシーンも十分に予想の範囲内。しかも、キャストが最近の若者っぽいイケメンだらけで、戦争映画としてはちょっと違和感があるし、重厚感に欠ける。というわけで、面白くなかったわけではないが、正直言って、そんなに気合い入れて観に行くほどの作品ではないというところですかね。
 今は「Op.ローズダスト」を読んでいる。福井作品の場合、なかなか映画は原作を越えられないようです。それでもまた映画化されたら観に行っちゃうんですけどね。ファン心理ってやつですな。
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パコと魔法の絵本

2009-04-22 | review
 一部のマニアや評論家などを除けば、映画ってのは見ようと思っていてもタイミングが合わなくて、いつの間にか上映期間が終わっていたりする、そんな経験が一度や二度はあるものである。今回DVDで見た「パコと魔法の絵本」もそんな作品。まずはいつものように、DVDを販売しているサイトからの作品紹介を引用すると、

 舞台はちょっと変わった人たちが集まっている、とある病院。中でもわがまま放題のクソジジイ・大貫は病院中の嫌われ者。そんな大貫がある日パコという名の女の子と出会います。パコは同じ絵本を毎日楽しそうに読んでる女の子。ところが、大貫はそんな天使のような女の子まで自分の勘違いでぶってしまいます。でも、翌日になるとパコはケロっとした顔でまた大貫に近づいてきます。実はパコは記憶が1日しかもたない女の子だったのです。だから、大貫にぶたれたことも忘れてたのです。それを知った大貫はさすがに反省し、パコに謝ろうとそのほっぺに触れた時、驚くべきことが起こります。
 「おじさん、昨日もパコのほっぺに触ったよね?」
昨日のことを覚えていないはずのパコが大貫のことを覚えていたのです。しかも、触ったんじゃなくて、ぶったというのに。そこから大貫は自分の人生を反省し、パコのために何かしてあげられないかと思い始め、あることを思いつきます。それは、病院のみんなでパコが読んでる絵本のお芝居をしてあげること。そして、いよいよワクワクドキドキのお芝居が始まりますが、実はそこにはある運命が回り始めてるのでした・・・。


という内容なのです。
 正直言って出足は最悪。なんだかふざけたオヤジが出てきて、こいつが狂言回しだということはすぐに分かるのだが、ただギャグっぽいことをするだけで中身がない。その後次々に出てくる出演者もエピソードが満載な割にはキャラが軽すぎて嫌になってくる。が、これは失敗だったかなという辺りから、大貫とパコのからみが始まり、急展開していく。まあ、相変わらずおちゃらけていたりするのだが、不思議なことにこれが邪魔にならない。終盤はCGを駆使したスピード感あふれる芝居のシーンが続き、最後の最後でお約束ともいえる大どんでん返しがあるのだが、これがまた実に泣かせるのである。
 役者の誰がいいとか悪いとかいうよりも、監督の個性があふれた作品ではないだろうか。見終わった後には頭の中で可愛いパコちゃんの声が響くのである。
 げろ、げ~ろ。げろ、げ~ろ。

ぜひとも一度見てみてください。ハンカチ持って。
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すきっ腹ウォーキング

2008-12-13 | review
 毎年のことだから今さら驚くには当たらないのだが、今年も健康診断の結果はさんざんなものであった。健康診断結果の通知書には、成人病、もとい、今は生活習慣病と言うのだったかな、その生活習慣病のデパートと言っても過言ではないほどの数値がずらりと並んでいるのである。わずか数cmの差でメタボとの診断は免れたものの、そんなことで安心していいはずもない。原因は医者に教わるまでもなく、20歳代前半から比べれば15kgは増えてしまっている体重とほぼ毎日の大量飲酒である。一日2~3箱は吸っていたタバコはあっさりとやめてもう5年以上経つのだから、酒だってやめようと思えばやめられそうなものだが、こっちの方はなかなかそうもいかない。となれば運動でもして体重を減らすことくらいのことはしないとなあと珍しく今年は反省していた時に本屋で発見したのが「すきっ腹ウォーキング(ベースボールマガジン新書)」である。店頭でパラパラと立ち読みをしていたら、書いてあることは至極単純で分かりやすい。しかも、この本に書いてあることを実践すれば、夕食は何の制限もなく食べていいし、血圧や肝機能まで改善されるとあるではないか。その場で心動かされた私はきわめて珍しいことに、即翌日から実践を開始したのである。もっとも、本の方はその日には買わず、後日ネットで購入するという妙なタイムラグがあるところが、私らしいといえば私らしいのではあるが・・・。
 肝心の内容だが、ブックカバーには次のように書かれている。

 世にはさまざまな運動療法や食事療法が提唱されているものの、それぞれがつながりを持たず、「運動と食事の順序」については考えられていない。運動不足によりエネルギーの消費が減り、飽食により供給ばかりが増えた現代社会では、朝食を抜いて「すきっ腹」で体を動かす生活を続けることで、さまざまな生活習慣病が解消される。動く前には食べない!食べたら休む!そのメカニズムを解説する。

 まあ、これだけだとよく分からないかもしれないが、私なりに解説すると、要するに人間も他の動物と同じく餌を求めてすきっ腹のまま活動するのが自然なリズムであるとの基本的な認識から、(1)朝食を抜く、(2)すきっ腹の状態でウォーキング、(3)昼食は軽めにして食休み、(4)夕食は好きな物を食べるという生活パターンを提唱しているのである。朝食抜きというと、すぐに相撲取りは朝食を食べずに朝稽古をし、その後ちゃんこを食べるから太るという説が引き合いに出されるが、本書ではそれについても丁寧に説明をしている。ともあれ、もろもろは本を読んでいただくこととして、私は朝食を抜き、出勤時に2駅前で降りて20~30分ほど、万歩計の計測では大体3,000歩程度を歩くことを追加し、帰りもなるべく長く歩くように意識している。これまでサッカー観戦以外ではほとんど部屋から出なかった週末も、やはり朝食抜きで近所を20~30分ほどウォーキングをし始めた。本に書いてあるトレーニングメニューからするとまだまだ不足しているのかもしれないが、ここ3週間ほどで体重は1kg強ほど減少した。それがこのトレーニングの成果かどうかはまだ分からないが、ともかく3ケ月くらいは続けてみようかと思っている。
 目標体重まではまだ10kgほど落とさないといけないが、もし首尾よくいったならば年度末くらいにはまたこのブログで報告したいと思っている。もしその頃、報告がなかったら・・・
 そっとしておいてくださいね。
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幸せのレシピ

2008-10-15 | review
 原題は"No Reservations"ということなので、直訳すれば「予約なし」というところだろう。洋画のタイトルというのは邦題と原題ではずいぶん違うことが多いので、こうして比べてみるのが癖になっている。タイトル一つで観客の入りが随分と違うらしいから、配給会社の担当者もずいぶん頭を悩ませるのだろうと思うと比較も面白いものである。とまあ、いきなり本題からずれてしまったけれど、私の大好きな女優キャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演のラブ・ロマンスである。海外出張の際に機内で上映されていたのだが、機内食やらなにやらでちゃんと通しで見られなかった作品。その廉価版DVDを店頭で見かけたので、さっそく買ってみた。

 DVDパッケージによればストーリーはこう。

 鶉のトリュフソースにぴったりのお料理は?マンハッタンの高級レストランで料理長を務めるケイト・アームストロング(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、どんな仕事も完璧にこなす仕事人間。一方、レストランの副料理長としてやってきたニック・パーマー(アーロン・エッカート)は自由とオペラを愛する陽気な性格。そんなケイトが姪ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)を引き取ることになり物語は動き始める。セラピストに「人生にも料理の本があって、正確なレシピがあればいいのに」と告白するケイトだったが・・・。
 人生への溢れる愛情(と素晴らしい料理!)を織り交ぜながら、一人の女性がキッチン(仕事)より大きな世界を発見していく物語。美味しくてちょっとだけスパイスのきいた、ケイトのレストランで人生を変えてみませんか?


 正直言って出だしがちょっと重苦しい上に、主役のケイトがいかにも嫌われ者といった性格なので、取っ付きにくい展開である。そこに絡んでくるのが、かなり軽薄なイケメンなのだから、それだけで嫌になってしまう人も多いかもしれない。そんなストーリー展開を癒してくれるのが、やっぱりキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。実生活では料理なんてほとんどできなかったらしいキャサリンのシェフ姿に心ときめかせながら見ていく。そうしていくうちに彼女の心が解け始めて、ラブロマンスらしいハッピーな展開に・・・ということもなく、最後の最後まで3人の心がもつれていくのをハラハラしなががら見守ることになる。でも、ラストシーンはとても可愛く幸せな結末なので、ご心配なく。そこはアメリカ映画、水戸黄門と同じでちゃんと終わるべくして終わるのである。
 ということで、今回はちょっと辛口のレビューでしたが、機会があったらぜひ一度ご覧ください。ともかくキャサリン・ゼタ=ジョーンズ好きにはたまらない作品ですよ。
 ・・・って、しつこいかな
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愛の情熱に別れの接吻を

2008-06-04 | review
 CS放送で「傷だらけの天使」を再放送している。もう何回も再放送されているから、再々々々・・・放送くらいなのかもしれないけれど、飽きずにまた見ている。このブログの読者は同世代が多いので解説は不要かもしれないが、一応知らない人のために書いておくと、昭和49(1974)年に日本テレビ系で放映されたテレビドラマ。主演は萩原健一(木暮修:こぐれおさむ)と水谷豊(乾亨:いぬいあきら)で、ちょっと陳腐な言い方になるが、当時の青春群像を描いた人間ドラマであった。

 表題の「愛の情熱に別れの接吻を」はその第16話。DVD版の予告編によれば「修はディスコで知り合った少女と一夜を共にする。修にとってはゆきずりの相手だったが、 少女は真剣に修を愛してしまう。一方、修は仕事で、ホストクラブに潜入。修は客に大モテし、ホスト仲間の嫉妬をかう。だが…。」となっている。この回は2つの極端な愛情表現がからみあっており、全26話の中でも私の好きな回である。
 少女役のゲスト俳優は高橋洋子(写真は別の作品でのスチールです。)で、彼女が修を大好きになり、彼に近づく女性を殺してしまい、もう一人を殺そうとする直前に修に止められるのだが、これがまた何とも可愛くてせつない。ストーリーを冷静に眺めてみれば、「自己中心的な恋愛感情からの殺人及び殺人未遂事件」でしかないし、今時の言葉でいえば、ただのストーカーということになるのであろう。ただ、そこにあるのは一途に思いつめて不器用に愛情を全うしようとしているあどけないまでの少女の笑顔である。こんないい子に思われているんだから、もうあきらめて一緒になっちゃえばいいのにと思わずテレビに声をかけてしまいたくなる。
 リアルな事件に対してこんな考え方をしたら非難囂々なんだろうけれど、こういった愛情表現をそう簡単に切って捨てていいものだろうかと考えてしまう。愛している人を他人に奪われたくないという感情は恋愛の基本とも言うべきものだろう。それに愛情表現というのは、個人あるいはケースごとにそれぞれ不思議で特別なものである。だから、それを単に「ストーカー」とか「自己中心的」とかいう言葉でラべリングして、ただ「いけないこと」と捉えてしまうことに、単純さゆえの危うささえ感じてしまうのである。誰にでもそれぞれの人生が紡ぎあげてきた恋愛観というのがあり、それが自分らしさという形で愛情を表現していけば、他人には理解できない部分が生じるのは当然なのである。それが反社会的行動として処断されることがあるのもまた当然ではあるが、そうした愛情表現の底に潜み、外からはうかがい知ることもできない複雑で混沌とした愛情が存在することを容認しない世の中はどこかファシズムに通じるような気がするのである。私自身の恋愛観がちょっと屈折しているのかもしれないが・・・。

 ただまあ、正直に言えば、相手役が高橋洋子でなければそんな気持ちになったかどうか・・・。本当に私ってダメな奴ですねえ。
コメント (6)
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