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懐かしのトムスドライバー列伝番外編 鮒子田寛 後編

2011-12-12 20:04:53 | トムスドライバー列伝

鮒子田寛選手の後編は1975年にF1をドライブするチャンスが来ました。

1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでF1の決勝出場の記録は残りませんでした。

 

1974年、富士グラチャンレーサーの高原敬武がF1のノンチャンピオンシップ戦に出場しているが、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田選手であります。

 

もし決勝に出れたら、日本人初のF1レーサーになっていたかも知れません。

また1973年には生沢徹とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダ・RX-7)と計3回の出場を果たすが、いずれもマシントラブルで完走はない。 

1975年にはオーストラリア最大のレース、バサースト1000kmレースにて日本人初の総合5位クラス優勝(マツダ・サバンナRX-3)を飾った。

1981年いっぱいで現役を引退し家業の手伝いをしていました。

1986年に、林みのるが率いる童夢に加入。1989年にはトムスに移籍し、レーシングチーム(トヨタ・チーム・トムス)のチーム監督を務める。その後1992年にイギリスに渡りトムスGBの社長として、トヨタのル・マン参戦の指揮を執る。

1998年にトムスGBがアウディに買収されレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)となったのに伴い「残務処理のため」としてRTNジェネラルマネージャーに就任。

 

しかしマネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VWグループのベントレーのル・マンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献しました。

2003年に帰国しINGINGのF3チーム監督に就任。

 

2004年にはINGINGが全日本F3選手権において、プライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得しました。

 

2011年のスーパーGT500チャンピオンのロニー・クンタレリ選手を育てました。

 

2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、その後、ル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問に就任。2011年より、日本自動車レース工業会(JMIA)の顧問としてレース業界の発展・振興に務めてます。

ルーフの上に70年代の鮒子田寛選手の顔写真です。



懐かしのトムスドライバー列伝番外編 鮒子田寛 

2011-12-12 19:43:15 | トムスドライバー列伝

1960年代後半にトヨタワークス、
70年代に富士グラチャンシリーズで活躍したレーサーがいました。

鮒子田寛選手はアメリカへ渡った日本人レーサーで、

日本自動車レース界のメジャーリーガーでした。

 

1960年代後半からトヨタ自工のワークスドライバーとして契約し、トヨタ2000GT、トヨタ7で活躍しました。 1969年にトヨタを離れ、アメリカをメインにレース活動を行いました。

 

1970年にトヨタのエースだった川合稔選手が鈴鹿でターボを搭載したトヨタ7のテスト走行中に事故で亡くなってしまいました。

 

もしこのままトヨタに残ってたら、

川合選手ではなく鮒子田寛選手が事故死してたかも知れません。

 

 アメリカに渡りフォーミュラAレース(ヨーロッパにおけるF5000に相当)に参戦し、1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国しました。 1972年から富士グラチャンに参戦し、王座に輝きました。

後編に続く