私は散らかし魔です。散らかす場所があればあるだけ散らかしました。使える部屋があればあるだけ散らかしました。掃除したり、片付けたりする能力がないわけじゃありません。小僧時代は掃除が仕事。日々掃除。なのに自分の部屋、そして自分の仕事場はぐちゃぐちゃなのであります。子供の頃から、整理整頓とは無縁な生活を送っていました。
散らかった衣服、雑誌。まるでゴミ箱の中。足の踏み場がなく、いつも何かをまたいで歩く癖がすっかり身についています。掃除したくないわけじゃないんですよ。掃除したい。片付いた部屋で過ごしたい。そんな気持ちがありながら、しない。すればいいのにしない。自ら「したい」と希望を持っているにもかかわらず、その希望を自ら「しない」でぶっ壊しているわけです。
ひょっとすると、これはビョーキなのではないか? と以前から疑ってはきたのですが、私はこのほど立派なひとつの「病」だと断定することにし、
したいけどできない病
と名づけました。ちなみにアメリカ精神医学の診断基準DSM-4にはこんな診断名はありません。まあ、うつの一症状として、ぐずぐず、先送りってのと同じですけどね。
このビョーキは、自分の希望を自分で砕いておきながら、落ち込んだり、イラついたりするヘンな一人相撲が特徴です。この病が進行し、ややもすると、人や世間のせいだと言い出して、八つ当たり行動に走ることがあります。また、善良な人はそれもよしとせず、えんえんと自分を責めて燃え尽きたり、苦しさのあまりに酒やギャンブルに溺れたりもするようであります。まあ、だいたい人間関係のこじれなんて、この病が原因なのであります(鼻ほじほじ
幸いにも(?)、この病が進行しきった私は、案の定、夫婦関係の危機を迎えました。家族崩壊の危機。悲しいことです。こういうショックな事態に至らないと、自分は病なんだと気づかないわけですから、どれほど病が進行し、麻痺していたか、今ならよくわかります。さらに麻痺が進行しますと、家族崩壊程度ではきっかけにすらならないケースも、残念ながらよく、ホントによく見かけます。
これをきっかけに、本格的に治療に専念しようと思い立ちました。病ですから、やっぱり治療しませんとね。病とは「これはまずい…」と分かっていながら解決しようとしないことです。虫歯になったら治療する。虫歯が病なのではなく、虫歯だと認知し、治療した方がよいと理解していながら、そうしないことこそ、最も怖い「病」です。
こりゃもう自分ではどーにもならん…
その「病」に対して無力を確信し認めたときのことを今でも鮮明に覚えています。キルケゴールの言う本来的絶望とでもいうのでしょうか。抵抗をやめたまな板の上の鯉のようなもの。苦痛の極みにいながらなんですが、妙に清々しかった記憶があります。無力を認めることは怖いことのように気もしますが、可能なことをあきらめることは心苦しくても、不可能を認めて、そこにあがく土俵から降りる。そんな、ほっとする感覚です。
それ以降、「私の心は問題だらけ。すべての病は自分にあてはまる」を基本に、可能な限り、専門家のもとをたずねました。それまでは、他者の問題を解決するためにいろんなことを学んできましたが、今度は違います。自分を対象にしたのでありました。
したいけどできない病にかかったときは、掃除や片付け、整理整頓のノウハウ本を買っても、たぶん解決しません。なぜなら、片付ける能力など、最初から誰でも持っていますし、そのスキルが書かれている本を読んでも、問題はスキルの質ではなく、スキルを実践しないことそのものなのです。
夢や希望をこわす自身の要因とは何か。部屋を片付けようとする手を押し止めるものは何なのか。まるで、何か別のものが自分を操っているが如くに自由にならない。この得体の知れない何かが、私の「したい」を傷つけているのであります。この問題を解決するために取り組んだことは、その見えない力を見つけ出すこと。その力が働き出す時のパターンを読み取ることでした。
しかし、部屋を掃除するだけなのに、ずいぶん大げさな話が展開されていますが、渦中にいますとこれほど苦しいことはない。今でこそ、軽々と話せるようになっただけであって、当時は汲々としておりました。そもそも、
掃除なんざしなくたっていいんですよ!
片付けなくたって死にはしません。掃除しなくたって恋人に振られたりしませんからね。大丈夫。したいけどできない病は「しなくてはいけない」という強迫をエサに力を発揮しておりますので、逆説的ですが、掃除とか整理整頓なんぞ、そんなことしらねーとまずは放り投げることです。要は、掃除をすることが目的じゃないんです。自分の心身を、自分の支配下に取り戻すことこそ目的ですから。
だいたい「掃除しなきゃ」「片付けなきゃ」ってのは、誰かの命令が脳内にインプットされたもの。自分の希望ではない。だから「できない」という表現になるのです。もし、自分の希望だとしたら、「しない」になるはずですが、したいけどできない病は、自分の夢ではなく、昔に言いつけられた命令を、奴隷のように今も遂行しようとし、自分の命がストライキを起こしているようなものであります。
私は大切な自分の居場所を整えよう
深呼吸してそう言ってみましょう。「そのために部屋の掃除をしなくてはいけない」なんて奴隷になってはもともこもない。大人の私たちにしなければいけないことなど、何もないのであります。ちなみに私は、座布団から始めました。座布団一枚の広さだけ「ここは私の居場所。大切にしよう。心地よく整えよう」と毎朝、何をすることよりも先に、掃除しました。座布団一枚分のスペースを掃除するのに要する時間は、たった10秒です。この10秒だけを守りました。簡単に思えますが、したいけどできない病がいつ支配してくるかわからない状況では、その10秒を守るのすら大変な話なのであります。
三ヶ月たったとき、座布団一枚の広さは、6畳の広さになりました。もちろん、狭まることもあります。昨年、痔の手術で入院し、退院後、しばらく布団の上の生活になりましたが、そんなときは枕元の本を置く小さなスペースでもいいから「ここは私の居場所。大切にしよう」と可能な限りだけ、整えておけば同じこと。
私の病は治ったわけではありません。今は自由に好きなだけ掃除していますし、大の苦手だった事務整理も楽しくこなしています。だからといって、治ったから大丈夫と過信すれば、きっと、したくてもできない病は「ふふふ、注意を怠っているな…」と狙ってきます。予防はただ一つ。
今、ここにある私の居場所を大切にしよう。
今、ここに生きる自分を大切に扱おう。
を手放さないことでしょう。大切に大切に。迷った時。悩んだ時。どうしていいかわからない時。そんなときこそ、今ここにある私を大切にするという原点からスタートできるようにしておこう。解決できるものは解決しちゃいますし、解決できないものは、どーせ解決できんのです。悩む時間を過ごすより、自分の居場所を心地よくしておきましょう。さて、掃除をば。
散らかった衣服、雑誌。まるでゴミ箱の中。足の踏み場がなく、いつも何かをまたいで歩く癖がすっかり身についています。掃除したくないわけじゃないんですよ。掃除したい。片付いた部屋で過ごしたい。そんな気持ちがありながら、しない。すればいいのにしない。自ら「したい」と希望を持っているにもかかわらず、その希望を自ら「しない」でぶっ壊しているわけです。
ひょっとすると、これはビョーキなのではないか? と以前から疑ってはきたのですが、私はこのほど立派なひとつの「病」だと断定することにし、
したいけどできない病
と名づけました。ちなみにアメリカ精神医学の診断基準DSM-4にはこんな診断名はありません。まあ、うつの一症状として、ぐずぐず、先送りってのと同じですけどね。
このビョーキは、自分の希望を自分で砕いておきながら、落ち込んだり、イラついたりするヘンな一人相撲が特徴です。この病が進行し、ややもすると、人や世間のせいだと言い出して、八つ当たり行動に走ることがあります。また、善良な人はそれもよしとせず、えんえんと自分を責めて燃え尽きたり、苦しさのあまりに酒やギャンブルに溺れたりもするようであります。まあ、だいたい人間関係のこじれなんて、この病が原因なのであります(鼻ほじほじ
幸いにも(?)、この病が進行しきった私は、案の定、夫婦関係の危機を迎えました。家族崩壊の危機。悲しいことです。こういうショックな事態に至らないと、自分は病なんだと気づかないわけですから、どれほど病が進行し、麻痺していたか、今ならよくわかります。さらに麻痺が進行しますと、家族崩壊程度ではきっかけにすらならないケースも、残念ながらよく、ホントによく見かけます。
これをきっかけに、本格的に治療に専念しようと思い立ちました。病ですから、やっぱり治療しませんとね。病とは「これはまずい…」と分かっていながら解決しようとしないことです。虫歯になったら治療する。虫歯が病なのではなく、虫歯だと認知し、治療した方がよいと理解していながら、そうしないことこそ、最も怖い「病」です。
こりゃもう自分ではどーにもならん…
その「病」に対して無力を確信し認めたときのことを今でも鮮明に覚えています。キルケゴールの言う本来的絶望とでもいうのでしょうか。抵抗をやめたまな板の上の鯉のようなもの。苦痛の極みにいながらなんですが、妙に清々しかった記憶があります。無力を認めることは怖いことのように気もしますが、可能なことをあきらめることは心苦しくても、不可能を認めて、そこにあがく土俵から降りる。そんな、ほっとする感覚です。
それ以降、「私の心は問題だらけ。すべての病は自分にあてはまる」を基本に、可能な限り、専門家のもとをたずねました。それまでは、他者の問題を解決するためにいろんなことを学んできましたが、今度は違います。自分を対象にしたのでありました。
したいけどできない病にかかったときは、掃除や片付け、整理整頓のノウハウ本を買っても、たぶん解決しません。なぜなら、片付ける能力など、最初から誰でも持っていますし、そのスキルが書かれている本を読んでも、問題はスキルの質ではなく、スキルを実践しないことそのものなのです。
夢や希望をこわす自身の要因とは何か。部屋を片付けようとする手を押し止めるものは何なのか。まるで、何か別のものが自分を操っているが如くに自由にならない。この得体の知れない何かが、私の「したい」を傷つけているのであります。この問題を解決するために取り組んだことは、その見えない力を見つけ出すこと。その力が働き出す時のパターンを読み取ることでした。
しかし、部屋を掃除するだけなのに、ずいぶん大げさな話が展開されていますが、渦中にいますとこれほど苦しいことはない。今でこそ、軽々と話せるようになっただけであって、当時は汲々としておりました。そもそも、
掃除なんざしなくたっていいんですよ!
片付けなくたって死にはしません。掃除しなくたって恋人に振られたりしませんからね。大丈夫。したいけどできない病は「しなくてはいけない」という強迫をエサに力を発揮しておりますので、逆説的ですが、掃除とか整理整頓なんぞ、そんなことしらねーとまずは放り投げることです。要は、掃除をすることが目的じゃないんです。自分の心身を、自分の支配下に取り戻すことこそ目的ですから。
だいたい「掃除しなきゃ」「片付けなきゃ」ってのは、誰かの命令が脳内にインプットされたもの。自分の希望ではない。だから「できない」という表現になるのです。もし、自分の希望だとしたら、「しない」になるはずですが、したいけどできない病は、自分の夢ではなく、昔に言いつけられた命令を、奴隷のように今も遂行しようとし、自分の命がストライキを起こしているようなものであります。
私は大切な自分の居場所を整えよう
深呼吸してそう言ってみましょう。「そのために部屋の掃除をしなくてはいけない」なんて奴隷になってはもともこもない。大人の私たちにしなければいけないことなど、何もないのであります。ちなみに私は、座布団から始めました。座布団一枚の広さだけ「ここは私の居場所。大切にしよう。心地よく整えよう」と毎朝、何をすることよりも先に、掃除しました。座布団一枚分のスペースを掃除するのに要する時間は、たった10秒です。この10秒だけを守りました。簡単に思えますが、したいけどできない病がいつ支配してくるかわからない状況では、その10秒を守るのすら大変な話なのであります。
三ヶ月たったとき、座布団一枚の広さは、6畳の広さになりました。もちろん、狭まることもあります。昨年、痔の手術で入院し、退院後、しばらく布団の上の生活になりましたが、そんなときは枕元の本を置く小さなスペースでもいいから「ここは私の居場所。大切にしよう」と可能な限りだけ、整えておけば同じこと。
私の病は治ったわけではありません。今は自由に好きなだけ掃除していますし、大の苦手だった事務整理も楽しくこなしています。だからといって、治ったから大丈夫と過信すれば、きっと、したくてもできない病は「ふふふ、注意を怠っているな…」と狙ってきます。予防はただ一つ。
今、ここにある私の居場所を大切にしよう。
今、ここに生きる自分を大切に扱おう。
を手放さないことでしょう。大切に大切に。迷った時。悩んだ時。どうしていいかわからない時。そんなときこそ、今ここにある私を大切にするという原点からスタートできるようにしておこう。解決できるものは解決しちゃいますし、解決できないものは、どーせ解決できんのです。悩む時間を過ごすより、自分の居場所を心地よくしておきましょう。さて、掃除をば。
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