日本の言霊の大家 大石凝真素美 によれば教えるという言葉は「魂の緒を強うる」ことからきている。
純朴な赤子が誕生後さまざまな外界の悪影響を受けて、カミとつながる魂の緒がみだされるが、それを強制して正しくしてゆくところに教育の意義がある。
つまり教育が強制であるという点では一部の意見が正しいが、強制的に作り上げるだけではなく、カミとつながる人間本来のあり方に近づけてゆくという目標がある。
現代の教育は概念的な「人権」から派生した「道徳論」を教育原理にしているために生きた人間が育たない。
カミを否定して人権をもとに教育施すほうが非現実的なのだ。
人権思想は、カミが人に与えた権利からカミを抜き去った思想に過ぎない。
教育はカミと人とをつなぐ見えない緒をととのえる作業であると考えるべきである。
その観点から見るとわが国の教育の根本的な誤りがわかる。
知識や技術の伝承は正直二次的なものである。手段である。
この二次的なものを第一義として教えざるをえなくなったのは教育者が信仰を失ったがタメである。
人間は宗教性をとりもどさなくてはならない。概念や論理や人権はその代わりにはならない。
なぜなら目に見えない存在といえどもそれは実在であり、われわれの存在を意味づけているものだからである。
タミつまり対象物が独立して主導権を握ろうとすれば輝きを失う。
キミがタミを照らしてこそのタミであるのにも関わらず、もしキミの輝きを制限してしまえばそれはタミにそのまま帰ってくる。
タミは存在意義をうしなう。
かつては御照らし殿というのが各地域にあって、天地の真理を伝える場所があり年々卒業式として氏神の前で奉りを行った。
これが仏教が導入されてから、寺に置き換えられ、後世寺子屋などのもとになったという。