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しし座の火曜日

ご飯の記録や(虚弱なので、作れない日もあるけど…)、日々の出来事、思ったことを綴ってます

ぶらり会津の旅~その6 大内宿

2008-05-08 | 旅行記
 ようやく3日目の記事に突入です
ホテルをチェックアウトし、会津若松を離れて向かったのは、山間に江戸時代の宿場を今に残す集落【大内宿】
ここは歴史と伝説のある村とも言われてるそうです。

村に入ると、全長約450mほどの道の両側に、茅葺屋根の民家が建ち並んでいます
時期的に、大きな鯉のぼりが沢山立ってました
  
道の脇を流れる用水路には、山の湧き水が流れていて、とても冷たかったです
民家のあちこちには蕎麦の文字が書かれていて、中には長ねぎで蕎麦を食べるところも
   
よくテレビで紹介されてるらしいので、知ってる方もいるでしょうか?

集落を進んで行くと、中間辺りには大内宿本陣跡があります。
元あった本陣は幕末に没落したそうですが、今は資料を元に再建され、町並み展示館となっていました。
さすが本陣跡と言うだけあって、ほかの民家に比べると大きくて立派です
 

そして山の上から見下ろそうと、どんどんと進むと上へと続く階段が・・・
     
な、長すぎるつうか、てっぺんまでが遠いっ
この急な階段を上りきる自信が無かったので(体力なさ過ぎ)、もうちょっと先へ進み、坂道を登って行きました

のぼって…のぼって…ε=( ̄。 ̄;A フゥ~休んで…またのぼって。。。

ようやく集落を見渡せる場所に着きました

とっても見晴らしが良くて、頑張って登ってきて良かった~
景色を見ながら少し休んで集落に戻ると、入ったときから気になってた香ばしい匂いのする方へ
その匂いの元は・・・
   
店先で焼いていた煎餅の匂いでした
あちこちで、大きな煎餅をかじりながら歩いていた人がいたのですが、これだったんだなぁ
と思いつつ、non達も1枚
      
たぶん、顔と同じくらいの大きさはあったと思います
煎餅を食べ終わった後も、お土産を見ながらあれこれ買って食べてしまいました

天ぷら饅頭は、お供えしてカチカチになった饅頭を油で揚げ、食べやすくしたものが今に伝わっているそうです
今で言えばリサイクル?昔の人の知恵ですね

いくら平日とはいえGW。しかもこの大内宿は観光の名所となってるので、駐車待ちもあるかなと思いましたが、そんなことはなく、ゆっくり見て回ることが出来ました
でも某SNSのコミュを見ると、3日からの連休には凄い人出で、駐車場まで2kmほどの渋滞で、車を止められるまで2時間半かかった人もいるそうです
いや~結構人が多いな、なんて思ってましたが、序の口だったんですね

・・・・・つづく

ぶらり会津の旅~その5 本陣&郷土料理

2008-05-07 | 旅行記
 会津2日目の記事がなかなか終わりませんが、いよいよ2日目も終盤です
相方の頭の中に大雑把な予定はあったみたいだけど、それでも時間配分などは考えず、無計画に回ってたせいか、飯盛山を下りた時点で夕方に。。。
周辺のお土産屋さんも閉まり始めました
それでも、ギリギリ間に合うか行くだけ行ってみようと向かったのは滝沢本陣。
 
閉館間近でしたが、『どうぞ』と快く入れてもらえました

ここは特に大きなお屋敷ではありませんが、歴代の会津藩主が参勤交代や領内巡視などの折に、旅支度をしたり休息所として使用していた所です

戊辰戦争の際、前線激励の為に藩主・松平容保自らがここに陣を敷き、本陣としました。
その時に護衛としてやって来たのが白虎隊です。

そして慶応4年(1868)8月22日 援軍要請を受け、他に兵がいなかった為に白虎隊に出陣命令がくだされます。
その時、隊士達は庭に整列して、この地から出陣して行ったそうです。
   

内部には、西軍がつけた刀傷や弾痕が生々しく残ってました
 
柱は、訪れた人たちが触るためか、艶が出てピッカピカでした

相方は、刀傷や弾痕はもちろん興味深げに見てましたが、何故か厠にテンションアゲアゲ
【使用禁止】と書かれてる札を見て、『シミになってるのは、しちゃった奴がいるのかなぁ。。。』とマジマジと覗き込んでました ヾ(・ε・。)ォィォィ
ところでこの滝沢本陣、土方歳三率いる新選組が進駐してた場所でもあるそうです
新選組好きとしては、同じ地に立てただけで、何だかドキドキもんでした

柱を撫でたり、容保公が座ったであろう御座之間に座ってみたりと、満足いくまで見回って、滝沢本陣を後にしました
その後何処か見て回るにも、時間的に無理そうだったので、ホテルへ戻る前に晩ご飯を食べようとお店に向かいました

せっかくの旅行だし、郷土料理くらい食べたいねってことで、相方が調べてくれたのが【渋川問屋】というお店です。
   
海産物問屋の建物をベースに作られた宿屋なのですが、食事だけの利用もOKとのことでここに決めました
ここの4代目になるはずだった渋川善助という男。2・26事件に加わり、民間人として唯一人処刑された人物だそうです
彼が青春期を過ごした部屋は、作家・三島由紀夫が「憂国の間」と名付けて今でも残されてるんですって。
なんか、凄いところ選んじゃったな

暖簾をくぐって中に入ると、大正時代にタイムスリップしたかのような雰囲気です
   

食事処に案内されると、囲炉裏のあるお座敷でとても落ち着いた感じ
会計をするところは、髪を結い、着物を着てキセルを持った女主人が座ってそうなイメージです
(写真:ストーブの向こう側辺り)
これは期待度UP
   

注文したのは「祭り御前・亀」コース料理です

本当は食前酒(にごり酒)が付くのですが、実は飯盛山を上った時点で軽~く発作を起こしかけてしまったので、アルコール類は泣く泣く諦めました

会津地方の郷土料理って何だろうと楽しみにしてましたが、ニシンが有名なんですね。知りませんでした
それと具沢山の「こづゆ」と言う汁煮物。お正月や祝いのときには欠かせない物だそうです
そういえばnon母がお正月に作る汁物には、この「こづゆ」のように、たくさんの野菜が入ってたっけ(non母は福島出身なのです)
きっとこれがルーツなのかな。。。

初めて食べる郷土料理は、とても美味しくて何処か懐かしい味がしました
やっぱり和食って落ち着くわ~
お腹いっぱいで満足しホテルに戻って、ひとっ風呂浴び終えると、前日同様アッと言う間に爆睡でした

・・・・・つづく

ぶらり会津の旅~その4 白虎隊の悲劇

2008-05-06 | 旅行記
 鶴ヶ城、武家屋敷と大幅に時間をかけ過ぎたので、ちょっと急ぎめで次に向かったのは、白虎隊記念館と飯盛山

記念館撮影禁止だったので写真はありませんが、貴重な史料がたくさんありました。

展示品の中には白虎隊関係の物だけではなく、近藤勇の鉢がねや、薩摩藩主・島津斉彬の短冊なども展示してあり、とても興味深いものばかりでした
あ!因みに、しょこたんの写真とサインが飾ってありました
なんでも、昔放送された白虎隊のドラマで、しょこたんのお父さんが、沖田総司役を演った縁だとか

さて、白虎隊記念館を出て、いざ飯盛山へ
が、これがまた階段の長さがハンパじゃないんです
   
な、なげぇ~~
とても上りきる自信がなかったので、nonだけスロープコンベア(¥250)を利用して上の方まで行きました

階段を上りきった先は広場のようになっていて、飯盛山で集団自決した白虎隊士や戦いで戦死した隊士達のお墓がありました。
  

そして広場の横の階段(また階段!)を下りたところには、悲劇の少年剣士達、白虎隊自刃の場があります。
  
戦いから敗走し、20名の白虎隊士は城が見渡せるこの飯盛山の高台に辿り着きました。
そのとき、城下町の大火災を鶴ヶ城が燃えたと思い、頼みの綱であった城が敵の手に落ちたと思ったのです。
彼らは敵の手にかかることを拒んで、最後まで会津の武士らしくあろうと鶴ヶ城に一礼すると、次々と自刃しました。
その悲劇の場所が、まさにこの地なんです。


街並みは随分と変わったでしょうが、白虎隊の隊士達もこの景色を見たのかと思うと、熱くこみ上げるものがあります
そうそうこの自刃から奇跡的に一命を取り止めた人物、飯沼貞吉氏は昨日の記事で紹介した武家屋敷の主人、西郷頼母の妻「千重子」の甥にあたる人なんですよ
この千重子という女性もまた、自刃して果ててるので、武家の教えというのは厳しいですね

隊士達のお墓に手を合わせ、わき道から下りてくる途中には、戸ノ口堰洞穴がありました。
   
この洞穴は、城の安否を確認するために隊士20名が通過した洞穴です。
傷つきながらも洞穴を抜けてきたこの先で、悲劇が待ち受けていようとは誰が想像できたでしょう。
何故彼らは死ななければならなかったのか。。。
白虎隊・・・やりきれない悲しい歴史です

・・・・・つづく

ぶらり会津の旅~その3 お墓参り&お屋敷

2008-05-05 | 旅行記
 昨日の記事を見た相方から『なんかマニアックだなぁ』と言われてしまいましたが、書き出したら止まらない
もうマニア街道まっしぐらです

会津2日目。鶴ヶ城を出た後は、車で10分ほど離れた、ある御方のお墓参りへ
と言っても、ここに眠っているのは首とも遺髪とも、はたまた遺品とも言われていて、どれが本当なのか分かりません
お墓に行くには、お寺の裏の山道を登って行かなくてはならず、これが結構大変
それでも会津に行ったからには是非行って見たい所だったので、必死で登り、お墓に辿り着きましたあ~しんどかった

そして、そこまでして行きたかったある御方のお墓とは・・・
   
新選組局長・近藤勇のお墓です。
山の中腹の静かな場所に建っていました

お墓に彫られている戒名は会津藩主、松平容保から賜ったそうで、とても立派な戒名なんですって。
そして隣には、土方歳三の慰霊碑も建っていました。
二人で手を合わせ、記帳台もあったので、しっかりと書いてきました

お墓を後にして、相方と新選組の話をしながら山道を下り、あと少しで下り終えるという時、とても不思議なことが
もう会津の方も桜は殆ど散ってしまって咲いてないはずなのに、何処からともなく沢山の桜吹雪が相方とnonの周りを渦巻き、山道を下り終えたらパタリとやんだんです
そして車に行き、鍵を開けて乗り込もうとしたら、今度は勝手にロックがかかってしまったのです
あまりに突然のことに、思わず、と、鳥肌が・・・
それからしばらく二人してその場を離れられず、少しの間佇んでしまいました
あれは一体なんだったんだろう…ま、気のせい気のせい

お墓参りの後は、会津藩家老・西郷頼母邸を復元した武家屋敷に行ってきました
   
いや~昔の屋敷が大きいのは認識してましたが、想像以上で驚きました屋敷間取図
2004年に放送された大河ドラマ「新選組」のロケはココで行われたそうです
松平容保役の筒井道隆さんのサインが飾られてました
   

表玄関(左上)、厠(右上)
   
風呂場(左下)、精米所(右下)
厠(トイレですね)は畳敷きになっていて、3畳分もあるんです Σ(`д`ノ)ノ ヌオォ!!広っ!
お風呂は、台所でしか火を使えなかったので、沸かした湯を風呂場まで運んだそうです
凄い労力ですよね

何処を見ても立派で凄いなぁと思って見ていた屋敷ですが、少しずつ進んで行くと、『凄いね~大きいね~いいなぁ、こんな家』などと能天気なことを言ってられなくなりました。

西郷家は、会津藩松平家の家臣で、代々家老職を務めていた家柄。

幕末期の戊辰戦争の際には、京都守護職辞退を進言したものの叶わず、その後一族は数奇な運命を辿ることになるのです。

この屋敷には【自刃の間】と呼ばれる間があり、そこは、西軍が会津城下に総攻撃を開始した日、戦いで『足手まといになるまい』と考えた西郷家の婦女子21人が自ら命を絶った間なんです。
幼い子供を刺し殺し、自らもまた命を絶つ…ここにも悲劇の歴史があったんですね

それから、武家屋敷の施設内には、坂本龍馬を切ったと言われてる男「佐々木只三郎」の墓もあったので、一応手を合わせてきました
   

この武家屋敷を見て回るのに(案内図)所要時間は約1時間と書いてあったのですが、鶴ヶ城に続き、またしてもじっくり見過ぎて、2時間近く経過してしまいました

・・・・・つづく

ぶらり会津の旅~その2 鶴ヶ城

2008-05-04 | 旅行記
 会津2日目。
この日は市内を観光しようと話してたので、まずは以前から行きたかった、東北三名城の一つ、鶴ヶ城へ出発

お城の敷地内に入ると、鐘撞堂がありました。
   
鐘撞堂とは、時刻を城下に知らせていた堂です
この写真の鐘撞堂は、戊辰戦争の際、西軍の集中砲火を浴び、時守が次々と斃れたにもかかわらず、開城の最後まで時を報じ、味方の士気を鼓舞したそうです。

そして、さらに中に進むと、ついに・・・
   
キタ━ヾ(   )ノ゛ヾ( ゜д)ノ゛ヾ(゜д゜)ノ゛ヾ(д゜ )ノ゛ヾ(  )ノ゛━━!!
本丸です
戊辰戦争、悲劇の舞台ともなった城です。(あくまで個人的主観ですが
実はこの鶴ヶ城、伊達政宗や上杉景勝など、名だたる勇将も城主としたお城なんですよ
今建っている鶴ヶ城は復元されたものですが、写真や資料を元に本格的に復元されてるので、城好きとしては感慨深いものがあります。。。
あ!けっして城マニアって訳じゃないので、あしからず
でも傷ついた鶴ヶ城の写真は、戦いの壮絶さを物語っていますこちら

城内は博物館となっていて、せっかくなので入場してきました
     
ここから先は、撮影禁止だって。残念

ちなみに、入ってすぐの所には塩蔵の様子を再現したものがあり(ちょ~寒かった)階段を上って
一層 歴代藩主の資料
二層 江戸時代の会津の紹介
三層 錦絵で描く会津戊辰戦争
四層 季節ごとの城下の風物の紹介
五層 展望フロア
となっています

五層の展望フロアからは会津の街並みが眺められ、城の敷地内も見渡せます
敷地内には、千利休の子(小庵)が建てたと言われる茶室「麟閣」も見えます
 
一応、元・茶華道部の端くれとしては茶室にも行ってみたかったのですが、城のあちこちに見入ってしまい、博物館を出た時点で、すでにお昼
まだまだ見に行くところがあったので、諦めました
多分、鶴ヶ城を満足いくまで見回ってたら丸一日かかるかも
いずれ、また行く機会があれば、その時は一日予定を組んでおこうっと

城の記事だけで、随分長くなってしまいましたが、まだまだ続きます