2021年7月3日の「築地本願寺のワイバス」で下記の質問がありました。。。
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【浄土真宗の「救い」と「癒し」について】
浄土真宗の「救い」は、阿弥陀様が私を生死流転から離れさせ、お浄土の仏とすることと聞かせて頂いております。
(中略)
ですが、人生の「癒し」を求めて浄土真宗を聞く人も多いと思います。
それはどこが違うのでしょうか?
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「れおん」は「浄土真宗」の「救い」はわかるけれど・・・、
「浄土真宗」に「癒し」を求める気持ちがわかりません。。。(≧△≦)ノ
・・・って思っていたら、
「阿部先生」も・・・、
「「癒し」って何ですか?「癒し」がわかりません。。。」
・・・って、おっしゃっていて思わず笑っちゃいました。。。(*´▽`*)アハハハ・・・。
・・・・ヾ(=^▽^=)ノ・・・・。
やっぱり「れおん」は、阿部先生と一味だわ~!!!!(*・∀-)b
「花を見て」「癒される」はわかる。。。
「景色を見て」「癒される」はわかる。。。
でも「浄土真宗教え」を聞いて「癒される」はわからない。。。
・・・ってことで、「阿部先生」は「浄土真宗」の「お救い」のお話をされました。。。
以下の通りです。。。(*^_^*)ノ
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「名号のお謂れを聞いて自力の心を離れる」以外にお浄土に生まれる道はありません。。。
「名号のお謂れ」は「仏願の生起本末」であり、それは「本願成就」です。。。
「本願成就」を「私」が聞いたら、もう私のはからいは要りません。。。
月を眺める。月がキレイですね。。。(←決して「I LOVE YOU♡」という意味ではありませんよ。(笑)(^▽^;))
それで終わり。。。
「キレイな月ですね。」は、「キレイな月」に「出遇っている」世界。。。
本当にそれで終わり。。。
((チャンチャン!おしまい。。。))
・・・・・・・・・・。(←って、そこで話を終わらせるなよな。(´・ω・`)ショボーン)
((・・・ってことで、つづきは・・・。))
「月が出た」は、それが「本願成就」って意味。。。
「ああ月が いうもおろかや ああ月が」
・・・という「おうた」が、阿部先生のお母様のお部屋に飾ってあったそうで、
それと同じだと、阿部先生はおっしゃいます。。。ヾ(❀╹◡╹)ノ゙
((この「おうた」って「名月や ああ名月や 名月や」とかと同じで、
「松島や ああ松島や 松島や」のパ〇リ?じゃないですかね~?←って余計なツッコミを考えちゃったよ。。。(;´Д`)・・・。))
要するに!!
「南無阿弥陀仏」ってことですよ。。。
「「南無阿弥陀仏」が聞えている」ってことは「それで付け足すものはない!」ってこと。。。
「聞こえている」ってことが、既に「如来様がはたらいている!」ということ。。。
それを「17願」っていうんですよ。。。
「17願」の「其の名号」を聞いて「私が仏になれること」。。。
それを「救い」というんです。。。
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・・・ってことで、ここからは「阿部先生」のお話を聞いたうえの、
「れおん」の「大真面目なお味わい」です。。。( ̄▽ ̄;)
((たまには「アホネタなしモード」にならなきゃね。だっていつも「アホ」だからさ。。。(´・ω・`)))
「選択本願」ってのは「18願」ですよね。。。
「18願」は「阿弥陀仏の48願」の中の「王本願」っていわれるくらいだし・・・。
よく「歌舞伎の得意技」でも「十八番(おはこ)」って言うくらいだし・・・。
「親鸞会時代」も、ず~っと、「高森会長」から「18願が大事だ!!」って教えられてきました。。。
でも・・・。
「他力信心」になってみて、よくよく「れおん胸の内」をのぞいてみれば。。。
「れおん」の口から「南無阿弥陀仏」があふれ出すのは・・・。
「18願」の1コ前の「17願が成就」しているから「名号となってこの世界に届いている」からじゃね?
・・・って、そう思った次第です。。。(*^_^*)ノ
だって・・・。そうじゃなかったら。。。
「この空間自体が南無阿弥陀仏で溢れかえっている!!」
っつー「れおん」のお味わいに、合わなくなっちゃうじゃん!!( ̄ー ̄;)ゞアセアセ
だから・・・。
「れおん」が思うには・・・。
「聞其名号」の「名号」が「17願の名号」で。。。
「信心歓喜乃至一念」の「一念」が「18願の信心」で。。。
「17願が成就している」から、「其の名号」が「18願となって」、
私たちの「娑婆世界に届く」ってことじゃね???
・・・って、素朴にそう感じちゃったのでありマース。。。(`・ω・´)ゞ
そんでもって、「自力心」のときは「疑蓋バリア」でガチガチに固めているけれど、
いざ「自力心」が取られたら、空間に溢れている「南無阿弥陀仏」が容赦なく身体に入り込んでくるから・・・。
それだから、「れおん」の「お念仏」は、いっつも身体の中を血液と一緒に循環していて、
ちょ~っと気を抜くと、その隙に!!
「阿弥陀様のおはたらき」がそのまま「お念仏」となって「口から出ちゃう」のかなぁ。。。
・・・と思ったのでありマース!!ヾ(´▽`*;)ゝ"
なので「阿弥陀仏の本願」って、ぶっちゃけ・・・。
「「れおんのお念仏」となってはたらくぞよ!」って、届いていると思うんですよ。。。
じつは「「れおんのお念仏」になるぞよ!」っていう「誓い」だったと思うんですよ。。。
・・・で、それだから、
この娑婆世界の空間に「南無阿弥陀仏」が満ち満ちている!!
・・・っていう「れおん」の「お味わい」が出てきたんじゃないですかね~!!(๑•̀ㅂ•́)و✧
そんでもって、そんな状態だから。。。
その「お念仏」を「そのまま」身体に取り込んで、
「そのまま」口から出てくることを
「他力のお念仏」とか「大行」
・・・ってな感じで、いわれているのではないかと思いました。。。(*^_^*)ノ
でも・・・「私のはからい」があると・・・。
せっかく満ち満ちている「お念仏」を、ほとんど・・・。
「ブロック、ブロック!!」「99.9%除去!!」
みたいな感じで、はねつけて・・・。
でも、たま~に、残り「0.1%」を身体に取り込んでも、
「自力心」の人は、余計なものを付随させちゃうから、
それは「不純物の混ざった」・・・、
「当てにする(自力の)お念仏」だったり
「命令系の(自力の)お念仏」
になってしまう!ってコトじゃないですかね~???( ̄▽ ̄;)
でも・・・「私のはからい」がないと・・・。
「無分別智」の「南無阿弥陀仏」は、
「阿弥陀様」の視点 ⇒ 「すべての者を救う」お念仏・・・で!!
「わたしたち凡夫」の視点⇒ 「ありがとう」のお念仏
と味わう!ってコトじゃないですかね~???(^▽^;)
まぁ、ぶっちゃけ・・・
「本願成就」を聞いて「私が仏になれる」ことを「救い」
っていうんですよね。。。(人´ω`*).☆.。.:*・゜
そんでもって・・・「救われ」ちゃうと・・・。
どこもかしこも南無阿弥陀仏!!
(;゚ ロ゚ )ナン!( ; ロ゚)゚ デス!!( ; ロ)゚ ゚トー!!!
・・・ってな感じで、マジでビビりますわ~。( ̄▽ ̄;)
なので・・・。
「癒し」って何ですかね~?「癒し」がわかりません。。。(阿部先生)
はい・・・。
「れおん」もゼンゼンわかりません。。。
「ただ今」の「お救い」が嬉しい「南無阿弥陀仏」。。。
「本願成就」が嬉しい「南無阿弥陀仏」。。。
いたって「シンプル」な「阿弥陀様のお救い」なのでありマース♬ (*´▽`)ノ.•*¨*•.¸¸♬
なもあみだぶつ♬ なもあみだぶつ♬ (*・∀-)bグッジョブ