「法蔵菩薩様」は「苦しみに沈む流転の私たち」をご覧になられご本願を立てられました。。。
そして「私たち」のために長~い間ご修行なされ、その「ご本願は成就」しました。。。
成就したので、お名前は「法蔵菩薩」から「阿弥陀仏」となり、既に「十劫」が経過しています。。。
・・・ということは、「私たちが仏さまになるおはたらき」は、
既に「南無阿弥陀仏」となって「この世界」に響き渡っています。。。
「南無阿弥陀仏」とは「十方衆生成仏」の「願行具足」の「南無阿弥陀仏」。。。
「信」も「行」も「真実」の「願行具足」の「南無阿弥陀仏」。。。
「真実」っていうことは「無分別」で「平等」で「欠け目がない」。。。
だから「南無阿弥陀仏」は「無分別」で「平等」で「欠け目がない」。。。
「南無阿弥陀仏」は「南無阿弥陀仏」であって、
「それ以上」でも「それ以下」でもありません。。。
それでも・・・。
私たちの身体を通って口から出てくる「南無阿弥陀仏」は、悲しいことに・・・、
「自力心」だと「余計なもの」が付随しちゃうんです。。。( ;∀;)
そんな「余計なものをくっつける念仏者」の特徴は・・・。
「「阿弥陀様」は「お念仏称えよ」とおっしゃっている」
とか
「「お念仏」称えなさい」
とか
「「お念仏」せよ」
とか
「「専修念仏」せよ」
とか
「「念仏一行」せよ」
とか。。。
「しなさい」とか「せよ」とか、優しい言葉なら「しておくれ」とか・・・。
それは一言でいうと、「命令形」の「南無阿弥陀仏」。。。
「命令する」とは、裏を返せば「上下関係がある」ということです。。。
仏さまの世界に「上下関係」はありませんし、仏さまのお智慧は「平等」です。。。
もちろん、阿弥陀様の本願成就の賜物である「南無阿弥陀仏」も「無分別智」です。。。
でも・・・。
「無分別智」の「南無阿弥陀仏」が、私たちの身体を通って、口から出てくると、
なぜか「命令系(分別智)」の「南無阿弥陀仏」に様変わりしてしまう。。。
じつは・・・。
それが「余計なもの」なんです。。。( ;∀;)
それが「自力心」なんです。。。( ;∀;)
それが「迷智」なんです。。。( ;∀;)
「命令系」の「南無阿弥陀仏」を称える人って、裏の心は、
「命令に逆らう人」を「排除」します。。。Σ( ̄□ ̄|||)
「命令系」の「行者」は「自分の中」に「正義」を作ります。。。
この「正義」こそが「強い強い分別智」の親玉です。。。
「阿部先生」が「東京恵日会」で面白いことを仰っていました。。。
「後生仏になれないのは、仏になろうとする心があるからだ」と・・・。
根っこは一緒なんです。。。( ;∀;)
私の中に「仏さまになる心」を探そうと努力する・・・けれど、
その行為は「まったく要りません!!」
一生懸命は、既に阿弥陀様がなされています。。。
「信」も「行」も完成して、「南無阿弥陀仏」となってこの世界に届けられています。。。
私たちは、ただ、それを聞いて「喜んでお念仏をする」。。。
本当に、ただそれだけなんです。。。
「本願成就嬉しいな。」
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」
「単純明快。南無阿弥陀仏。」
「あなたも。わたしも。南無阿弥陀仏。」
「ただただ。それだけ。南無阿弥陀仏。」
なもあみだぶつ♬ なもあみだぶつ♬(*´▽`)ノ.•*¨*•.¸¸♬