随分と「画像の編集」が遅れましたが、やっっっと!!!!
「「親鸞聖人を訪ねて」を訪ねて」の復活デ~~~ス!!
そんでもって、本日は「茨城県 板敷山の大覚寺」デ~~~ス!!(・ω・)ノ
「板敷山」っていったら、「れおん」が思い浮かべるのは、まぁ当然。。。
「現親鸞会会員」や「元親鸞会会員」にはお馴染みの「アニメ世界の光親鸞聖人第四部」で!!
あの「弁円」が「親鸞聖人」に襲い掛かった!(*□*ノ)ノ アウッ!!
・・・という「板敷山」ですねぇ。。。(σ* ゚ー゚)σ…。
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「加持祈禱中」の弁円さ~ん♪
そんな「弁円さん」なのですが。。。
本日ご紹介する「大覚寺」は、「板敷山」の「親鸞聖人法難之遺跡」近くで、
「弁円さん」ご一行の「山伏たち」に「親鸞聖人」がご説法をされた「ゆかりのお寺」みたいです。。。
((これって「「弁円さん」とは直接関係がないお寺」・・・なのかなぁ。。。(๑• - •`๑)ハテ?))
・・・ちょっと詳しいことはわかりませんが。。。
「親鸞会会員」にとっては、まぁ、そこまで馴染みがないんですよねぇ。。。(^▽^;)ノ
・・・・・・・・・・・・・・。
そんでもって、今回は、あの「親鸞会作成のアニメ」に描かれていた、
「親鸞聖人法難之遺跡」も「弁円の護摩壇跡」も行っておりません。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
・・・ってことで、初っ端からグダグダでゴメンナサイ。。。
(o*。_。)oペコッ
いやぁ。。。
なんつーか、先に断っておきますが!!
「れおんタン」は何を隠そう「ネタ職人」なのでございます。。。
その「ネタ職人」が「なかなか画像の編集がはかどらない!」・・・ということは。。。
・・・・・・・・・・・・・・。
察してください。。。(´・ω・`)ショボーン
「考えられうる理由」は・・・
「「肝心な遺跡」に(いろ~んな都合で)行っていない!」
もしくは、
「そんなに馴染みのないお寺で、ネタというネタが思い浮かばない!」
・・・のどちらかなんです。。。( ;∀;)
そして、これからご紹介する「板敷山」は、何を隠そう!!
その両方なんです!!!!(`・ω・´)ゞ
そして、大真面目に記事を書くだけの「面白ネタがナイ!!」んです。。。( ;∀;)
なので、ぜ~んぜん筆がのらず、しばらく寝かせておいたのですが。。。
やっぱり「面白くなりそうな要素」もなく。。。( ;∀;)
季節もすっかり「夏」から「晩秋」になってしまったので、
泣く泣く・・・淡々と・・・ただ「写真を掲載するだけ」の、
「ネタ職人」にとっては「最大の汚点」になる記事を掲載いたします。。。( ;∀;)
申し訳ないのですが、ご了承くださいませ。。。(。>д<)
あと、ちょっと余談なのですが。。。(^▽^;)ノ
なんつーかさ「「あるものごと」をお伝えする!」ってさ・・・。
「読書感想文」でもそうなんだけれど。。。
「本の内容」で「感動したコト」「面白かったコト」「悲しかったコト」などなど。。。
「「わたしが感じたコト」「これ一つ伝えたいぞ!」ってコトを書く!」じゃないですか!!
・・・で!!
そんときに「一番困るコト!」ってさ。。。
「本の内容がつまらないコト!」じゃないんです!!
「本の内容(特徴)がまったくないコト!」なんです!!( ;∀;)ノ
・・・・・・・・・・・・・・。
もし「本の内容が退屈だった!」のならさ。。。
「なぜ退屈なのか?」ってコト自体が、その本の「内容(特徴)」じゃん!!
でもさ。。。
(本の)「内容がナイよ~!」(←ダジャレさぶっ!Σ( ̄ロ ̄lll))
っつーのは、マジで!! どうにもならないんですよ。。。
だって「書くことすら」ないからさ!!
だから、どうにも取り上げようがないんですよ。。。(´・ω・`)ショボーン
・・・ってことで、ここでダラダラと言い訳を言っていてもラチが明かないんで、
さっそく本題に入ります。。。(^▽^;)ノ
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今回は「れおん的」に「お寺に対するツッコミがゼンゼンない」
茨城県の「板敷山 大覚寺」に行ってきました。。。
乁( •_• )ㄏれれれ~♪
まずは、前回載せた「関東ご布教」の「旧跡」の「全体図」からで~す。。。(。-∀-)ノ
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「上図の中央部」が「板敷山の大覚寺」で~す。。。(*^_^*)ノ
雰囲気的に「めっちゃ山」ですね。。。(。-∀-)…。
( ^ω^)・・・。
場所が「山」ってことは。。。
・・・・・・・・・・・・・・。
そうなんです。。。
な~んもナイんです!!!!( ;∀;)
前回の記事の「小島の草庵跡」の「だだっ広い田園」とはまた別の雰囲気の・・・
「さびれ・・た・・・」ではなく!
「非常にのどかな山村」でした。。。( ̄▽ ̄;)ノ
こんな感じ~♪(; ̄3 ̄)~♪
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これは、ちょっと小高い「大覚寺」から撮影した「ふもとの景色」なのですが。。。
・・・・・・・・・・・・・・。
まぁ、こんな感じの「お店」もなく「民家」もまばらな、そういう土地柄でございます。。。(^▽^;)ノ
・・・で、
「親鸞聖人を訪ねて」のHPで紹介されている、「9.関東でのご布教」では、
この「大覚寺」はこんな感じで紹介されていマ~~~ス。。。(・ω・)ノ
信州~常陸(1214年~1232年)|親鸞聖人のご生涯|親鸞聖人を訪ねて(御旧跡巡拝ガイド) (shin.gr.jp)
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【大覚寺】弁円が親鸞聖人の命を狙った地
親鸞聖人の弟子・善性房(周観大覚)が開山した寺院で、明法房こと山伏弁円の伝承で有名な板敷山の付近にあります。
本堂には「親鸞聖人御満足の像」と「弁円懺悔の像」が安置されています。
境内の庭園には、京都の桂離宮を模した回遊式をとっており、池を中心として散策路が配置されています。
この庭はどこから見ても「裏がない」ことで、「裏みなしの庭」と称されており、石岡市指定名勝に指定されています。
また、板敷山山頂には「弁円護摩壇」の跡が残されています。
・・・だそうです。。。(*^_^*)ノ
そんでもって、周辺付近の地図はこんな感じデ~~~ス。。。( `ー´)ノ
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・・・・・・・・・・・・・・。
序盤でもグダグダと書きましたが。。。
今回は、残念ながら「大覚寺」のみの散策で・・・、
「親鸞聖人法難之遺跡」と「弁円の護摩壇跡」には行っていません!!( ;∀;)
・・・というか、まぁこの「親鸞聖人を訪ねて」のホームページは「不親切」なもので。。。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((あぁ!! コイツ、ついに「ホームページに責任転嫁」しやがったぞ!!? (¯―¯٥)ノノ ))
「板敷山山頂」って書かれているだけで、
「行く手段」や「ルート」が書いてあるモノがなかったので、ワリとマジで行けませんでした。。。( ;∀;)
((まぁ、目的が「西福寺お聴聞」だったので時間もなかったしね。。。(^▽^;)ノ))
・・・ってことで、もし「ココに行きたいぞ!」っていう方がいらっしゃいましたら、
こちらのお寺のホームページをご参照ください。。。
とっても詳しくご紹介されています。。。(*^_^*)ノ
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板敷山弁円護摩壇跡への行き方(車) (wixsite.com)
・・・・・・・・・・・・・・。
さてさて。。。
「前半部分」は、グダグダな言い訳でめっちゃくちゃ尺を伸ばしましたが、
ここからは腹をくくって「大覚寺」の写真を淡々と載せていきますね~。。。(lll-ω-)ズーン
まずは、「大覚寺」よりだいぶ手前に「銘板」があり、観光客をお出迎えしてくれます。。。( `ー´)ノ
場所はこちらです。。。(。-∀-)ノ
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つぎに、お寺の正面から撮影した写真で~す。。。(・ω・)ノ
山門の左側の道は「裏みなしの庭」に続きます。。。(*^_^*)ノ
「正面の山門」をとりあえず進みます。。。(*^_^*)ノ
「親鸞聖人法難の遺跡」って書いてありますが、
「弁円さんゆかりの遺跡」の場所は「ココのお寺」じゃないで~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ
こちらは右手で~す。。。(*^_^*)ノ
パンフレットによると【親鸞聖人説法石】だそうです。。。(。-∀-)
「親鸞聖人がこの石にお座りになり、山伏弁円の弟子35人の山伏たちにお念仏の教えをお説きになりました。」
・・・ということです。。。(・ω・)ノ
そしてこちらは左手で~す。。。(*^_^*)ノ
こちらは本堂右側の境内で~す。。。(*^_^*)ノ
そんでもって、こちらは「裏みなしの庭」(恨みなしの庭?)で~す。。。(*^_^*)ノ
そして、こちらは「本堂」で~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ
基本的に「真っ暗」で~す。。。(¯―¯٥)ノノ
・・・・・・・・・・・・・・。
なんかさ・・・「お寺」ってさ。。。
人がいないと・・・さみしいね。。。(´・ω・`)ショボーン
お隣は「庫裏」だったけれど。。。
ゼンゼン人の気配もなくって・・・。
でも。。。
お庭は「夏」の草ボーボーになる時期なのに、めっちゃキレイで。。。
だから。。。
お手入れはしているので「廃寺」ではない・・・とは思うのですが。。。
でも、それだと。。。
「浄土真宗のお寺」には「闇はないんですよ!!」
・・・って、おっしゃった「「阿部先生」のお言葉」とは裏腹に・・・。
フツーに「闇」(物理!)
・・・なのがちょっと皮肉でした。。。( ̄▽ ̄;)ノ
そして「本堂」を出るとこんな感じで~す。。。(*^_^*)ノ
最後に。。。
「大覚寺」の「案内板」の中に「パンフレット」があったので、
それを少しご紹介して終わりにしたいと思いま~す。。。(・ω・)ノ
【板敷山大覚寺縁起略述】(略縁起現代語訳)
板敷山大覚寺は、親鸞聖人法難の遺跡として、浄土真宗開宗弘通の有縁の地です。その由来を尋ねると、人皇後鳥羽上皇の第三皇子正懐親王は、比叡山で出家し、周観大覚と名のられました。その後、東国諸国を行脚された時、ここ板敷山の南麓に草庵を結ばれました。その時親鸞聖人が越後から常陸に来られており、笠間の稲田におられたので、自ら聖人を訪れ、念仏の深意を聞信し、遂に師弟のみぎりを結び、善性房鸞英と名のられ、それ以来聖人に随って聞法して、聖人のご教化を助けておりました。
当時、常陸の楢原の地に修験道の山伏の道場がありました。頭領の播磨公弁円は、山伏のまとめ役として、常に災害を除き、厄をはらう法を修し、専ら現世の福利をもって人の心をおさめとり、人びとの崇敬の念をとても受けていました。しかし聖人のお念仏がひろがると、深く仏教の因果や業の理に徹して、仏智回向の大悲を喜ぶ者が日に日に多くなり、修験道の法にたのむ人は少なくなってしまいました。
播磨公弁円は、自分たちの修験道の法門が衰えてしまったことに怒り、聖人を怨むこと蛇蝎の如くでした。遂に自らの弟子三十五人と謀り、聖人に危害を加えようと、板敷山南麓の無住の庵に屯し、何日も聖人の行化の行き帰りをうかがいましたが、出会うことが出来ません。そこで板敷山の山上に護摩壇を築き、三日三晩懸命に念じましたが、聖人に何ら危害を加えることは出来ませんでした。
このため播磨公弁円はますます炎腸を焦がし、刀杖を手にはさみ、単身聖人のいる稲田の草庵に押し入ったのです。それにもかかわらず聖人は、ためらいなく草庵から出て参りました。播磨公弁円は、尊顔に向かって危害を加えようとする気持ちが忽ちに消滅し、それだけでなく後悔の涙を止めることが出来ず、聖人に乞いてお弟子となり、明法房弁円と名を改めたのです。聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋の時でありました。
聖人この逆謗摂化の勝縁を喜ばれ、山伏たちの集まっている先の周観大覚善性房草創の板敷の草庵に阿弥陀如来の影像を安置して、大覚阿弥陀堂と称せしめ、山伏たちに百日間のご説法をされたのです。
年を経て三十年、建長三年(1251)十月十三日、明法房七十一歳にして浄土往生を遂げられました。京都洛中におられた聖人は、弁円の往生を聞き、常陸の門侶にあてて、御感慨深い御消息を送られたのであります。聖人御帰洛後十六年、聖人七十九歳の御年でございました。
【親鸞聖人ゆかりの地】の「護摩壇跡」
【親鸞聖人ゆかりの地】の「人喰橋」と「蛇塚」
以上で~す!!!!ヾ(´▽`*;)ゝ"
なもあみだぶつ♬ (๑•̀╰╯-)و.。.:*✧