浄土真宗は十派あるそうですが、その宗派の中で。。。
「御文章」を読んでいる宗派からは「妙好人」が出るそうですが、
「御文章」を読んでいない宗派からは「妙好人」が出ないそうです。。。
((えっ?!!))
それはウソでしょう!??
この世の中は「妙好人で溢れているじゃないか?」って!?
「お念仏を喜んでいる人は、た~くさんいるよ!」って!?
実は、私も、親鸞会を辞めた当初は、そう思っていました。
「えぇ~!!?親鸞会で足止めされてる間に「獲信者」いっぱいいるやん!!」って・・・。
でも親鸞会を辞めた時、そんなふうに焦っていた私に、「RCさん」がよく言っていました。
「ダイヤモンド(他力)」を知る人は「ガラス玉(自力)」がわかります。
「ガラス玉(自力)」しか知らない人は「ダイヤモンド(他力)」がわかりません。
って・・・。
それで「具体例」を挙げて、説明してもらったこともありました・・・。
でも、そうは言われても・・・。
当時は「自力心」だったから、何を言われても、ぜんぜん、さ~っぱり、
「何が違うのか?」が、わかりませんでした。
でも、今は違います!!
「他力の世界」に出させていただくと、この点については、ビミョーなことも、よ~く見えてしまいます。。。
ってか、この点については「れおん」が
「救われていることに気づくのが、めちゃくちゃ遅れた原因」
でもあります。(笑)
だって・・・。
世の中に溢れている「ご法話」「本」「インターネット」「YouTube」上の「他力信心のお味わい」が
「れおん」の「信心」とまったく合わなかったから・・・。
これについては、結構あせりました。。。Σ( ̄Д ̄;)
「えっ?」「えっ?」「どういうこと?」
「この人、こんなに堂々と「法を説いている」のに、
「信心」が、まったく合わないじゃん!!」
・・・・・・・・・・。
「他力の信心」は、阿弥陀様から賜った「ご信心」です。
その「信心が異なる」ということは、
どちらかが「ニセモノの信心」だ!!
ということになります。
「獲信までの道のり」では、真実信心の考察は「1か月間」と書きましたが、あれからもグダグダと考察して、
なんやかんや「2か月以上」は掛かりました。
彼らとの違いは、以下の通りです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
・「れおん」は、経緯が経緯なだけに、一念の前後に溢れるようなお念仏を称えていません。
(お仏壇へのお参りは習慣で朝晩していましたが、あくまでも慣例的なお念仏です。)
・パニクっていたので2週間くらいは「信心歓喜」がありません。
(正直、それどころじゃありませんでした。(笑))
・大方は「十方衆生は絶対に助からない!」を強調して「助からない自己を人に勧めています」が、
どう頑張っても「十方衆生は全員が助かる!」ことが知らされました。
・「自身虚仮」「世間虚仮」のデタラメな世の中を知れば、欲がそがれてしまうのに、
中には、妙に欲に全力な人も見受けられるので、「随分と世俗的な他力信心だなぁ。」と思いました。
・「他力の境地」になると、極力「争いごとを避けよう」とします。
私の場合は、感情が振れると「別視点のブレーキ」が掛かるので極力穏やかにすごします。
でも中には、自分と意見が合わない人を徹底的に攻撃している人も見受けられるので、
「随分と闘争的な他力信心だなぁ。」と思いました。
・「他力の境地」になると、「生」「死」が表裏一体になり、目線は「「死」から「生」を見る」のに、
なぜか「生」と「死」を切り離して、「「生」から「死」を見て」話す人がほとんどなので、
「随分と日常生活を問題にする他力信心だなぁ。」と思いました。
・「他力の境地」って、一言で言えば「生死観」が真逆にひっくり返るのですが、
その大変わりした想いを「自分の言葉」ではなく
「お聖教のお言葉の引用」でしか表現できない人がほとんどなので、
「随分とアッサリした他力信心だなぁ。」と思いました。
中には、「「弥陀の本願をそのとおりと聞く」以外、何も変わらない!」
とかいう「他力信心の人」もいて、
「それ、な~んも変わってないじゃん!(笑)」
って思ったりもします。。。(^▽^;)
・・・ということで、
結論としては・・・、
「私」と「南無阿弥陀仏」が一体になって、
「私」の中に「無分別智(真実信心)」がなだれ込んできて、
「欲怒り愚痴の心(煩悩)」が薄められたのに、
なぜか全力で「権威」や「金品」を求めたり「他人攻撃」をしたりと、
「フツーに「分別智全開~!\( 'ω')/」のままの人が多いよね~。」
・・・と思った次第です。
まぁ、そんな感じです。。。
・・・で、何が言いたいのかというと。。。
すんまへん。。。
「れおん」は「ダイヤモンド(他力)」を知ってしまったので、
「ガラス玉(自力)」を見破ります!!
この先「れおん」と同じことを言い始めたら、分からなくなるかも!ですが、
一緒に生活をすれば、やっぱり、すぐにバレてしまいます。(笑)
このあたりは、改めて「心口意の三業で信心をはかれるのか?」
というタイトルで記事を書いてみたいと思っています。。。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
って、こ~やって書いちゃった時点で答えはバレバレですね。。。( ̄▽ ̄;)
あと、、、。
「どうしたら助かるのか?」は・・・。
やっぱり「御文章」ですよ。。。
「御文章」って、どれを読んでも
「(雑行・雑修・自力の心をふり捨てて)後生たすけたまえと弥陀たのめ」
・・・と、ぶっちゃけ、「どうしたら助かるのか?」
って、これしか書かれていないんですよ。。。
でも、昨今は「御文章」ではなく「歎異抄」がもてはやされています。。。
この「歎異抄」は非常に「キケン」だと思います。。。
なぜなら「他力信心の人」が読めば「ドンピシャ」で、これほど「痛烈な表現はない」んです!!
「よくぞ、私の胸の内をおっしゃってくれました!!」ってな感じで拍手喝采です!!
でも、それは「他力信心の人」、すなわち・・・、
目線が「「死」から「生」を向いている人向け」の物言いです。
これを、「自力心の人」、すなわち・・・、
目線が「「生」から「死」を向いている人」が読んだなら、
「究極の権威至上主義」ととらえてしまったり、「お念仏さえすれば助かる」と思ってしまい、
余計に「自力心を募らせてしまうキケンな書物」になってしまうのです。
だから「蓮如上人」は、「信心がない者には見せてはならない!」っておっしゃったんですよね。。。
なのに、昨今は・・・。
こんなグローバルな情報社会だから、隠すワケにもいかず、
「余計な情報」ばかりが溢れて、人々が余計に戸惑う結果になっているのだなぁと思いました。。。
なので・・・。
これを読んだみなさんは。。。
まずは「御文章」をよ~く読んでくださいね。。。
「仏願の生起本末」をよ~く聞いてくださいね。。。
「南無阿弥陀仏」のおいわれをよ~く聞いてくださいね。。。
結論は・・・。
「本願は既に成就しているのだから、私のはからいはいらないよ!」
ということです。。。
そして「他力信心の人」になってから、いっぱい、いっぱい、
思う存分「歎異抄の世界観」を味わってくださいね。。。
以上です!!
なもあみだぶつ☆*ヾ(-∀・*)*+☆