注文の多い料理店 (雑記帳by山猫)

やる気が出た時に更新します。

お正月は1年で一番退屈な日

2008年01月02日 | 中年ドラマシリーズ
あけましておめでとう・・・と言っても、本気でメデタイなんて思ったことがない。

正月って本当に退屈なんですよね。

テレビを見ていても、出てくる芸能人はくだらないのばかりだし・・・

中学生の時、父の友人の家で餅つきをしたのを見に行ったことがある。

古い農家の納屋から、オジサンたちが臼を探しに行ったのに私は付いて行った。

薄暗い納屋の奥にその臼はあった。

私は見てはいけないものを見てしまった・・・臼の中で巨大なドブネズミがお亡くなりになていた。

オジサンは死んだネズミを手で掴んで外に捨てると、臼を外に出してバケツに水を汲んできて簡単に水洗いをした。

その後すぐに餅つきが始まったのだった。

私の頭はパニック状態。 それ、消毒もしないで1回水で流した程度で良いのか?

今までネズミが死んでたところで餅がつかれているこの事実。

父の友人は今でも正月前に自家製の餅を送ってきてくれるが、私はあの臼でついた餅だと知っているので食べられない。

あれから30年近くも経っているのに気持ちが悪くて食べられないのだった。

死んだネズミのエキスがあの臼に染み付いてしまっているような気がしてダメなのだった。

今年も餅を送ってもらったわけだが、密かに捨てることになる。

食べ物を粗末にしてはいけないのは分かっているけど、この事実を知って食べられる人がいたら称賛します。

きっと来年も送ってきてくれるんだろうなあ・・・あの臼で出来た餅を。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供の勇気

2006年12月31日 | 中年ドラマシリーズ
私が子供の頃には、冬でも外で遊んでた子供が多かった。

私がまだ小学生低学年の頃、近所には年上のお兄さんしか遊び相手がいなかった。

そのお兄さんたちは、よく私の面倒を見てくれたものだった。

言ってみれば、リーダーの妹分みたいな存在だったわけだ。

リーダーのお兄ちゃんは、私の両親から絶大な信頼を受けていたものだった。

子供というものは時として、とんでもない遊びを考え付くものである。

その日の遊び場は、近所の畑の中だった。

畑の持ち主は、この付近の地主のおじさんで、おじさんは子供好きだったので、

畑の中で遊んでも怒られなかった。

畑の隅に肥溜めがあった。 かなり年季が入っているやつで、蓋はしていなかった。

今考えてみたらかなり危険な代物だ、町内会でどうにかするように通達するはずだ。

男の子の中の一人が、その肥溜めを助走をつけて飛び越したのだ。

そのあたりから危険な遊びは始まった。

みんなが次々に飛び越えたとき、残っていたのは私だけだった。

他の兄ちゃんたちがやめるように説得したにもかかわらず、私はすっかりその気になっていた。

これを飛び越えると、味噌っかすではなく一人前に扱ってもらえるような気がしたのだった。

他の静止を振り切って、私は人より長い助走をつけてジャンプした。

足が肥溜めのふちのコンクリートにかかったときにいきなりバランスを崩して、そのまま肥溜めの中へ転落した。

すぐさまリーダーの兄ちゃんが私の襟首をつかんで引き上げてくれた。

他の兄ちゃんたちは声も出なかったらしい。そのときの私とリーダーの兄ちゃんの状態は想像を絶するものがあったと思う。

その後のことは良く覚えていない。

確か、私の服を兄ちゃんが田んぼの小川で洗って、棒の先に引っ掛けて帰ったのは覚えている。

外風呂だったのが幸いしていたように思う。

この一件が学校の職員会議の議題に上がって、バカな遊びの禁止令が出た。

肥溜めには板の蓋がされて、そこは安全地帯になった。

今考えると、本当にバカな遊びをやっていたものだなあって思うよ。

早く一人前扱いされたいと背伸びをした結果、とんでもないことになってしまった。

私にとっては遊びではなく、自身の名誉をかけた真剣勝負の場だったのだった。

それでもやっぱりバカだな~と思います。

汚い話ですみません・・・





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真夜中に訪れた人

2006年08月27日 | 中年ドラマシリーズ
私の母は人付き合いが良い方で、友人知人が多かった。

だからなのか、なんなのか・・・こういうことがあった。

ある日、ず~っと会っていなかった人が、夢の中に出てきたという。

いつのまにか自分は駅のホームに立っていて、まわりを見まわして見ると、
そこは知らない、来たこともない駅だったそうだ。

駅には誰もいなかった。

少し不安になって、母は駅から出ようとした時に、汽車が入って来た。

その汽車は今では走っていないような旧式の機関車で、窓から見えた中の造りも
終戦直後を思わせるようなものだったという。

改札を出ようとした時、呼びとめられた。

汽車の中から、乗客の男性が呼んでいたのだった。

良く見ると友人のご主人だった。

そこがどこなのかわからないまま、とりあえず挨拶をしたのだが、
いつもと違うご主人の様子が気になった。

「どちらかおでかけですか?」

いつもの挨拶と変わらないような挨拶。

「・・・・・」

ご主人は黙っていた。

黙っているのだが、何か言いたそうな表情で母を見ていたそうだ。
汽車が走り出した時、彼は母に言った。

「家内と弥生をよろしく・・・」

走り出した汽車をそのまま見送って、まわりの景色が明るくなった頃
母は夢を見ていたことに気がついた。

「変でしょう? Kさんのダンナが出てきたの・・・汽車に乗って行っちゃったの」
当時、Kさんは横浜に住んでいたが、私たちは九州に引っ越したばかりだった。

Kさんのご主人が心臓疾患で亡くなったという知らせが届いたのは、少しあとだった。

母の夢に出てくる少し前に亡くなっていた。

同じようなことが何度かあったような気がする。

母は数年前に亡くなった。 亡くなる直前、母のもとにはそれらの人たちが
訪ねてきたらしい。

母が亡くなってすぐ、母の小学校からの親友という人が亡くなった。

連れて行かれたのか・・・という話になったが、それはわからない。

母自身は親戚の人の夢の中に出て来たらしい。

私のところにはあらわれたことがない。

なんだか水臭いような気もする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土葬か火葬か?・・・の続き

2006年08月04日 | 中年ドラマシリーズ
前回、子供の頃のことを書いたものだが、その時の土葬には忘れたくても忘れられない後日談がある。

埋葬が終わると、そこには棺の長さに比例した土饅頭が出来る。

月日がたって、そのお墓が平らになりかけた頃の話しだ。

私た悪ガキどもは寺の敷地を縄張りにして遊んでいた。
缶けりなどをやった時には隠れる場所がたくさんありすぎて日が暮れるまで
同じ子が鬼をやらされてたこともあって、子供の間でルールができていた。

足の遅い低学年の子供には不利になるし、皆が同じように楽しく遊べなければ、
その遊びは成立しなかった。

それはグループの中のリーダー格の年長さんの役目であり、彼はいつも遊びの中に工夫を凝らしていた。

彼自身が”みそっかす”時代から培った経験が、現在のリーダーの素質を作り出していた。

今の子供たちはどうだろうか?

力のない弱い子をいじめこそすれ庇うことなく傍観している子が多い。
自分の優位性を誇示するだけで、子供社会の基本のルールをどうやってまなんでいるのだろう?

大人と子供の縦の関係と、子供同士の横の関係を、この時期に学ばなければ
人間関係がうまくいかないのではないのではないのかと心配になる。

「御主人様」などと言わせて弱い女性を思い通りにしようなどという輩は
こうした人間関係を作る過程に問題がなかったか?

ジャイアンの方がまだマシだな。

大人になった現在、人望のない人間は子供の頃はどうだったのか、人望のない人に出会うたびに思う。

私が知る限り、若い医師によく見かける。

全部がそうだとは言わないが、プライド(内容が伴わない自尊心)が邪魔して
先輩や熟練のナースの忠告が中傷にきこえるらしい。

学びの場は学校の授業だけではないのだ。

さあ・・・話がそれました。

缶けりをやってた時、そろそろ”みそっかす”から脱出しかけていた私は、
リーダーのお兄ちゃんと一緒に逃げていた。

彼は私より4歳年上で、子供の頃の4歳上というのはかなり大人に思えたものだ。

誰かが缶を蹴ったと同時に、繋がれていた子供たちが蜘蛛の子を散らすようにいっせいに逃げた。

私も兄ちゃんと逃げたのだが、信じられないことがこの後おこる。

私たちが例の土葬墓の上を走り抜けたときに、あっという間にそれが起きた。

リーダーの兄ちゃんの足が墓のある地面に陥没したのだった。
つまり、土葬した墓の棺の蓋が腐ってきて足を突っ込んでしまったわけだ。

一瞬、何が起きたのか、考える暇もなく私たちは叫びながら逃げた。
カンケリはそこでお開きになった。

リーダーの兄ちゃんはその後、1週間ほど学校を休んだらしい。
らしい・・・というのは、私は隣町の学校に行ってたから知らなかったのだった。

気になった・・・気にするな、というのが無理な話なのだ。

その後、この一件がどうしても忘れられず、30年も過ぎた頃、当時の遊び仲間と
”同窓会”をやることになった。

リーダーの彼は”良いおじさん”になっていた。 

あのときの話がでた。 

「あのときね~びっくりしたよね~ホント!」

「私なんか死ぬかとおもったよ」 と言ったら・・・

「死んでたのは中の人でさ、オレふんじまったよ」 (やっぱり覚えてた)

学校を休んだのは水疱瘡が原因だったという。 

本人が意外とケロッとしていたので、30年の胸のつっかえが嘘のようにとれてしまった。

でも、あの時、彼を助けないで逃げたあの「罪悪感」は消えることがない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土葬か火葬か?(その1)

2006年07月26日 | 中年ドラマシリーズ

今日はとんでもなく暗い内容で、ちょっと重たいかもしれません(気分が)

私はどうも子供の頃から人の「死生感」というものに関心を持っていた。
その割には、子供の頃に大人に向かって「死んだらどうなるの?」などという
子供の好奇心的な質問はしたことがなかったらしい。

なぜかと言うと”知ってた”からに他ならない。
そう・・・多分、私はその後のことを知ってたのだと思う。
だから、「天国にいきますよ~」なんて大人の気休めを本気にしてなかった。

子供だと思って気休めを言ったり、バカにしてはいけない。
わからない時はわからないと言えば子供はどうにか納得するものだ。

私は子供らしさの無い俗に言う「可愛げのない子供」だった。

そういう根拠のない適当な答えを用意する大人(しかも無信仰なヤツ)に
「ふ~ん、そんなに良い所なの? 何度か行ったことがあるの?」と
切りかえしたことがあった。

大抵は呆れるか、黙るか、冗談で笑い飛ばすかだった。

話がそれたが、私が子供の頃、昭和40年代頃までだが、一般の墓地でも
土葬は可能だった。   許可が下りていたのだ。

小学校の中学年くらいの時、私はお寺の敷地、墓地を突っ切って通学していた。
寺の敷地に入ったところの一角に大きな穴が掘られているのを見た。

それは墓地の通路からすぐの、ほんの1.5畳くらいの広さの敷地で、
穴は縦長に掘られていて、決して深くなかったと記憶している。

その日は土曜日で昼には帰宅できたのだが、帰りにそこを通りかかった時に
ちょうど埋葬が始まろうとしていた。

私と友人は黙ってその光景を見ていた。 

亡くなったのは若い(40代くらい?)の男性だった。
棺が閉じられると、それほど深くもない穴に下ろされた。
遺族らしき男性がスコップで土をかぶせていく。
そして縦に長い山が出来た。  墓石はなく、柱のような棒と花がその周りをとりまいた。

その時、一緒にいた友人の家は、その新しい墓から目と鼻の先にあった。
竹を組んで出来た塀を隔てたところにあったので、家から土葬墓は丸見えの状態だった。

その友人のおばさん曰く、とにかく臭いのだそうだ。
深く埋めれば問題ないらしいが、墓穴が浅いととんでもないことになる。

木で出来た棺は経年により腐り、土の重さによって崩れる。
そこで、中で腐乱した遺体のガスが一気に外へ流れ出て近隣住民の生活に影響を及ぼすことになる。

やはり私が小学生の時、叔母が住んでいたアパートの裏がすぐ墓地だった。
他のアパートよりも家賃が安いのは、風向きによって腐敗臭が漂ってくるからだった。
そんなわけで、そこのアパートは人の入れ替わりが激しかった。
叔母も1年もしないうちに引っ越した。

私は数年前に子供の頃過ごしたその町に行ってみた。
友人の家はすでになく、墓地もきれいに区画整理されて公園のようになっていた。

掘り返されてしまうのなら、最初から火葬にすれば良かったのに・・・・などと
考えながら墓地を散策していた。

今の日本では土葬は限られている。 衛生上の問題があるからだ。
特に、伝染病などで死んだ場合は本人、家族の意向はどうあれ焼くしかない。

日本で土葬ができるとしたら、天皇か泉重千代翁くらいじゃないかな。

この写真はドイツにいた時に撮った墓地公園の風景です。

ドイツは基本的に土葬だけど、火葬も普及してきています。

まあ、この話はまたこの次にでも・・・・






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メル友を募集した日

2006年04月23日 | 中年ドラマシリーズ
もうずいぶんと前のこと。

私がパソコンを始めたのは友人の影響を受けてのことだった。
その当時の最新式のマシンはwindows95で、今のとは雲泥の差がある。
とにかく遅い・・・気の遠くなるようなスローテンポ。

インターネットは電話回線で、これまた遅い・・・まるでナメクジのようです。
それでもって、すぐに落ちる(最悪)

パソコンについては全くのドシロウトだった私は、プロバイダーをAOLに決めた。
その辺の電気屋に接続ソフトが置いてあって、これで簡単に接続の設定が出来てしまうという
ドシロウトにとっては、まことにありがたいものだった。

それで最初の2年くらいはAOLを利用していた。 ホント簡単に接続できましたよ。

当時、私は知らなかったのだが、世間ではこんな風評があった。

「ナンパするならAOL」 

どこのプロバイダーでも「メル友募集」コーナーなどあったのではないだろうか、
べつにAOLだから特別だとも思えなかった。

「インターネットを始めたのなら、メールやらなきゃ面白くないよ」という
職場の上司の有難い?アドバイスに従って、私もメールとやらをやってみることにした。
この上司は新モノ好きで面白いことが好きで、他人に勧める時には自分でまず体験してからという
念の入れようだった。

当時のAOLには「メル友」と「恋人」の募集要項が分かれていて、目的がはっきりしていた・・・はずだ。

私は「メル友」募集の方に登録してみた。

「先生~メル友募集しました~!」と職場で上司に報告。
べつに報告する義務などなかったのだが、話のネタに話してみる。

「面白い話題があると良いねえ・・・」と興味津々の先生。

翌日の晩、パソコンを立ち上げて私は仰天した。

メールが100通以上も来ていたのだった。
正確にトータルして全部で何通来たのかは覚えていない。

その話をすると「ええ~!?」といって驚く上司。
「ねえ、年齢とかごまかしてない?」などと聞いてくる。

ごまかしてなどいなかった。 当時は30代の後半だった。

貰ったメールの半分以上は、いわゆる「ナンパ」目的。

「お互い割り切ったお付き合いをしましょう」なんて書いてくるわけで、

「結婚していてもトキメキたいです」なんてのも多かった。
(勝手にときめいてくれ)

「まずは友達から・・・」
(から・・・って、そこから先、何を期待してるんですか?)

「お会いしましょう、・・・で待ってます」
(誰が行くかよ、ナニ考えてるんだか!?)

「実年齢より若く見られます」
(べつに見てくれなんかどうでも良いです、会うわけじゃないですから・・・)

まあ、そんなので変なのが多かったけど、極めつけは・・・

「医師です」 ・・・ってヤツね。

これはもうバレバレです。
理解不能などこから仕入れて来たのかわからないような専門用語を書き連ねてるのは
多分、他でもやってるんじゃないかな。

そんなのに騙される人っているのかな? いや、いたのだと思う。

医者だと言えば簡単にナンパが出来ると思ったら大間違いだ。
医者だってモテないヤツはザラにいる。

結局、頂いたメールのうち3人くらいお返事を差し上げた。
今でも続いているのは話題に事欠かないからなのか、
それとも、あまりののんびりペースで楽だからなのか・・・私には、その両方だ。

今ではAOLは「恋人募集」も「メル友募集」のコーナーは無くなっている。

募集なんかはどうでも良いけど、その他のコンテンツは興味深くて面白いものが多かったので、
後ろ髪ひかれるものがあった。

「実際にAOLで出会って結婚した人もいたんだろうねえ・・・」 

その当時使っていたPCは今では使ってないものの、捨てるには忍びなく
押入れの中で眠っている。
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疫病神に愛された男

2005年09月24日 | 中年ドラマシリーズ

20代の頃の話、通いつめている喫茶店があった。

同じく通ってきている30歳くらいの痩身の男性がいた。
物静かで穏やかな雰囲気を持つ人だった。

時代劇に出てくる浪人モノが似合いそうな感じだった。
言葉を交わすようになったのは、知り合ってから半年くらい経ってからだったと思う。

ある日、彼が履歴書を書いているのに気がついた。 求職中らしかった。

当時は、今ほど不況でもなかったので仕事はすぐに見つかり面接にこぎ着けて
めでたく就職のはこびとなった。

彼の勤めぶりはきわめて真面目だったと思う。

就職して一年も経たないうちに営業成績は上位に入っていたらしい。

そんなある日、彼が例の喫茶店で履歴書を書いていた。
訊ねてみると、会社が不渡り手形をだしたとかで倒産したというのだった。

勤めにも慣れて仕事も面白くなってきた、さあ・・・結婚でもと
考えはじめたころのできごとだった。

半月もしないうちに彼は次なる就職先を見つけた。

勤務先が少し遠かったため、アパートを借りてこれで安心と思った矢先の出来事。
朝、出勤したら会社の前に人だかりが出来ていた。
中に入ってみると、社長はすでに失踪、専務が債権者に囲まれていたらしい。

その後、同じようなことが2度ほど繰り返された。

その間、彼は失業保険で生活をしていた。

彼が趣味で所属していた音楽サークルもトラブルが発生して解散。

公私にわたって彼がトラブルのタネになったことは一度もなかったのだが・・・
結果はいつもこんなだった。

ある夏の終わり、観測史上2番目というものすごい台風が九州に上陸したときのこと、
私の家は全壊し、車の屋根は落ちたカワラでボコボコになってしまった。
家を修理するあいだ、私の家族はホテル暮らしをしていた。

メチャメチャに壊れた瓦礫の下でベルが鳴った。
どうやら、家は壊れても、電話は無事だったようだ。

受話器を取ると・・・

「台風どうだった~?」という彼の声が聞こえてきた。

台風が上陸する前日、彼はうちに遊びに来ていた。
あまりにも条件がそろいすぎてはいないか?
これをどう理解したらよかったんだろう?

次の日、彼は見舞いを持ってあらわれた。
なにかと心配してくれているのだが、自分は大丈夫だったのだろうか?
不運に慣れてしまっている彼は、人の不運をフォローするのが上手かった。

そんな彼が結婚したのは、うちがぶっ壊れた翌年だったと思う。
誰もが彼の将来を心配したものだが、めでたいお話しなので喜んだものだった。
教会で結婚式を挙げて新しい生活が始まった。

彼は自分で商売を始めて、それが波に乗ったころ
私は家を引っ越して、つきあいがとぎれてしまった。

数年前、突然手紙が来た。 差出人には覚えがあった、懐かしい名前だ。
離婚して仕事も変わったのだという内容だった。
どこまでも星まわりの悪い男だった。

私が知っている中で、彼が勤めてつぶれなかったところは自衛隊だが
もし、そのまま勤め続けたら自衛隊もつぶれてたのだろうか?
つぶれる前に彼が退職してくれたのは自衛隊にとってはラッキーだったかもしれない。

その後、彼からの連絡はとだえてしまった・・・
今、どこでどうしているんだろう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未知との遭遇

2005年09月20日 | 中年ドラマシリーズ
真実はいつも予告もなくやってくる

ある日、花屋の前を通りかかった時のこと。
「ゼラニウム」という小さな花に目がとまった。

知らなかった・・・・
その時まで「金属の一種」だと思っていた名前が
実は植物の名前だったなんて・・・

ついでに、「シンビジウム」も植物だったらしい・・・。

(こんなんで、よくも受験に失敗しなかったと思う)

 

学生生活も終わりに近づいてきた頃、友人との会食中。
サラダのなかにアスパラガスが入っていた。

「私、アスパラガス好きなの」といって私の皿のアスパラを
奪い取った友人の言葉に衝撃を受ける。

私はその時まで、「ヘリウムガス」と同じ
気体の一種だと思っていた。

まさか食べ物だったなんて・・・・

アスパラとアスパラガスは別物じゃなかったらしい。

(こんなんで、卒業できたかと思うと・・・冷汗)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピンポンダッシュ

2005年09月19日 | 中年ドラマシリーズ

子供の頃に誰でも一度は経験するイタズラだ。

小学生の時、誘拐事件があった。確か「吉伸ちゃん事件」だったと思う。
そんなことがあったので、学校は児童の登下校の際、危なくないようにと地域によってグループ分けをして児童の安全をはかった。
 
私が所属していた班は5人、どう見ても身代金など取れそうにもない家の子ばかりだった。
それが、毎朝一緒になって学校に行く。帰りもおなじことだった・・・と言いたいが、帰りだけは違ってた。 
今では学習塾など小学生でも当たり前の光景だが、昭和40年代は塾に行く子は、
有名私立校を狙ってるか、学校の勉強について来れないおバカな子のどちらかに決まってた。

だから、学校が終わって暇を持て余している小学生が学校からまっすぐ帰ってくるはずがないのだった。

私たち5人は帰る道々通りかかった家中の呼び鈴を押しては逃げるのだが、その家の
人が玄関まで出てくるのを確認してから逃げるのが、私たちのルールだった。

 
ある土曜日、お昼前に下校した5人がいつものように同じ道をふざけながら歩いてた。
交番を通りすぎたところあたりから、いつもの遊びが始まった。

そこの家は農家で、門が大きくて玄関からは一直線に歩いていけた。そしてグループ
の中のリーダー格の司くんが呼び鈴を押した時、信じられないことが起こった。
門のかげからものすごい形相のパジャマを着た男がバットを振り回しながら追いかけ
てきたのだ。
私たちは一斉に逃げた。頭の中はパニックだ。

パジャママンは下駄をはいているにもかかわらず速かった。
5人がそれぞれ違う方向へ逃げていれば良かったのだが、同じ方向に走っていた。

ピラニアのいる河を草食動物が渡る時、1頭が犠牲になってその隙に他の集団が
河を渡る光景をテレビで見たことがある。
それと同じことが起きた。 

5人のうちのひとり、斎藤くんがパジャママンに捕まった。
その隙に他の4人は無事に逃げることが出来た。
斎藤くんがどうなったか話し合った結果、もう一度、あの家に行ってみることにした。

家の門は閉まっていて、中は覗えなかった。 その夜は寝られなかった。
「もしかして殺されてるんじゃないかな」そんな気がした。

月曜日、斎藤くんは集団登校の集合場所にあらわれなかった。

私たちの恐怖心と罪悪感がピークに達したのはまさにこの時だ。
遅刻するのもかまわず、4人で斎藤くんの家に行ってみた。 

彼の家は材木屋で、家のまわりは材木だらけで、どこが玄関だかわからないような家だった。 

出てきたお母さんの話しでは、土曜の夜中に寝ぼけてトイレに落ち、上腕骨を骨折
して入院しているという・・・便器の中にスリッパが落ちそうになったのを止めようとして
足を滑らせ転落し、その瞬間便器に腕を打ちつけたのだそうだが・・・・
どこまでも運のない子だった。

パジャママンはすぐに解放してくれたそうだ。
私たちが呼び鈴を押す前に、他の誰かに2回やられてたので、今度こそ捕まえて
やろうと思って待ち構えていたらしい。 3回目に私たちが来たわけだ。
実際に捕まえて見ると、要領の悪い、トロい子だったので拍子抜けしたに違いない。

斎藤くんの家はその後、商売がうまくいかず夜逃げ同然に引っ越していった。
3年生になると同時に、私は転校したので他の3人とも会っていない

(もう35年以上も昔の出来事です。本当にトンデモないガキでしたわ・・・)

(なお登場人物は当時は未成年であったため仮名です・・・意味無いと思うけど)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする