七事式のうちの廻り花(まわりばな)。
花の入れ方の修練を目的としたもの。主客とも順番に花を入れていく。他の式と異なりお茶を点てて喫するということがない。人数に約束事は無いが、5人が適当。床の中釘に水を八分ほど入れた花入をかける。置花入の場合もある。
掲頌は、「色即是空凝思量即背/しきそくぜくうしりょうをこらせばすなわちそむく」
色即是空は般若心経の一節で、“色”は複雑な結合によって刻々変わり本来実有のものではない、万物もまた本来色のように“空”であって、美しいこともただ一時の迷いに過ぎず、無一物中にあって無尽蔵の興趣を生じる、との意味。
花を入れる時に、この方が美しいかなどと迷って色々と思量を巡らせたり、技巧を凝らしたりすると真実から遠ざかり、却って真実に背いてしまう。執着の無い心で花を入れることが求められています。
利休様も、七則の中で、「花は野の花のように」としています。茶人は花の性質に逆らうことなく、明日はもう枯れてしまう花を全身全霊を傾けて生ける、その真剣さを教えている式だそうです。
廻り花では、自分が挿した花が床に存在するのはほんのいっときです。ひとつの花入を使って、前の人の入れた花をあげ、自分の選んだ花を入れていくことを順次繰り返します。なんだか儚いといつも思い、そう思うと大切に生けなくてはとつくづく思います。
花を選ぶことを花づもりといいますが、私はいつも迷います。この掲頌からすれば本来迷ってはいけないのですが、見たことのない様々な花があって先生に名前を聞いてしまったり、こっちがいいかあっちがいいかと色々な花を組み合わせてみたりします。フラワーアレンジメントを習った私ですが、茶花として使われる花は野に咲くかわいらしいものが多く、花入には剣山とかオアシス(花を挿すスポンジ)など入っていないので、上手に挿さないと花がくるくる回って思った方向を向いてくれず、その知識は全く役に立ちませんでした。最近、少しずつ茶花の姿や動きに慣れてきて、花入に挿した時に思ったような形に収まってくれるようになりました。花と向き合う機会を増やすことも大切なのかもしれません。でも無心に生けることができるようになるのはまだまだ先のことのようです。
茶花は満開より半開き、半開きより蕾をよしとし、花が乾かぬよう常に露を打ちます。大寄せ茶会でも席の合い間には都度必ず花に露を打ちます。
玄々斎はこの廻り花に『また出づるその根を切りてしばし世の、水につなげる花のひととき』という歌をつけているといいます。水につなげる花のひととき、いい言葉だなと思いました。
写真は先日、京都西芳寺(苔寺)で撮影した蓮華。ひとつだけ凛と咲いており、梅雨に濡れた姿は本当に幻想的で見事でした。この日に行かなければ出会えなかった花。思わず手を合わせたくなるような儚く美しい姿。茶花ではありませんが、廻り花にふさわしい気もしてアップさせて頂きました。
(参考)七事式の掲頌
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/cf8f0415f3fce4070df97ed92da8c88e
花の入れ方の修練を目的としたもの。主客とも順番に花を入れていく。他の式と異なりお茶を点てて喫するということがない。人数に約束事は無いが、5人が適当。床の中釘に水を八分ほど入れた花入をかける。置花入の場合もある。
掲頌は、「色即是空凝思量即背/しきそくぜくうしりょうをこらせばすなわちそむく」
色即是空は般若心経の一節で、“色”は複雑な結合によって刻々変わり本来実有のものではない、万物もまた本来色のように“空”であって、美しいこともただ一時の迷いに過ぎず、無一物中にあって無尽蔵の興趣を生じる、との意味。
花を入れる時に、この方が美しいかなどと迷って色々と思量を巡らせたり、技巧を凝らしたりすると真実から遠ざかり、却って真実に背いてしまう。執着の無い心で花を入れることが求められています。
利休様も、七則の中で、「花は野の花のように」としています。茶人は花の性質に逆らうことなく、明日はもう枯れてしまう花を全身全霊を傾けて生ける、その真剣さを教えている式だそうです。
廻り花では、自分が挿した花が床に存在するのはほんのいっときです。ひとつの花入を使って、前の人の入れた花をあげ、自分の選んだ花を入れていくことを順次繰り返します。なんだか儚いといつも思い、そう思うと大切に生けなくてはとつくづく思います。
花を選ぶことを花づもりといいますが、私はいつも迷います。この掲頌からすれば本来迷ってはいけないのですが、見たことのない様々な花があって先生に名前を聞いてしまったり、こっちがいいかあっちがいいかと色々な花を組み合わせてみたりします。フラワーアレンジメントを習った私ですが、茶花として使われる花は野に咲くかわいらしいものが多く、花入には剣山とかオアシス(花を挿すスポンジ)など入っていないので、上手に挿さないと花がくるくる回って思った方向を向いてくれず、その知識は全く役に立ちませんでした。最近、少しずつ茶花の姿や動きに慣れてきて、花入に挿した時に思ったような形に収まってくれるようになりました。花と向き合う機会を増やすことも大切なのかもしれません。でも無心に生けることができるようになるのはまだまだ先のことのようです。
茶花は満開より半開き、半開きより蕾をよしとし、花が乾かぬよう常に露を打ちます。大寄せ茶会でも席の合い間には都度必ず花に露を打ちます。
玄々斎はこの廻り花に『また出づるその根を切りてしばし世の、水につなげる花のひととき』という歌をつけているといいます。水につなげる花のひととき、いい言葉だなと思いました。
写真は先日、京都西芳寺(苔寺)で撮影した蓮華。ひとつだけ凛と咲いており、梅雨に濡れた姿は本当に幻想的で見事でした。この日に行かなければ出会えなかった花。思わず手を合わせたくなるような儚く美しい姿。茶花ではありませんが、廻り花にふさわしい気もしてアップさせて頂きました。
(参考)七事式の掲頌
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/cf8f0415f3fce4070df97ed92da8c88e
普段からどの花とどの花なんて、イメージしておかなければいけないかしら?
今日、近くのお寺のお庭に蕾の蓮の花を見ました。
真っ直ぐしっかり伸び、力強さと凛とした姿は素敵でした。
カメラを持っていなかったので、明日撮りに行こうかなと
思っていたところにm-tamagoさんの画像で、なんだか嬉しくなっちゃう♪
明日は咲いているかなぁ~
次回のお稽古は、花所望の方があるので、楽しみです♪
それにしても幽玄なお写真ですね!
きれい~ この世のものとは思えません・・・
「色即是空凝思量即背」うーん。まさに。
でもわたくし如きにはとてもたどり着ける境地ではないなー。
たかが花です。
だいじなことはもっと他にもあるでしょうと思ってしまうわたしは不真面目かもしれません。。
蓮の花がみごとですね。
わたしもいちめんに蓮の咲く池を見に行ってきたくなりました。もう咲いているかしら。。
迷い、辿り着けなくてもそれでよいし、なんにしろ今をだいじにしたいなあと思います。
野にある花の姿を知らなくては生けられませんね。
毎朝、自ら一輪、野から摘んできては生けてみるという
練習をされてはいかがでしょうか?
四国遍路中の私は
般若心経と聞くと反応してしまう。
遍路をはじめるまでは無かったことだ。
写経を持って四国の八十八のお寺を巡る旅。
早く続きを巡りに行きたくなってきた。
先生がその日の為に掛けられたお軸と思い入れのあるお花が入ってます。
先生が高齢でお稽古の準備(風炉灰・釜・茶篩い・お道具など)はママがしてますがお床の準備は今でも先生がされます。
いつも、お稽古に来る私たちの為に考えながらご準備されるとか・・・ありがたいことですね。
先日、自分が企画したお茶会で花の準備にハラハラ・ドキドキしたことを思うと、まだまだ修行が足らない事に大いに反省!
花への想い入れも以前よりは多くなってかたかな?(笑)
蓮の花は開くときにポンッという音がするそうです。私はまだ聞いたことがないですが、一度聞いてみたいものです。
お茶を点てないで、お花をいけるだけの茶道があるのなんて初めて知りました。ほんとに奥が深いですね。
私も次の人がいるからと焦るんですが、迷ってしまいます。手にとったらいまいちかな、とか。
>カメラを持っていなかったので、明日撮りに行こうかなと思っていたところにm-tamagoさんの画像で、なんだか嬉しくなっちゃう♪
私も嬉しいです。写真は撮れましたか?是非見せて下さいね。咲いていたのはこの1輪でしたが、蕾もあって、近くの葉っぱに蛙がちょこんと座っていたんです。それも友人がデジカメで撮ってくれましたが、こちらもまたかわいらしかったです。
本当に花をめぐるものはいいですね。
>次回のお稽古は、花所望の方があるので、楽しみです♪
海外だと思うような茶花が手に入るんでしょうか?皆育てているのかな。。。。
>それにしても幽玄なお写真ですね!
ありがとうございます。本当に梅雨の中、この世のものとは思えない景色でした。写真でもこんなに美しく残せるとは驚きでした。