トムスは1998年、タイヤを変更します。
ブリヂストンからダンロップに変更し、
関谷選手のパートナーは、フォーミュラ・ニッポンで活躍し、
F1チームのザウバーで走ったことのある、アルゼンチン人のノルベルト・フォンタナ選手です。
鈴木利男選手のパートナーはケルビン・バート選手です。
しかし表彰台の頂点には1度もありませんでした。
シーズンオフには、ダンロップタイヤが撤退し、1999年はミシュランタイヤに変更します。
開幕前には悲しい事件が起きてしまいます。
トムスの舘信秀監督の息子で、レーシングドライバーの舘信吾選手が、
テスト中の事故で21歳で亡くなってしまいました。
トムスで走り、タイサンのフェラーリやポルシェをドライブし、
1998年に信吾選手のパートナーだった鈴木恵一選手は引退を決めてしまいました。
トムスは36号車は関谷選手と黒沢琢弥選手、
黒沢選手は元日産ワークスドライバーの黒沢元治選手の息子です。
鈴木利男選手のパートナーは1997年にF1を引退した片山右京選手です。
もう1台はマツモトキヨシのスポンサーで走るマシンで、
山路慎一選手です。
パートナーはかつてトムスのCカーで走っていた元F1のピエール・アンリ・ラファネル選手です。
そしてトムスはチームタイトルを獲得し、
ドライバータイトルを逃してしまいました。
富士スピードウェイの富士1000キロで、トムスはマツキヨスープラ1台のみで参戦し、
土屋武士選手を3人目のドライバーとして参戦し、クラス優勝を果たしました。
土屋武士選手は2000年関谷選手のパートナーとして参戦、
マツキヨ号は1999年のコンビとは変わらず、鈴木利男選手のパートナーは荒聖治選手です。
しかし2000年、カストロールカラーのトムスのマシンは表彰台に登れず惨敗となりました。
10月に関谷選手が引退を表明してしまいました。
関谷正徳選手のカストロール・トムス・スープラのマシンは思い出が残ってます。