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浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

「真実信心」が異なる!って、ど~ゆ~こと!?

2021-07-04 07:18:15 | 【他力信心のお味わい】

 浄土真宗は十派あるそうですが、その宗派の中で。。。

 

「御文章」を読んでいる宗派からは「妙好人」が出るそうですが、

「御文章」を読んでいない宗派からは「妙好人」が出ないそうです。。。

 

((えっ?!!))

 

それはウソでしょう!??

この世の中は「妙好人で溢れているじゃないか?」って!?

「お念仏を喜んでいる人は、た~くさんいるよ!」って!?

 

実は、私も、親鸞会を辞めた当初は、そう思っていました。

「えぇ~!!?親鸞会で足止めされてる間に「獲信者」いっぱいいるやん!!」って・・・。

 


でも親鸞会を辞めた時、そんなふうに焦っていた私に、「RCさん」がよく言っていました。

 

「ダイヤモンド(他力)」を知る人は「ガラス玉(自力)」がわかります。

「ガラス玉(自力)」しか知らない人は「ダイヤモンド(他力)」がわかりません。

 

って・・・。

それで「具体例」を挙げて、説明してもらったこともありました・・・。

 

でも、そうは言われても・・・。

当時は「自力心」だったから、何を言われても、ぜんぜん、さ~っぱり、

「何が違うのか?」が、わかりませんでした。

 

でも、今は違います!!

 

「他力の世界」に出させていただくと、この点については、ビミョーなことも、よ~く見えてしまいます。。。

ってか、この点については「れおん」が

 

「救われていることに気づくのが、めちゃくちゃ遅れた原因」

 

でもあります。(笑)

 

だって・・・。


世の中に溢れている「ご法話」「本」「インターネット」「YouTube」上の「他力信心のお味わい」が

「れおん」の「信心」とまったく合わなかったから・・・。

 

これについては、結構あせりました。。。Σ( ̄Д ̄;)

 

「えっ?」「えっ?」「どういうこと?」

「この人、こんなに堂々と「法を説いている」のに、

「信心」が、まったく合わないじゃん!!」

 

・・・・・・・・・・。

 

「他力の信心」は、阿弥陀様から賜った「ご信心」です。

その「信心が異なる」ということは、

 

どちらかが「ニセモノの信心」だ!!

 

ということになります。

 

「獲信までの道のり」では、真実信心の考察は「1か月間」と書きましたが、あれからもグダグダと考察して、

なんやかんや「2か月以上」は掛かりました。


彼らとの違いは、以下の通りです。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・「れおん」は、経緯が経緯なだけに、一念の前後に溢れるようなお念仏を称えていません。

(お仏壇へのお参りは習慣で朝晩していましたが、あくまでも慣例的なお念仏です。)

 

・パニクっていたので2週間くらいは「信心歓喜」がありません。

(正直、それどころじゃありませんでした。(笑))

 

・大方は「十方衆生は絶対に助からない!」を強調して「助からない自己を人に勧めています」が、

どう頑張っても「十方衆生は全員が助かる!」ことが知らされました。

 

・「自身虚仮」「世間虚仮」のデタラメな世の中を知れば、欲がそがれてしまうのに、

中には、妙に欲に全力な人も見受けられるので、「随分と世俗的な他力信心だなぁ。」と思いました。

 

・「他力の境地」になると、極力「争いごとを避けよう」とします。

私の場合は、感情が振れると「別視点のブレーキ」が掛かるので極力穏やかにすごします。

でも中には、自分と意見が合わない人を徹底的に攻撃している人も見受けられるので、

「随分と闘争的な他力信心だなぁ。」と思いました。

 

・「他力の境地」になると、「生」「死」が表裏一体になり、目線は「「死」から「生」を見る」のに、

なぜか「生」と「死」を切り離して、「「生」から「死」を見て」話す人がほとんどなので、

「随分と日常生活を問題にする他力信心だなぁ。」と思いました。

 

・「他力の境地」って、一言で言えば「生死観」が真逆にひっくり返るのですが、

その大変わりした想いを「自分の言葉」ではなく

「お聖教のお言葉の引用」でしか表現できない人がほとんどなので、

「随分とアッサリした他力信心だなぁ。」と思いました。

 

中には、「「弥陀の本願をそのとおりと聞く」以外、何も変わらない!」

とかいう「他力信心の人」もいて、

「それ、な~んも変わってないじゃん!(笑)」

って思ったりもします。。。(^▽^;)

 

・・・ということで、

 

結論としては・・・、

 

「私」と「南無阿弥陀仏」が一体になって、

「私」の中に「無分別智(真実信心)」がなだれ込んできて、

「欲怒り愚痴の心(煩悩)」が薄められたのに、

なぜか全力で「権威」や「金品」を求めたり「他人攻撃」をしたりと、

「フツーに「分別智全開~!\( 'ω')/」のままの人が多いよね~。」

 

・・・と思った次第です。

 

まぁ、そんな感じです。。。

 

・・・で、何が言いたいのかというと。。。

 

すんまへん。。。

 

「れおん」は「ダイヤモンド(他力)」を知ってしまったので、

「ガラス玉(自力)」を見破ります!!

 

この先「れおん」と同じことを言い始めたら、分からなくなるかも!ですが、

一緒に生活をすれば、やっぱり、すぐにバレてしまいます。(笑)

 

このあたりは、改めて「心口意の三業で信心をはかれるのか?」

というタイトルで記事を書いてみたいと思っています。。。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

って、こ~やって書いちゃった時点で答えはバレバレですね。。。( ̄▽ ̄;)

 

あと、、、。

「どうしたら助かるのか?」は・・・。

 

やっぱり「御文章」ですよ。。。

 

「御文章」って、どれを読んでも

 

「(雑行・雑修・自力の心をふり捨てて)後生たすけたまえと弥陀たのめ」

 

・・・と、ぶっちゃけ、「どうしたら助かるのか?」

 

って、これしか書かれていないんですよ。。。


でも、昨今は「御文章」ではなく「歎異抄」がもてはやされています。。。


この「歎異抄」は非常に「キケン」だと思います。。。


なぜなら「他力信心の人」が読めば「ドンピシャ」で、これほど「痛烈な表現はない」んです!!

「よくぞ、私の胸の内をおっしゃってくれました!!」ってな感じで拍手喝采です!!

 

でも、それは「他力信心の人」、すなわち・・・、

 

目線が「「死」から「生」を向いている人向け」の物言いです。


これを、「自力心の人」、すなわち・・・、

目線が「「生」から「死」を向いている人」が読んだなら、

「究極の権威至上主義」ととらえてしまったり、「お念仏さえすれば助かる」と思ってしまい、

 

余計に「自力心を募らせてしまうキケンな書物」になってしまうのです。

 

だから「蓮如上人」は、「信心がない者には見せてはならない!」っておっしゃったんですよね。。。


なのに、昨今は・・・。

こんなグローバルな情報社会だから、隠すワケにもいかず、

「余計な情報」ばかりが溢れて、人々が余計に戸惑う結果になっているのだなぁと思いました。。。


なので・・・。

これを読んだみなさんは。。。

 

まずは「御文章」をよ~く読んでくださいね。。。

「仏願の生起本末」をよ~く聞いてくださいね。。。

「南無阿弥陀仏」のおいわれをよ~く聞いてくださいね。。。

 

結論は・・・。

 

「本願は既に成就しているのだから、私のはからいはいらないよ!」

 

ということです。。。


そして「他力信心の人」になってから、いっぱい、いっぱい、

思う存分「歎異抄の世界観」を味わってくださいね。。。

 

以上です!!

 

なもあみだぶつ☆*ヾ(-∀・*)*+☆


しょ~もない落書き

2021-06-22 05:12:49 | 【他力信心のお味わい】

稲城選恵和上のお話でこんな「妙好人のエピソード」がありました。

 

大阪の和泉の吉兵衛さんという妙好人が、自宅の壁に落書きを書いたそうです。

「阿弥陀さんとワシが 相撲を取ってみた」

「残念でたまらん ワシは負けてしもうた」

という落書き。。。

 

「阿弥陀さんとワシが相撲でぶつかり合う」のは「一心に弥陀をたのむ」ということ。

「助かるか助からないか」は阿弥陀様に聞く。

そして、「ワシは負けてしもうた」は「自力の心が廃る」ということ。

 

これが「自力の心をふり捨てて一心に弥陀をたのむ」ということ。

 

「ワシは負けた」のだから、そのあとは「弥陀の仕事」しか残らない。

だから「負けた後」は、「ワシ」が「救われようが救われまいが」ぜんぶ「弥陀の仕事」ってワケ。。。

 

 

・・・って、「なんで急にこの話題なの?」って思ったそこのアナタ!!

 

 

実は・・・。わたくし「れおん」も・・・、

仕事中につまらなくなっちゃうと、ふと・・・。

 

ついつい「しょ~もない落書き」を書き始めちゃうんです。(笑)

 

((お~い、真面目に仕事しろ~!!( ̄▽ ̄;)))

まぁ、ほとんどは「他力信心」の「ネタ探し」をしているのですが・・・。(笑)

 

((お巡りさん、給料泥棒はコイツで~す!!(^▽^;)))

 

で、ワリと良いオチがひらめくと、阿弥陀様が

 

「お~い、山田君。座布団二枚持ってきて~!!」

 

って・・・、そんなことは言われませんが、ちょっぴり褒められた気分になります。(笑)

 

((って、だんだんヤバい境地になってるよね・・・。L(゚□゚)」オーマイガ!))

 

ってことで、なんのオチもひねりもない「どうしようもない落書き」を書いちゃって、

ボツにしようと思ったけれど・・・。でも、

捨てるのも、な~んか勿体ないんで、ちょっくら披露させていただきます・・・。(^ω^;)

 

「疑蓋がある私」と「なくなった私」のイメージ図です。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

・・・・・・・・・・。

 

いやぁ、ホントに、なんのオチもひねりもなくてすんまへん。( ( (_ _|||) ) ) どよぉ~ん。。。

 

い、い、一応説明させて!! (>_<)ノ

 

この世界は最初から「南無阿弥陀仏」で溢れているんよ~。。。

ってか、この空間自体が「南無阿弥陀仏」で出来上がった空間なんよ~。。。

でも、単色でベタ塗りすると面白みがないから、「なむ」「なむ」「なむ」って、

「南無阿弥陀仏が無限にいっぱいあるよ!」ってイメージしているんよ~。。。

 

それで、ほとんどの「南無阿弥陀仏」を私が「疑蓋のバリア」ではねつけていて、

たま~に「疑蓋」を突破して中に入り込むのが、

私の口から声となって出てくる「南無阿弥陀仏」って感じ。

でも、その「南無阿弥陀仏」は「信も行も真実」のハズなのに、

「私の自力心」によって、余計なものを付随させちゃって、

勝手に「称名雑行」に変えちゃっているって感じ。

 

だから、この「疑蓋」があるまま後生になっちゃったら・・・。

 

「残念無念、また来世~♪」(←テニプリ菊丸英二くん風)

 

・・・ってことですわ~。。。( ̄▽ ̄;)

 

で・・・、この度、めでたく「疑蓋」がなくなってしまうと・・・。

 

もう、こっちが拒否しても、

どんどん身体の中に「南無阿弥陀仏」が入ってきちゃう~♡

 

・・・ってワケ。

 

で、で、で。

「私たちは最初からお救いの中にいたんだー!!すげぇ~!!」とか、

「お釈迦様も七高僧も親鸞聖人も蓮如上人も妙好人も、

みんな、おんなじこと思っているんだー!!すげぇ~!!」

とかいう驚きは、

 

それそれは格別で、「そりゃ、躍り上がるほど嬉しい」

 

けれど、普段の「他力の境地」は

 

「心静かで穏やかな凪」

 

なので、右の「他力信心のイメージ図」は、縁側でお茶をすすりながら

「しみじみと救われた喜びをかみしめている」って感じです。

 

・・・って。。。

 

こんなに長ったらしく「説明文」を書かないと、

「なんのこっちゃ意味わからんイメージ図」になってしまって、

やっぱり「ボツ作品」だなぁと思った次第です。。。(ー∀ー;)ズガーン

 

・・・・・・・・・・。

 

まぁ、まぁ、そういうことなんで。。。

たまには生温かい目で見てやってくださいな。。。

 

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」

 

ってなところで、そのうちヒットするかもしれません。。。

 

そんな日が本当に来るのだろうか・・・。

 

気長に見守ってやってくださいな。。。

 

なもあみだぶつ ♬===(´□`;)==⇒グサッ!


「二益法門」「2つの往生」のイメージ図

2021-06-10 05:15:12 | 【他力信心のお味わい】

 2021年6月7日の記事【親鸞会発行_教学版№116「2つの往生」について」記事投稿 - goo blog】で、

 

「二益法門」

往生には2つの意味があります。「生かされて往く『往生』」と、「行って生まれる『往生』」

【「親鸞会のイメージ図」がおかしい!】という記事を書きました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 本当は、阿弥陀様に救われると・・・、

「この矢印は、逆向きだ!」

ということで、結論は、

「生かされて往く『往生』」「行って生まれる『往生』」「表裏一体」になっていて、

「二益」ではあるけれど「切り離すことができない『往生』」だと味わっています。

だから「後生が助かって安心」だから「今生も安心して生きられる」かなぁ・・・。

と、書きました。。。

 

でも「間違っている!!」って言っておいて、言いっ放しなのは、

なんだかモヤモヤしてしまって・・・。 

それなら、次は・・・、

「じゃぁ、他力になるとどういうイメージなのよ?」

と思い、(こっそり仕事中に)少し考えてみました。(笑)

 

※ 注意) あんまり「上手いイメージ図」じゃないので悪しからず。( ̄▽ ̄;)

 

まず最初に・・・。

「れおん」が阿弥陀様から「ご安心をいただく前」は、

実は、こんなイメージを持っていました。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「な~んだ、「親鸞会のイメージ図」とぜんぜん変わらないじゃん!!」

って思った、そこのキミ!!

・・・・・・・・・・。

そうだよ! 私も、以前はそう思っていました。。。

ってことで、おもっきし、今生と後生が分裂していました。(笑)

なので「自力心」のときはフツーに、

「信心決定して」→「後生の一大事を解決して」→「今生楽しく過ごして」→「後生仏さまになる」

・・・と「遠い先の未来」「後生」を見ていました。

 

ところが、阿弥陀様から「ご安心をいただいた後」・・・というか、

「いただいた瞬間」に、こんな感じになりました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

う~ん・・・。

身体はね、「煩悩具足の凡夫」で変わらないんだけど・・・。

心はね、「今」と「後生」が「ドッキング」。

 

なので・・・。

「生」と「死」が「ドッキング」しちゃって、

「吸う息、吐く息」の「今の瞬間」に、

「生」と「死」の「両方」を感じているんですよ。。。

で、目線は「死」から「生」になって、

それで、「後生が助かって安心」だから「今を安心して生きられる」

ということで、「生きる問題も同時に解決」ということになります。

 

・・・ということで、「れおん」は、

それこそが「二益法門の醍醐味だ」と味わっています。(*´∀`*)ゞ

 

以上です!!

 

なもあみだぶつ ♬(*´▽`)ノ.•*¨*•.¸¸♬


「ただ」の「ただ」も要らん、「ただ」じゃったー!

2021-06-06 05:30:27 | 【他力信心のお味わい】

◆◆◆ 【親鸞会】で聞いたこと。 ◆◆◆

 

「正信偈」の「正定之因唯信心(お浄土に往生し、仏となる身に定まるのは信心一つ)」について

「高森会長」がこんなお話をされていました。

 

「ただ(唯)信心一つ」で「阿弥陀様に救われる」「ただ」とは・・・。

(聞き始めは・・・)

「「ただ」じゃそうな。」
   ↓↓↓

(でも、聞いていくと・・・)
「どうなった「ただ」か。「ただ」がわからん。」
   ↓↓↓

(そして、救われると・・・)
「「ただ」の「ただ」も要らん、「ただ」じゃったー!」

 

・・・と、このような心の経緯をたどると言われましたが、

 

じつはコレ、本当に本当のことでした!!!!

 

゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚

 

「信心」がわからないと。

これほど「難解」なものはない。

でも、「信心」がわかると。

これほど「簡単」なものはない。

 

「信心」がわからないと。

「生」の未来に「死」を見ます。

でも、「信心」がわかると。

その瞬間に「生」と「死」がドッキング。

「死」から「生」を見つめます。

 

「信心」がわからないと。

「生活の苦」【今】と「死の苦」【後生】を分けて考えます。

でも、「信心」がわかると。

その瞬間に「生」と「死」がドッキング。

【今】と【後生】がドッキング。

【後生】の「苦」がなくなって、【今】の「苦」も気にならない。

 

まったくもって、

すべてが逆の世界です。

 

゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚

 

浄土真宗の【念仏者(他力の人)の生き方】で

【生活や心がけの改善】を言わないのは

そういうことなのです♪

 

なもあみだぶつ♬ (*´∀`*)ゞ


「二種深信」を「ドラクエ」に例えてみたら。。。

2021-05-31 21:18:20 | 【他力信心のお味わい】

前回の記事で、

「私の機の深信」は【「世間虚仮」と「自身虚仮」の両方があったから成立した】

・・・と申し上げました。

今日は、この「機の深信」を中心に、「二種深信」について、

別の角度?(←ただの趣味だよ!)から掘り下げてみようかと思います。

 

・・・・・・・・・・。

 

さ、先に断っておきます。。。

既に「タイトルがアホ丸出し」ですが、

途中から「れおん」の趣味全開の、しょ~もない「例話」になりますので・・・。

ガッカリしちゃうかもです。(笑)

 

まぁ、通販番組の・・・。

※この記事は個人の感想(お味わい)であり、効果・効能(教義)を示すものではありません。

みたいな感じで、かる~く読んでいただければ幸いです。。。

 

さて。。。まずは「機」の深信です。。。

冒頭に「世間虚仮」と「自身虚仮」と書きましたが、

意外と「世間虚仮」ってのは分かりやすいんですよ。。。

なのに「自身虚仮」って、ぜ~んぜん、サ~ッパリ分からない。。。

 

って・・・。

こんなことを言うと「それ言われなくても知っているよ!」って、

きっと思うと思います。

 

その理由は?っていうと。

「世間を見る」っていうのは。

目線が「自分」→「他人(の集団)」だから、

欲目なしで、客観的に分析できる!

でも「自分を見る」になると。

目線が「自分」→「自分」だから、

自分可愛さに、主観的な自己防衛に走っちゃう!

 

「→」ていう「矢印」は、

「自分」から「他人」なら「→」で真っ直ぐだけれど。

「自分」から「自分」なら「↩」で【力を加えて曲げなきゃ!】だから。

これはなかなか至難の業。。。

 

存在が近すぎるから。。。

「自分」で「自分」の顔をを見られないしね。。。

 

((※ ちょっと脱線しますが、ここで【「自分」を見つめて「私」が「法鏡」に近づく】ってなると、

「私のはからい」を強めちゃって、お救いから遠ざかりますので、気をつけてくださいね。(・ω・)ノ))

 

・・・で、こんなことを言うと、やっぱり「それ言われなくても知っているよ!」って、

きっと思うと思います。

 

じゃぁ、なぜ「私」は「私」が分からないの???

 

「それは何故か?」と聞かれたら。

 

「人間の脳」は・・・。

「最初に入ってきた情報(一次情報)」を「正しい」と、

「次に入ってきた情報(二次情報)」を「誤りだ」と、

そのように捉えるように作られているからです。(←これは自説ではありません。( ̄▽ ̄;)ノ

 

これは、あたまの良し悪しは関係ありません。

全ての人間はこのように作られているのです。

 

例えば・・・。

 

年がいっている「お母さん」と「お姉ちゃん」と暮らしていたら、

あるとき、戸籍を見て、

実は「お母さん」が「お婆ちゃん」で

「お姉ちゃん」が「お母さん」だと知ってしまった!!

とか・・・。(←ゴメン。ちょっとシャレになっていないかも。(;´^_^`)ノ)

 

「お母さん」の年齢が「25歳」だと思っていたら、

実は「40歳」だった!!

とか・・・。(←知人が、子供に年齢を偽って育てていました。(笑)ヾ(・ω・`;)ノ)

 

とつぜん「人生の目的を考えたことがあるか!?」って聞かれて、

「なかった」ので、そのまま相手の言い分を鵜呑みにして、

言われるままに「廃悪修善」を実行していた!!・・・ら、デタラメだった!!!!

・・・とか。(←シーー( ̄、 ̄*)ーーン・・・。)

 

なので、「なぜ学歴の高いXX大生がXXXにハマるのか・・・?」

みたいな週刊誌ネタも、元をたどればココから来ているのかなぁと思いました。

 

一次情報ってコワいねぇ。。。(笑)

 

更に言うと、この現象は「人間として生を受けてから既に始まっている」ことなので、

(三世で見れば更に前からだけれど・・・。)

それがまた、たちが悪いんですよ。。。

「一次情報」を掴んでしまった後に「二次情報」で「実は違うんだよ!」って言ったところで、

もう「一次情報」が「正」となってしまっているので、覆すのは、けっこうムズイ。。

 

それが一種の「催眠」というか「洗脳」というか・・・。

なんとも悲しい生物ですわ~。_| ̄|○

 

で、この「人間の特性」をうま~く利用すると、実は「影の権力者」になれるんです。(←余談です。)

 

人目に付くように(選択できる)二者を用意して、

「「Aが悪い!」あいつをやっつけろ!」って焚きつける。

次に、「「いや違う、Bが悪い!」あいつをやっつけろ!」って焚きつける。

・・・で、みんなの目を「A」と「B」に引き付けて、「私腹を肥やすC」が裏にいる。

しかも、その「C」を見つけても、更にたちの悪い「Cの作った実世界」を

何食わぬ顔で、正当化している「ラスボスのD(私)」が潜んでいるんだ。

「私腹を肥やすC」は「世間虚仮」で「ラスボスのD(私)」は「自身虚仮」。

 

これってすごくね?

 

この世に生を受けた全ての人が

「初めから」「トリックミステリーの中」にいるんですよ~。

しかもワケがわからず「お互いがお互い」に

「正義の刃物」を振りかざして、傷つけあっているっつー滑稽な世界。(^▽^;)

 

「A」と「B」は「C」の傀儡。

「C」は「D」の傀儡。

 

まさに「二重トラップ」なんですよ~。

 

で・・・。

う~ん。うまく言えないけれど・・・。

 

「A」と「B」の「選択肢」は「分別智」なのかなぁ~と。

「C」は「分別智を構成している集合体(世界や人々)」で、

「D」は「分別智を構成している(ウソ世界)」を「実世界」だと錯覚させている「ラスボス」かな?

いや「裏ボス」だな・・・。

 

そんでもって、世間を見渡すと。。。

「やれ!与党が悪い。」「いや!野党が悪い。」「いや!官僚が悪い。」

「やれ!廃悪修善。」「いや!日頃の行い。」「いや!私の心がけ。」

な~んて喧々諤々と言っているけれど・・・。

 

この辺りは「ドラクエ2」で例えると、まだ「中ボス(AとB)」あたりだから。(笑)

そんでもって、その奥に「ハーゴン(C)」がいて、さらに奥に「シドー(D)」が控えているってワケ。(笑)

あと「一緒にいるパーティー(E)」が思うようにならなくてイライラしたりしてね。(笑)

「いやぁ、探しましたよ~!」って何食わぬ顔で遊んでいる「サマルトリアの王子」とか・・・。(#^ω^)ピキピキ

「ってか、探したのはコッチだよ!!(怒)」・・・みたいに足を引っ張られたりとか・・・。(#^ω^)ビキビキ

あと「「A」だ「B」だ!」と扇動されて踊らされる「外野(F)」っつーのも多数要るので要注意・・・と。

あ、それと「いっぱい情報を流しまくって思考を停止させる「小ボス(G)」っつーのも要るので要注意・・・と。

 

・・・・・・・・・。

 

まぁ、そんな感じで考察していくと・・・。

「裏ボスD(私)」の「自身虚仮」って、なかなか、なかなか、深すぎて・・・。

たどり着かないもんだよなぁ・・・。(*´Д`)=3 ハァ・・・

 

だからねぇ。。。

 

「C」で止まっちゃいけないよ。

「仏法」を聞いていない人は、「A」と「B」。

で、聞いて「どうすれば?」ってもがいて、掴んでみると「C」だった。

で、「C」止まって「A」と「B」の振出しに戻る。。。

結局、それの繰り返し。。。

操っているのは「D(私)」なのにね。。。

 

だからねぇ。。。

 

そんな「私」だから「法蔵菩薩様」は立ち上がられたのですよ。。。

「裏ボスD(私)」の正体を知っているから。。。

「法蔵菩薩様」は、スゴ~い大変なご修行をされて(「レベル99」になって?)

ついには「阿弥陀仏」となられ、

「遍照の光明」を放って「裏ボスD(私)」を照らして救い取るんですよ。。。

 

ってことは、「阿弥陀様」は「勇者様」?

ってことは、「遍照の光明」って「天空のつるぎ」の「凍てつく波動」?

それで「疑蓋」の「魔力」が無効化するぅ???

 

じゃぁ、目覚めた私は・・・。なんだろう???

 

あっ!分かった!!きっと私は「白雪姫」だ!!\(*≧◇≦)/

 

・・・・・・・・・。

 

あっ・・・(察し)・・・・・。

 

「ナニ勝手に都合よく「物語」をすり替えてんだよ・・・。」

っていう声なき声が聞こえてきそうなので、この辺りでやめておきます。(笑)

 

ってことで・・・。

 

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*

 

((「れおん」よ・・・。))

 

((既に法蔵菩薩の願いは成就しているのだから。。。))

((既に阿弥陀となってはたらいてのだから。。。))

((既に「願行具足の南無阿弥陀仏」となって至る所に満ち満ちているのだから)。。。)

((安心して後生をまかせよ。。。))

((そのまままかせよ。。。))

 

「ハイ、そのままおまかせします!!!!」

「嗚呼」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」

 

「本願成就」嬉しいなぁ。。。*:.。☆..。.(´∀`人)

 

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*

 

こうして「裏ボス「れおん」」は「勇者「阿弥陀仏」」のおはたらきによって、

お浄土参りが決まって、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。。。

 

((おしまい♬))

 

 

 

・・・・・・・・・。

 

って、それ「マンガ日本昔ばなし」じゃないかい!!

 

出来の悪いパロディを失礼しました。(笑)

 

なもあみだぶつ(^^♪