茶の湯 徒然日記

茶の湯との出会いと軌跡、お稽古のこと

お茶事始、表と裏の違い

2005-06-11 20:50:18 | 茶道マメ知識
今日はお茶の歴史について簡単に。

お茶を飲む風習は仏教と同様に中国から伝わった。多分、遣唐使や渡来してきた僧によって伝えられたと思われる。やがて最澄が唐からお茶の実を持ち帰り比叡山でそれを育てるようになった。しかし、遣唐使の廃止で894年以降、一時中断する。
平安時代末に宋との交流が始まり、臨済宗の栄西が宋から茶や道具を持ち帰り、再び茶が復興する。当時、茶は薬として飲まれていたのが、徐々に武家に流行し始め、やがて一般人にも広まっていった。
室町時代、村田珠光は落ち着いた簡素な茶を目指し、武野紹鴎にその精神は引き継がれ、「わび茶」が生まれた。やがて千利休は武野紹鴎に師事してこれを完成させ、新しい茶道具(楽茶碗等)もあみ出し、織田信長や豊臣秀吉に仕えて、武家に茶の湯を浸透させた。
秀吉の逆鱗にふれて利休がこの世を去った後、古田織部、細川忠興(三斎)、高山右近、蒲生氏郷、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部ら利休七哲が武将茶人として活躍、徳川家の天下統一後は、小堀遠州、金森総和、片桐石州ら大名茶人が活躍、石州、薮ノ内、遠州等の流派はこの頃に生まれ今に至っている。

一方、利休の茶は子孫によって表千家、裏千家、武者小路千家として大名だけでなく庶民にも広がった。利休の死後、一時利休の茶は影を潜めるが、許されて、次男の小庵が不審庵という茶室を受け継ぎ、それがその子供の宗旦に引き継がれ、宗旦の時に基礎が確立した。
やがて、宗旦が三男宗左に不審庵を譲り、同敷地に今日庵という茶室を建てて四男宗室と移り住んだ。これが、表千家(不審庵)と裏千家(今日庵)となる。
それから、宗旦の次男宗守が武者小路千家(官休庵)を設立し、ここに三千家が誕生,現在まで続いている。

表千家と裏千家で作法で微妙に違うところがある、と以前お話したが、もともとは表千家の形があって、それを少し変えていったのだろうと思う。たいした違いではないのだが、
知った時は興味深かったのでご紹介しておく。
1.以前説明した薄茶の見た目の違い。(濃茶薄茶の章をご参照)
2.畳の歩き方、表は1畳を6歩で歩くが、裏は1畳を4歩で歩く。
3.お客の手の組み方(お客が座って膝に手を置いた時の手の組み方)、表は左手が上になるように組むが、裏は右手が上になるように組む。
4.点前にもよるが基本的に使う茶筅が、表は煤竹(煙で燻された竹を使った茶色っぽいもの)で、裏は白竹(もちろん、煤竹や青竹を使うお点前もあるが)。昔は茅葺屋根だったので、煤竹は何処にでも見られたが、今は通常では入手困難で人工的に燻したものだそうだ。
5.古ふくさという大事なお茶碗や道具を出す時に添えるものがあるが、表は普通のふくさと同じ大きさの切地、裏は普通のふくさの四つ折より一回り大き目位の大きさの切地となる。
他にもあったら教えてほしい。確かお茶の飲み方も違った気がするのだが定かでない。

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