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ニッポン チャチャチャ!!

納得できない事、頭にきた事、不可解な事、民主主義後進国ニッポンの“?”を感情的に綴っていきます。

今までだったら18禁のはず

2005年11月18日 02時51分09秒 | 生活
今日、山手線に乗っていて、久しぶりに中吊り広告のコピーに注目してしまいました。それは公共広告機構の広告ですが、本当に久しぶりにコピーパワーを感じました。それは
  カレシの
  元カノの
  元カレを
  知っていますか。
というもの。このキャッチコピーに続いて“エイズ検査は、あなたにも、必要です。”となっているのです。山手線の中吊り広告なので、ご覧になった方も多いと思います。ひょっとすると山手線以外の電車にも掲載されいるかもしれませんが…。
一般の商品広告では、ずいぶん前から「もう、コピーでモノ売れる時代ではない」など、元コピーライターの私としてはちょっと寂しい状況だったのですが、やっぱりこういうジャンルでは常にいいコピーが出てきますね。
それでは何がいいか? 私の分析です。まず“コンドームを使いなさい”というような説教的な口調じゃない。安心して“ナマ”で楽しむためにという現状追認の読み方もできる。そして“カレシの~”と始まる事から女性を明確にターゲットにして、日常の女性の盲点を衝いている点。そしてコピーのコンセプトはもちろん、頭の“カレシ”が漢字でなく、最後が“?”ではなく“。”で終わるところに感じるのですが、たぶん若い女性のコピーライターを採用した事による同世代感覚の日本語表記。さらに深読みするなら、男がエイズ拡大の原因というデータみたいなのがあって、それすら反映しているのではないかとも感じられます。
これで、どれだけエイズ検査を受ける女性が増えるかどうか、受け皿の問題もあるでしょうから直接の効果は“?”です。でも、女性の頭の中に“エイズへの近さ”を刷り込む効果は十分だと思います。そんな訳で久々に力強いコピーパワーを感じたのでした。
そしてもうひとつ驚いた事は、この広告を山手線(公共交通機関)の中吊り公告として企画し、掲載を許可した事です。今までだったら、どこかに「大人の配慮」があったと思うのですが、今回は性の問題をあらゆる人が目にする場所にさらすという決断があったと考えられます。
まあ、それだけエイズの危機が日本中で拡大しいるという事なのでしょう。

いいぞ! 品川区役所

2005年11月15日 19時12分18秒 | 生活
今日は、品川区役所前にある人工芝のサッカーコートを予約しに品川区役所に行きました。今週末の日曜の夜に予約が入っていないので、直接区役所で申し込みすれば利用できるという話でした。
まずはエレベーターホールにあるフロアー表示を見ていると、すっと係りのおじさんが寄ってきて「どちらに行かれますか」と聞かれたので「スポーツ係なんですけど」と言うと「それは7階です」と丁寧に即答。ならばと「実は品川区の地図も欲しいんですけど」と問いかけると「それなら5階の広報課でもらえます」と完璧な対応をしてくれました。
それで言われたとおりに7階のスポーツ課に行ってみると、こちらが何も言わないのに私を見つけた女性が席から立ち上がり「どういったご用件でしょうか?」とカウンターにやってきました。私は「サッカーコートが空いていると聞いたので予約にきたのですが」と答えると、すばやく用紙を出し「こちらに氏名、住所、電話番号をご記入ください」と言われ、必要事項を記入してその女性に戻すと「それでは登録しますので、しばらくお待ちください」とテキパキした対応でした。
ところが、予約の受付は使用日の一週間前までという規則に彼女が気づき、「そういう決まりになっていて、占有する予約は受け付けられなくて、一般開放になってしまうのです。気づくのが遅くて申し訳ありません」と丁寧に謝れてしまい、私も納得するしかありませんでした。
次に5階の広報に行くと、こちらでも私に気づいた女性が近づいてきて、用件をたずねてくるのです。私が「品川区の地図が欲しいのですが」と答えると、すぐに地図を出してくれて「区民の方ですか?それなら品川ガイドは必要ではありませんか?」とこちらも完璧な対応でした。
今日の品川区役所の対応は民間企業であれは当然の事ですが、そんな事に驚くというのも、それが出来ない公務員を沢山見てきたせいでしょう。以前、住民問題の取材でインタビューした人が「役人はパブリックサーバント(公共の召使い)」でなくてはならないと怒っていた事を思い出しました。そういった意味では、品川区役所ではその意識がとても高いと感じさせてくれました。
こういう積み重ねが「少なくとも地方税の納税はやむなし」と感じさせてくれるのですが、もっと納税できるほど収入が欲しい、というのが今の私の本心です。

携帯電話はよく分からん!

2005年11月12日 12時25分51秒 | 生活
最近感じている事のひとつに、携帯の端末が高くなったと感じるのです。以前から高い機種もあったけど、安い機種もあったと思うのですが、最近の携帯ショップではどれも機種変更で2万円以上という感じで、なかなか買い替えできません。
今、私の使っている携帯は前の機種が不調になった時、あわてて地元のdocomoショップで買い換えたものなのです。その時はデザインと料金、そして万歩計付きということで即決してしまったのですが、写メールが無いのは納得していたのですけど、使いはじめて送信メールの文字数が少ない事、カレンダーが無い事が不満になっているのです。それで、最近たまに機会があるとチェックしているのですけどねぇ…。
携帯事業者は、「その分、通話料金が安くなりましたよ」と言うのでしょう。でも、家族のいない私にはファミリー割引は適用されないし、その代わりに愛する人がたくさんいる(?)私にはauさんの割引では困ってしまうのです。
NTTの携帯を使っている私ですが、いまも請求書を見て感じたのですが、今回の請求額が高いんですよ。先月の使用量が多かったのは自覚しているので、これはしょうがないとは思っているのです。ところが、請求書の裏面を見ていつも感じるのは、一体、自分はどうすれば一番のコストパフォーマンスで携帯が使えるのか分からないという事なのです。
確かに、毎月明細が書かれていますが、「ひょっとすると、もっと安くなるのでは?」と感じるときが多いのですけど、同封のチラシ類には新しい割引プランの告知しか出ていないんですよね。そもそも自分の選んだ料金プランが、実際に割安かどうかを知ることが出来ない(ネットで調べられるのかもしれないけど、面倒くさい)んですよ。その上、自分が最初に契約した以降に出来たサービスについても良く分からない。よって、いつも必要以上の料金を払っているような気がしてしょうがないのです。こんな思いをしている人って案外多いのではないでしょうか?
そこで期待してしまうのが、携帯電話業界への新規参入企業の登場です。イー・モバイル以外はデータ通信がメインのようですが、とにかく業界に競争相手が増えるのは消費者にとってはいい事です。12年ぶりの参入ということですから、とにかくユーザーサービスの競争に努めてほしいものだと思います。
万一撤退するときには、利用者保護を徹底してほしてとも願います。なぜなら、私はPHSユーザーでもあるのですが、NTTのPHS撤退の代替サービスが携帯電話加入の特別割引では困ってしまうのです。すでに私は携帯を持っていますから。それよりも私のPHS専用のカードモデムを携帯用に取り替えてくれ! と言いたいのです。

もっと“愛”と“神”を

2005年10月26日 19時43分52秒 | 生活
「最近、男が“愛”を語りだしている!」と、ある女の子が驚いていました。彼女の真意は分かりませんが、私は歓迎すべき傾向ではないかと思います。
独身の私の口からあまり偉そうなことは言えませんが“愛”という感情なのか、意識なのか、状態なのか分からない事を、日本人の特に男性は、見つめ直す必要があると思います。「家族や子供が大事だ」という話はよく聞きますが「家族や子供を愛している」と話す人はとても少ないのではないでしょうか。
ジョンレノン・チルドレン(?)の私にとって“LOVE”という事は抵抗なく受け入れられる単語であり、もし、自分で曲の歌詞を書くとなったら必須の単語のように思っていました。
ところが大人になって、特に最近になって“愛”という言葉にはもっと深い意味があると感じるようになったのです。それをうまく説明できませんが、それは“言葉”という以上の機能を持っていると言うのでしょうか? 一種の呪文とも言えるのでしょうか? つまり“幸せ”を感じ、自分を成長させるスイッチを入れるキーワードだと捉えるようになったのです。
そんな言葉が日常で語られれば、とても人間関係が輝いていくように感じます。そして家庭内でも親が積極的にその言葉を使っていけば、当然のこことして子供たちは受け入れ、受け継いでいくのではないでしょうか?
ここまで書いて、ついでに書きたくなたのが“神”についてです。日本人は八百万の神を信じ、神頼みを日常としているのに“神”の話を避ける風潮を強く感じます。戦前の国家神道の反動やオウム事件の刺激が強かったので、余計に宗教の話に対してタブー視する傾向が強まっていると思います。ちなみに私は無宗派ですが“神”の本を読みつづけて勉強している最中です。
私は海外での生活や長期出張の経験がないので、これもやはり偉そうに言える事柄ではないのですが、自分のアイデンティティを語る上で宗教や神に対する明確な考えは必要ではないかと思うのです。つまり、海外では宗教をベースにして生活している国のほうが多いように感じるからです。
そして、第九条の改正論者は国際貢献をその根拠にしていますが、国際貢献とはいえミクロのレベルでは当然、人と人のつながりですよね。そこで相手の国の宗教にあわせて食べ物を変えたり衣服を変えることは簡単でも、自分の宗教を語れないばかりか、語るべき宗教が無いとなるといかがなものなのでしょうか?
確かにこれは揚げ足とりかもしれませんが、もっと日常的に社会の中で“神”を語ることができたら、これも素晴らしいことになると思いませんか? それは大袈裟にしても、個人個人の中で、みな“神”を感じる事ができたら、暮らしやすい世の中になると思うのです。
それを妨げているのが“常識”でしょう。しかし、いってみればそれが“トラウマ”なんだと私は思っています。一つひとつ自分の中のトラウマを消し去りながら“聖なる存在”への理解が迫られているいる時代なんだとヒシヒシ感じる最近の私でした。

小学校なのにそんなので大丈夫?

2005年10月22日 17時06分27秒 | 生活
昨日の夜、我が家のカレンダーになっている“ごみ リサイクルカレンター”を何気なく眺めていて気が付いたのですが、毎月の第2と第4土曜日に、近くの小学校で古着の回収をしているというのです。そんな事が行われているのも知らず、ちょうど、家の中の整理にかかっている私にとっては願ってもないことでした。
つまり、今日がその日なわけです。そこで私は詳細を聞きに品川清掃事務所に電話しました。「○○小学校に古着を持っていきたいのですが、小学校のどこで受け付けてくれるのですか? だれか担当の人がいるのですか?」と基本的なことを問い合わせたのですが、電話に出た人は私が見ているカレンダーと同じ内容を繰り返すだけで、「小学校の詳細についてはこちらでは分かりません」という答え。「おいおい、そんなんでいのかよ?」と感じつつ小学校へ向かいました。
身体が入らなくなったスーツを中心に古くなったシャツなんかを大きな紙袋に入れて小学校に向かいました。正門に着いてみると当然門は閉まっていて、用のある人は別の門のインターフォンを使ってくださいとなっていたので、その門へ向かいました。そしてカメラ付きのインターフォンで古着を持ってきた旨を伝えると、返答に出た人は「正門に回って中に入ってください」との事。「正門を入ったらどこへ行けばいいのですか?」と尋ねると要領を得ない答えで、どこに行けばどうなっている、担当の人間がどこにいる、校内に案内があるというような簡単な答えが出来ないのです。
そして正門に戻ってみると、驚いた事に門の脇にある扉は鍵がかかっていないで、簡単に敷地内に入れました。そして校舎に入ってみると受付に人はおらず、古着回収の案内も見当たりません。そしてしばらくすると初老の男性(たぶんインターフォンで応えた人)がやってきて、廊下の先で受け付けていると言うのです。それで私は校内に入るのですから来賓用のスリッパを取ろうとすると、今度は「いや違うんです」と言うのです。「じゃ、どうすればいいかハッキリ言え!」と思い、まともな会話の出来ない男性にキレて「裸足で行けばいいんでしょ!」とはき捨て、私は言われた場所に向かい用を済ませました。
それで思ったのですが、せっかく品川区はゴミの分別回収やリサイクルなどに積極的に取り組んでいるのに、横の連絡が取れてない状況は情けないと感じました。
ただ、それより問題なのは小学校です。たぶん、学校が休みの週に回収をやっていると思うのですが、それにしても危機管理が情けなさ過ぎますね。誰でも簡単に校内に入れるのですから。そして、とても危機対応できないと思われる人間しかいないという事も含め、これを児童の親が知ったら心配するのではないかと案じたのでした。
ずっと品川区を誉めていてのに、ちょと残念!と感じた第4土曜日でした。

今すぐに事件予防のシステムを

2005年10月21日 23時23分51秒 | 生活
特別編を終えましたので、今回からこのブログは通常の社会派(?)スタイルに戻ります。
復旧第一弾は、悲しいニュースについてです。昨日のテレビのニュースで見たのですが、ストーカー男に母娘の二人が刺され、4歳の娘が亡くなり、22歳の母親は重傷を負ったという事件に気が引かれました。
母親は、男と以前交際していて、交際のもつれが犯行の動機と見られているという内容でしたが、私が気になったのは、母親は男に危機感を感じていて、以前警察に相談していたという事。桶川の事件と同様の悲惨な事件がまた起こってしまったのです。
アサヒコムによると、母親は今年5月に警察を訪れ男について「別れてくれなくて困っている。自分の子供に危害が加えられる恐れがある。逮捕してほしい」と相談していたそうです。ところが警察は「具体的な被害内容の説明がなかった」と言っているそうなのです。
私がテレビでニュースを見た時は、警察関係者が「残念な結果になったが、対応に問題はなかった」と答えていました。事件にならないと警察は動いてくれないとはよく言われていることですが、確かに男女の事でもあり、警察は動きにくかったというか、動けない事は分かります。しかし、具体的な被害内容の説明がなかったから動けなかったとなると、刺されでもしない限り警察は動けないと言っているのと同じですよね。
実は今日、この問題を書こうと思って夜の8時頃家の近くを歩いていたら、住宅街の交差点でおまわりさんが3人で何かを警戒しているのです。何かと思っていたら、自転車の無灯火を取り締まっているみたいなのです。たしかに、自転車の無灯火は命にかかわる事故になる可能性があるので、厳しく取り締まるのは分かります。しかし、この事件の後なので強い違和感を感じました。
ストーカー犯罪が増加し、ドメスティックバイオレンス被害に遭った女性が身を隠すシェルターハウスが満員で新しく入る事ができないという今日、もはや警察は、そういった予防の相談を受け付ける場所ではないと明言するべきではないでしょうか?
個人の生命、自由及び幸福追求の権利は、最大の尊重をもってあたらなければならないと憲法で保障されている国民の権利です。しかし現在、国はその責務を果たしていない事になります。つまり、早急にこういった案件に対応する機関なりシステムを作らないと同じような事件が再発するのは目に見えています。
こんなところからも、本当にこの国は国民主権の国なのかと思えてしまうのです。第九条問題の論議もいいですけど、こんな日常的な国民の権利の尊重もしっかり論議してもらたいと思う私です。

税金についてPart2

2005年10月14日 19時28分29秒 | 生活
私の周囲で、前回の税金問題が評判だったので、その続編を書こうと思います。本人としては“ダイキュージョー問題”が気に入っていたのですが…。
まあそれは置いといて、具体的に書くと、私が外貨預金をしている銀行はC銀行です(全然具体的じゃないじゃないかと突っ込まないでください)。そこは以前、「リスクのある外貨預金を、あたかも確実に儲かるような印象を与える広告をしていてけしからん」として、大蔵省だったか財務省だったかが業務改善命令を出しているのです。たしか、それ以外にも「不適切な業務内容がある」という指摘もあったと記憶しています。これはC銀行に対して、国民を惑わしてはならぬというお上の裁きととらえる事ができますよね。
ということは、現在の財務省にとっては、C銀行はいかがわしい銀行ということですよね。それなのに預金者には、「それによって儲けたら税金を払いなさい」という事に私は違和感を感じてしまうのです。
言い換えると「覚醒剤は悪いものだ、だけどそれを売買して儲けたら税金を払いなさい」と言っているのと同じように聞こえるのです。これって、無茶なこじつけでしょうか?
いずれにしろ、国というのは本当に一生懸命に税金を持っていくように感じますよね。それも容赦なしに…。
それらなそれで、もっと一所懸命に税金の使い方を考えて欲しいものだと思います。ムダを省いて、必要なところに十分に注ぎ込む。そんな当たり前の事ができてると思えないから、国税についてはイチャモンといわれても文句を言いたくなってしまうのです。

なぜ義務教育で「税金」の授業がいないの?

2005年10月11日 23時50分50秒 | 生活
最近、小金を稼ぐ事ができました。それはパチンコでもなく宝くじでもなく「外貨預金」。なんか知らないうちに為替相場が動いて小遣いを稼げたのです。
しかし、簡単には喜べないのです。なぜなら、その儲けを申告しないといけないからです。外貨預金を始めた昨年は定期預金だったので、満期の時に税金が源泉されるといので問題は無かったのですが、今年の分は定期預金ではないので申告が必要なはずなのです。
そこで悩んでしまうのは、為替差益による儲けには税金がかかるというのは外貨預金を始めるときに知りました。しかし、利息分にも税金がかかるかどうかが定かではないのです。つまり、為替差益で儲けた分から利息の儲け分を引いてよいのかどうか私には分からないのです。
ということで今回の本題なのですが、なぜ、税金というのは納税者の方から調べないと分からない事ばかりなのでしょうか? 例えば外貨預金を始める場合、税の申告マニュアルのようなものを国税局が新規預金者全員に配るべきではないかと思うのです。
そもそも、社会保障を含め税金の実務について、私はこれまで誰からも教わってこなかったように記憶しています。小学校で「納税は国民の義務」という事を教わって以降、事あるごとに「そうなんだー!」と思い知らされた事の連続です。初めてバイトで税金が引かれていた時、初任給を貰ってみたら色々と天引きされていた時…。そしてフリーになって始めての確定申告の時には知らない事だらけで本当に困りました。
そんな経験から感じていた事があるのですが、それは“なぜ、義務教育の期間に税金や社会保障について教えないのか?”という事です。年金だって子供の頃から「将来必ず必要な事だ」と教育しておけば、多少、不払い率は減ると思うのですがねぇ。
せめて高校でも良いのですが、将来必ず必要な事なのですから、税金や社会保障の概要は学生の期間に認知させるべき事ではないかと思うのですけど、なぜそれが行われていないのでしょうか? “教えてもらっては困る”という意思がどこかで働いているとしか思えませんよね? それなのに国民の義務とは…。もの凄ーく違和感を感じませんか?

平成バブルの予感が…

2005年10月10日 21時28分14秒 | 生活
最近、解答率100%の事があります。それは私が「最近って、バブルの頃に似てきていない?」と質問したところ、すべての人が「そうだね」と答えているのです。もちろん正式なアンケートではないのでサンプル数はとても少ないですが、様々な業種の方々に聞いた結果です。
根拠は、私にくる仕事の内容といい形態といい、どちらもバブルの頃のようなオーダーがここ数ヵ月の間に続いている印象だったのです。実際に、様々な景気指数が上向いていたり、株式の商い数が史上最高を記録したり、銀座も活気が戻ってきたという話からも、おそらく本当に景気は良くなってきているのでしょう。
もしこれが新しいバブルの予兆だとしたら、気になるのは、また前回のバブルのように日本中が浮かれはしないかということです。
昨年末、大学の友人に会った時、彼は「うちの会社は、やっとバブルの負債をすべて返し終わった、これからやっと新しい事ができる」と言っていたのを思い出します。彼の会社はサービス業の有名な会社ですが、確かに昨年末あたりから新規店舗オープンを目にする機会があり、「この会社は、これからはプラス要素しか無いんだなぁ」と感じたのを覚えています。
たぶん今回は、前回のバブル崩壊を経験した会社、そしてその幹部がまだ現役であるケースが多いと思います。そこで、前回のバブルの反省をしっかりしたのか、それとも反省もせずにお茶を濁しただけなのか、その差はとてつもなく大きくなるでしょう。というより、シビアな生存競争が始まるような気がします。
私の住んでいる街の商店街では、どんどん個人商店が店を閉めていくのですが、その後に入るのが何がしかのフランチャイズチェーンというケースが多く(特にドラックストアーが目立ちます)、当然、商店街の持っていた個性は薄れていって、どこに行っても同じような店ばかりで、他の街の商店街との違いも薄れていってしまいますよね。つまり、自ら首を締めるような過当競争を作ってしまっているとしか思えないのです。私には、もうちょっと工夫の余地があると思うのですが…。
そこに新たなバブルの風か吹けば、先の友人の会社のバブル時のように、さらに出店を続け、気が付けば負債しか残らなかったという同じ過ちをするところが多くなる気がしてなりません。
そんな中、残っていくは、やはり“オンリーワン”を追求していく会社ではないかと予想しているのですが…。果たして結果はどうなるのか? とりあえず私としては、さらなる景気の上昇は期待しています。

続・私の理想はシュタイナー教育

2005年10月07日 19時26分19秒 | 生活
前回、品川区の小中一貫教育について書きましたが、一日おいて考えてみるとシュタイナー教育を例えにしたのはやりすぎたったと感じています。
絶対的なものだと思っていた6・3制を見直すという事で単純にシュタイナー教育に結び付けてしまっただけで、内容は全然違うというか、むしろ逆の考えと言っていいと思います。
シュタイナー教育の素晴らしいことのひとつが12年の一貫教育という事と、その間担任の先生がそのまま変わらないという事です。とても日本では信じられない事ですが、それが実践されていて、先生としても生涯に数クラスしか教える事が出来ないというのです。当然、生徒と先生のつながりはとても深く、クラスの生徒一人ひとりの成長や変化を先生はずーっと細やかな目で見続けるそうです。
それを可能にしているのが、先生の人格的な素晴らしさだと思います。たしかシュタイナー学校の先生になるにはとても大変なハードルがあったように記憶しています。つまり、日本のように教職も取っておいたから先生になれる、というわけではなく、本人の努力や成績だけではなく、その人格面においても厳しい審査があったはずです。
そういった意味では、今回の品川区の学校制度の見直しは9年間を細分化するのですから、それを見ただけでも逆の考えと言えます。ただ、将来を担う子供たちの実情を考え、その精神の変化とシステムとのバランスを見直したというのは評価できる事だと言えるでしょう。
たしか品川区は幼稚園だか小学校と同じ建物に老人ホームを入れ、相互の交流を演出するというようなこともやっていたように記憶しています。国が国民不在の政策ばかり進めていく中、品川区のそういった人間の“心”に着目した活動をしているのを見ると、税金を払ってもいいかなと感じますが、とても国税は払う気になれません。