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懐かしのトムスドライバー列伝 追悼 山路慎一

2014-10-15 07:55:00 | トムスドライバー列伝

既にご存知の通り、1999年のマツモトキヨシトムススープラで走らせ、

富士スピードウェイの山路慎一競技長が、今年の5月26日に死去しました。


山路慎一選手は、レーサーになる前は暴走族でした。
 
グループAに出場し、
パートナーは現在は参議院で女優の三原じゅん子選手でした。

1998年トムスがカストロールのスポンサーが2台で、
スープラを走らせました。

1999年に3台目のトムスのスープラを走らせる事になり、
マツモトキヨシのスポンサーが付きました。

ドライバーには山路慎一選手が選ばれました。
パートナーにはピエル・アンリ・ラファネル選手でした。

トムスで活動したのは1999年から2001年まででした。
 
2001年の菅生GTではオートバイの世界チャンピオンのワイン・ガードナー選手と組んで、
優勝しました。

その後は富士スピードウェイの競技長などを務め、
しかし5月25日に緊急入院し、5月26日に死去しました。
 
Scan10001.JPG 
 
1999年の富士1000キロ
 
Scan10004.JPG 
 
2000年8月富士GT
 
_MG_8359.jpg 
 
2010年の富士スピードウェイのイベントより
享年50歳です。
 
ご冥福をお祈りします。



懐かしのトムスドライバー列伝 新田守男

2012-09-26 19:49:31 | トムスドライバー列伝

1990年代のグループAの3クラスはカローラ・レビンとシビックの争いがあり、
グループAの3クラスのハイライトでした。

トムスと土屋エンジニアリングとバンドウのカローラ・レビン対無限チューンのシビックの戦いでした。

 

1990年に土屋エンジニアリングのアドバン・カローラ・レビンで、

鈴木恵一選手のパートナーだった新田守男選手です。

 

1989年にトムスに所属してました。当時のパートナーは鈴木恵一選手でした。

1990年は鈴木恵一選手と一緒に土屋エンジニアリングに移籍し、

グループAが終了する1993年までレビンで活躍しました。

 

その後は全日本GT選手権で活躍し、

スパ24時間レース、N1耐久に出場しました。

 

特にGT300には強く、

GT選手権のタイトルは1996年、1999年、2002年にチャンピオンになってます。

 

今年はaprプリウスで活躍してます。


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

REO26 [2012年9月26日 20:16]
ペトロナスチームトムスファンのブログさんこんばんは


昔はTOMSで参戦していて今はaprで第6戦もポールポジションも取りaprは2012シーズン前半はあまりいい結果は残せず新田守男選手も苦戦したと思います。

しかし第4戦SUGO辺りからいい結果を残して後半戦に入ったらいい結果をいっぱいいい結果を残せてきて第6戦富士ではポールポジションをゲットし決勝は1コーナーでクラッシュしてしまったんですが最後の最後までねばって最後尾から2位まで上がって新田選手もいい結果だったと思います。


次はオートポリスですね

オートポリスでは優勝してもらいたいですね。

懐かしのトムスドライバー列伝番外編 鮒子田寛 後編

2011-12-12 20:04:53 | トムスドライバー列伝

鮒子田寛選手の後編は1975年にF1をドライブするチャンスが来ました。

1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでF1の決勝出場の記録は残りませんでした。

 

1974年、富士グラチャンレーサーの高原敬武がF1のノンチャンピオンシップ戦に出場しているが、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田選手であります。

 

もし決勝に出れたら、日本人初のF1レーサーになっていたかも知れません。

また1973年には生沢徹とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダ・RX-7)と計3回の出場を果たすが、いずれもマシントラブルで完走はない。 

1975年にはオーストラリア最大のレース、バサースト1000kmレースにて日本人初の総合5位クラス優勝(マツダ・サバンナRX-3)を飾った。

1981年いっぱいで現役を引退し家業の手伝いをしていました。

1986年に、林みのるが率いる童夢に加入。1989年にはトムスに移籍し、レーシングチーム(トヨタ・チーム・トムス)のチーム監督を務める。その後1992年にイギリスに渡りトムスGBの社長として、トヨタのル・マン参戦の指揮を執る。

1998年にトムスGBがアウディに買収されレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)となったのに伴い「残務処理のため」としてRTNジェネラルマネージャーに就任。

 

しかしマネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VWグループのベントレーのル・マンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献しました。

2003年に帰国しINGINGのF3チーム監督に就任。

 

2004年にはINGINGが全日本F3選手権において、プライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得しました。

 

2011年のスーパーGT500チャンピオンのロニー・クンタレリ選手を育てました。

 

2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、その後、ル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問に就任。2011年より、日本自動車レース工業会(JMIA)の顧問としてレース業界の発展・振興に務めてます。

ルーフの上に70年代の鮒子田寛選手の顔写真です。



懐かしのトムスドライバー列伝番外編 鮒子田寛 

2011-12-12 19:43:15 | トムスドライバー列伝

1960年代後半にトヨタワークス、
70年代に富士グラチャンシリーズで活躍したレーサーがいました。

鮒子田寛選手はアメリカへ渡った日本人レーサーで、

日本自動車レース界のメジャーリーガーでした。

 

1960年代後半からトヨタ自工のワークスドライバーとして契約し、トヨタ2000GT、トヨタ7で活躍しました。 1969年にトヨタを離れ、アメリカをメインにレース活動を行いました。

 

1970年にトヨタのエースだった川合稔選手が鈴鹿でターボを搭載したトヨタ7のテスト走行中に事故で亡くなってしまいました。

 

もしこのままトヨタに残ってたら、

川合選手ではなく鮒子田寛選手が事故死してたかも知れません。

 

 アメリカに渡りフォーミュラAレース(ヨーロッパにおけるF5000に相当)に参戦し、1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国しました。 1972年から富士グラチャンに参戦し、王座に輝きました。

後編に続く

 


懐かしのトムスドライバー列伝 ピーター・ダンブレック

2011-06-05 07:27:08 | トムスドライバー列伝

ピーター・ダンブレック選手は、スコットランド出身で、
1988年に来日し、トムスのF3でチャンピオンになりました。


シーズン途中で全日本GT選手権のGT300でMR2で活躍しました。

1999年にフォーミュラ・ニッポンでデビューし、
6月のルマン24時間レースでメルセデス・ベンツのワークスドライバーに抜擢されました。

しかしダンブレック選手のAMG メルセデス・CLRがレース中に、直線で突如離陸して宙を舞い、墜落するという事故が起きました。

ダンブレック選手が墜落した場所が林の中の空き地で、下が柔らかい土の上にタイヤを下にして落ちていって、
軽傷を負いました。

この件でメルセデスのマシンはピットに戻し、レースを棄権することになりました。

その後はDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)で活躍し、2005年シーズン途中でスーパーGTにトヨタ・スープラで日本に復帰しました。

2008年までスーパーGT500クラスに参戦しました。

その後はミハエル・クルム選手とFIAGT選手権で、
日産GTRで活躍してます。