TBA

(仮)

自分がそう感じたら

2021-02-02 | ブログ

 

きょうも早起き。

調子よかったのになあ。

必ずしも自分のせいではない、というようなことで落ち込む。

切り替えないと。

 

節分とは2月3日のことだと思ってた。

違うことがあるとはつゆ知らず。

買い物行ける日でよかったけど。

ついでがあるのはいいことだ。

 

いろんな太巻きがあるけど、

いつも同じたまごたっぷりとかいうやつ。

安いから、というわけでもなくて、

あまり海鮮得意じゃないから。

 

でも、ちょっとしたアジくらいの大きさの、

リッパないわしが売ってると、なんかテンション上がる。

食べきれないなあと思ったので、小さめのを買ったけど。

 

 

「100分de名著」見た。

内容的には引っかかるところもあったけど、

指南役が小野さんでよかった。

 

たまに「日曜美術館」で見るのとは違う感じで、

この小野さんのほうが知ってる小野さん。

我が意を得たり、っていうときの指パッチン。

林先生の「世界の名著」のときを思い出した。

 

差別されているし、(自分も)差別している。

という視点を持てている人ってどれくらいいるんだろうか。

 

自分たちだけが差別されている、と信じて、

まわりに憎悪を振りまいているか、

自分たちは差別を糾弾している、と信じて、

まわりを差別している人たちも多いのではないか。

 

「他者のまなざしによって自分の存在を規定してしまう」

伊集院さんが言っていたように、これ自体はどこででも起こりうることだと思う。

「ひとつは海外に対するコンプレックス…」

のこりの話も聞きたかったけど、

「自分の中の自信が崩壊してしまうと、

 他者のまなざしが評価しないものに自信を持てなくなる」というのも鋭い。

 

海外に住んで、名誉「海外の人」になって、

日本は○○後進国とか差別大国とかのレッテルを貼ってみたりして、

「出羽守」とか「ポカホンタス」とか揶揄されてしまう人たちも、

実はそうなのかもしれない。

 

そして、フランスでファノンが感じたことは、

たぶんロンドンで夏目漱石が感じたことにもつながるのでは。

 

まったく違う存在の中にひとりで放り込まれたときに感じる孤独感のようなものを、

「差別」でくくってしまうことのこわさ。

 

黒人なのに医者、日本人なのに英文学の研究。

 

日本で生まれ育った日本人が

たとえばソマリアでソマリ語を流暢に操って専門職についていたとして、

現地のソマリアの人に日本人なのに...と言われたら、差別なんだろうか。

賞賛だったりしないのかな?

 

よく○○したくて日本に来ました、みたいな番組もあるけど、

まったくの異文化の人が言葉を学ぶところから始めて、

そこから、ひとつの道を究めた人に対して、

日本人じゃないのにすごいっていうのは、

ふつうにすごいって思ってると思うけどなあ…

 

それを、見下してるって考える人の心のほうに、

逆に差別があるのでは?

オマエなんか言われたくない、的な。

 

そこに憎悪はない、っていうところで終わったことが救いだった。

 

コメント
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