<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その2>
1.2.分割(Partition)
17世紀および18世紀のベトナムの時代状況を概観して、次のように述べる。17世紀の後半に、北部と南部間の内乱が終わり、中央集権的儒教政治秩序を再建する試みがなされた。しかしながら18世紀の北部に中央政府の弱体化により、農民反乱を含む社会不安が結果として生じ、農村社会で自治と自給自足の度合が増すことになる。他方、農村ベトナムは17世紀の東南アジアの地域的商業ブームへの北部の参入に乗じたが、18世紀は内的に孤立した経済への回帰によって特徴づけられた。
Cソムにある「石の陵(Lang D)」とよばれる墳墓に注目する。NC Tr.(阮公朝)が埋葬された墳墓である。NC(阮公)族家譜(1966年編纂)によれば、NC Tr.(阮公朝)の生没年は1647年~1702年で、黎朝の宦官(内監)として仕えた。退職して帰郷し、有力な農村指導者になった。古老の伝承では、NC Tr.(阮公朝)は村の后神として祭られることを願ったが、拒絶されたという。だから彼は村落を一村と二村に分割して、新しい社会単位(a new social unit)を創ることを決定した。その分割は革命前まで存在した。村の古老らへの聴き取りによれば、BC(百穀)社内の2村は地理的には分けられないが、異なる土地神を崇拝する2つの集団に基づいていた。しかしながら、一般的に言えば、一村は地理的にはAソンとBソンに、二村はCソンに対応していたようである。前者は、楊文娥(Duong Van Nga)と裴於台(BUD)を、後者はケー・カウ・マン(Khe Cau Mang)を祭っていた。
この出来事(incidents)について、NC(阮公)族家譜には、NC Tr.(阮公朝)は二村の后神として祭られたとのみ記している。しかしND(阮廷)族家譜(1905年編纂)はNC Tr.(阮公朝)に反対して、村落内の紛争(turmoil)が起こったと言及している。
そして、嶋尾氏はNC(阮公)族のNC Tr.(阮公朝)とND(阮廷)族のNO(阮威)との武力紛争を取り上げ、その経緯を具体的に詳述している。すなわち、ND(阮廷)族のNO(阮威)は武芸に秀で、兵士として黎朝に仕えていたが、NC Tr.(阮公朝)が村落内で影響力を広げていることを聞いて、一村を統率するために駐屯地から帰郷し、結果として武力衝突(armed clash)が起こった。それからNC Tr.(阮公朝)はNO(阮威)を告訴すると、NO(阮威)は村から逃げ、上級役人に訴えて、その告訴が偽りであることを証明した。NC(阮公)族とND(阮廷)族との間で起こった武力衝突は歴史的記録では立証されていないが、NC Tr.(阮公朝)が地方的に影響力を拡大しようとする試みがBC(百穀)社の分割の原因であると仮定することは正しいように思えるとする。2つの碑文は、NC Tr.(阮公朝)はTC(小穀)社とQL(果霊)社の村民に后神としては受け入れられたと記している(Shimao, 2009, pp.60-62. 嶋尾、2000年、222頁~223頁)。
1686年の碑文はHCA(香盍庵)をHTT(興寿寺)に再建する際に、役割のために二村の后仏として、その年にNC Tr.(阮公朝)の母が指名されるという興味深い物語を記す。地域的により広い宗教的集会に奉仕する際にBC(百穀)社を越えるHCA(香盍庵)の活動は当時V(武)族からNC Tr.(阮公朝)へ移されたように思われる。
今日、Cソムにはもう一つの「煉瓦の陵」と呼ばれる墳墓がある。そこにはBQC(沛郡公)として知られる人物が埋葬されている。NC(阮公)族の家譜によれば、NC Tr.(阮公朝)の長兄の末子であるNCTh.(Nguyen Cong Thieu、生没年1697-1737)という居住者がいた。「煉瓦の陵」の近くに、BQC(沛郡公)が后神・后賢に妻と母は后仏に指名されたことを記す7つの碑文がある。1730年代にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)は地域において勢力拡大を試みたことを示している。一村と二村を含むBC(百穀)社の「官員斯文」(社内の官職保持者と儒教的知識人の集まり)によって1731年の碑文は、NCTh.(Nguyen Cong Thieu)が后賢として祭られたことを認めている。この指名は彼の権威が全体として共同体の承認によるのではなく、儒教知識人として生じたことを示している。同年彼はまたQL(果穀)社のTL(上霊)村の后神に認められた。NCTh.(Nguyen Cong Thieu)の勃興は、村落内の分割からではなく、村落間の成功から生じたことを示している。建立年代が判読不明のもう一つの碑文は、永佑年間(1735-39)に隣りのTC(小穀)村の后神にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)がなったことを記す。
1737年にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)は一村の后神として受け入れられた。これはライバルND(阮廷)族の家譜の中に含まれる事実である。同年にBC(百穀)社に含まれる上位単位TX(程川)総の官員斯文は、NCTh.(Nguyen Cong Thieu)を郷里長に選出し、后神として祭るためにとっておいた。
またかつてのライバルND(阮廷)族の家譜の記述を紹介している。
ND(阮廷)族の功茂は、1749年に生徒(郷試の3段階目までの合格者)という儒教的知識人であった。仏教を軽視していたが、大病を機に法門を請い、沛郡公七十老夫人の手引きで禅に入ったと記す。ただ功茂の生没年と、沛郡公のそれとが時代的に合致しないという問題があり、史実の確証を保留しているが、ND(阮廷)族の宗教的影響力が一村へ浸透したことを窺える史料として理解している(嶋尾、2000年、249頁注24)。
1.3. 祖先崇拝の様々な様相
18世紀ベトナム北部における全般的危機が村落レベルでゾンホという出自家系にどのように影響したかについて注目する一方で、彼らの内的組織を強化する形において、農村家族の部分への対応をも観察する。本節では、断片的であるが、利用できる史料から18世紀のゾンホ内の祖先崇拝の様相における発展に焦点をあてている。
1.3.1.B(裴)族
祖先崇拝に関連したBC(百穀)社で最も早い記録は、1553年に遡れる嘱書で、長男の相続に関して①香火田(3畝5高13尺が20ヶ所に分散)、②祖先の墓(6畝3高が24ヶ所に分散)を規定している。約100年後の嘱書にも祖先儀礼の遂行における長男の果たした役割を示している。17世紀は、B(裴)族組織がBC(百穀)社の境界を越えて成長した。BDD(裴允敦)は隣村のDL Xa(楊来社)出身の女性と結婚し、息子の1人BN(裴寧)は、楊来社に母の家族とともに移住し、B(裴)族の支派を形成した。
しかしながら18世紀には、族内の紛争が起こった。永盛年間(1705-19年)、B(裴)族の主要な家系の長であるBGD(裴光耀)と息子BTL(裴世禄)は香火田と祖先の墓を維持することができなかった。代わりに墓地と接する森林地が牧草地、耕作地、居住地として切り開かれ、開拓された。BC(百穀)社とDL Xa(楊来社)の長男と次男の支派との間で紛争が生じた。
このように16世紀中葉以降、B(裴)族では長男に香火田、墳墓、祖墓の相続継承を集中させようとしたが、17世紀末になって長男は管理できず、私的に農地への流用が行なわれ、族内の紛争・分裂を惹起した。このことを嘱書・訴訟文書により明らかにした。
長支(長男を祖とする支派)が民事訴訟で敗れ、BC(百穀)社を去り、南方へ移住した。それから18世紀末、西山朝の光中帝期(1788-1792年)に、BTN(裴世宜=裴光耀の三男)は黎朝の復興を支持したが、村民たちは西山政府からの報復を恐れて、BTN(裴世宜)を告訴した。事件の結末は不明だが、数年後、BTN(裴世宜)は復権したが、B(裴)族は零落し、構成員の多くは姓や中字(ミドルネーム)を変えたり、別の社に移住したりした(Shimao, 2009, pp.62-63. 嶋尾、2000年、225頁~226頁)。
土地紛争における訴訟に関して、BD(裴允)族の家譜に添付された他の文書が存在する。ここで重要なことは、紛争が1799年の一族の集まりで最終的に解決された時、「DLC(道良公)」を始祖とし、裴族の3つの支派(separate branch families)を形成したと主張する出席者の集団が存在したことである。DLC(道良公)とその子孫は、BH(裴輝)族であり、BD(裴允)族ではない。つまりBH(裴輝)族の紛争史料がBD(裴允)族の家譜に紛れ込んでいるとみなす(嶋尾、2000年、227頁)。BD(裴允)族の家譜の中に現れているBH(裴輝)族に関連した証拠書類を提示している事実は、ゾンホシステムの再組織化が決して単純で容易な仕事ではなかったことを示している(Shimao, 2009, pp.63-64. 嶋尾、2000年、226頁~227頁)。
1.3.2.ND(阮廷)族
家譜によれば、始祖から7代目のNDV(阮廷垣)が儒教思想を受け入れたのは18世紀初めであった。NDV(阮廷垣)は、4人の異なった師をもった。その先生の1人PTK(范錫珪)は、隣県の村から招かれ、その父と同様に郷試に合格して郷貢(のちの挙人)の学位を得て、知県として仕えた。彼はPTK(范錫珪)の兄の娘を側室として娶り、親しい関係を結んだ。PTK(范錫珪)はND(阮廷)族に儒教思想を教えたのみならず、風水の知識と方法を伝えることによって、家族の祖先儀礼を企図する際に大きな影響を与えた。NDV(阮廷垣)はPTK(范錫珪)に、自分の父(時期不明)、母(1746年)、支派の祖先(1747年)の墓の位置を吉兆の場所に決定するように頼んだ。
NDV(阮廷垣)は子供たちの教育に熱心で、PTK(范錫珪)の姪との間に生まれた息子NCM(阮功茂)は1779年に郷試を受験し、生徒(のちの秀才)という低い学位を得て、族長になった。NCM(阮功茂)は村落の調停者に任命され、NC(阮功)族の紛争を解決した。そして村落の家族に自らの家譜を編纂するように強く促した。ただし、それにもかかわらず、家譜によれば、後年彼は仏教に専念した。なぜなら仏教徒の女性がシャーマン的手法で治りにくい病気を治したからである。当時の民衆の農村仏教は、土着的民俗信仰と融合していたかもしれないように思える。また
儒教教育の強調にもかかわらず、母方の祖先崇拝がBC(百穀)社で続いたことを指摘する。例えば、NDV(阮廷垣)の側室の両親たちは埋葬のためにBC(百穀)社にやってきて、彼女の父と祖父(PTK(范錫珪)の兄と父にあたる)は、ND(阮廷)族の祖先と同じように崇拝された(Shimao, 2009, p.64. 嶋尾、2000年、228頁)。
1.3.3.NL(阮琅)族
英文の「1.3.3.NL(阮琅)族」は、2000年に出版された「19世紀-20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築-東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)における「4.<阮琅)>族の反儒教的反動?」(嶋尾、2000年、227頁~228頁)に対応した部分である。
NL(阮琅)族の家譜は、18世紀後半に起こった、小さな、しかし看過しえない事件を記している。NLB(阮琅暴)と他の家族構成員は、儒教的儀礼を避けて、諱や忌日(the anniversaries of ancestor deaths)を無視して、道教の祭壇を設けた。つまり儒礼を軽視して、道教へ傾斜したというのである。ここに儒教的思想と実践の勃興に対して、村民の一部は抵抗もしえたという証拠を見出しうるとする。しかしながら、19世紀にNL(阮琅)族は諱や忌日の遵守を復活させたと家譜は記している。ベトナム北部の儒仏道の宗教的、知的三角関係(intellectual triangle)は単純な相互関係ではなく、歴史的に三教は排斥と同化との間で絶えず変化したとする(Shimao, 2009, p.65.)。
2 村落秩序の再編成
西山朝時代に混沌状態に陥った後、BC(百穀)社は、共同体の秩序をいかに回復するかという問題に直面した。1802年に阮福映(グエン・フック・アイン)によってフエに王朝が設立して後、新国家は、以前の敵の領土を統合する困難に直面した。北部ベトナム農村の最小限必要な資源を効果的に動員する目的で、存在するサー(トン)の自律的社会単位は臨機応変の才にとどめることを決定された。
自律性のこの公的承認が、BC(百穀)社の村民にすべきように強いたことは、サーの社会秩序を強化することであった。
本節では、BC(百穀)社の儒者指導者がいかにそのことに取りかかったのかを述べている。
2.1. 家譜編纂運動
村落を復活させる1つの方法は、ゾンホの家譜編纂であった。いかにこのことがなされたのかが、家譜の前文において述べられている。
2.1.1. BD(裴允)族
BD(裴允)族の族長DNC(登迓公)は一族の根源に存在した混乱を憂慮し、先祖の功徳を記念するために一族の構成員を召集し、情報を収集し、「旧譜(“old genealogy”)」を改訂した。
家譜の編纂方針は、「信以伝信、疑以伝疑」、つまり信用できる所はそのように伝えられ、疑わしい所もそのように伝えられるという実証的な方針(the empirical principle)であったのでその作業は困難に満ちていた。というのは、西山期の戦乱で一族は分散し、「旧譜」は存在しても祖墓は確認することができなくなっていたからである。近事のみで記録することにした。だから曽祖父PAPQ(福安府君)以下4世代を世代別に3支に分けて記されている。つまりDNC(登迓公)はこの時点で17世紀以前の家系図の再構成は断念したという。
2.1.2. ND(阮廷)族
家譜によれば、ND(阮廷)族は墳墓の位置や諱謚(the commemorative names of those interred there)も失われた。族長さえも把握していなかった。1809年、長支(the first branch)の中の傍系に属するNCM(阮功茂)が一族を集め、「先人簿(“records of ancestors”)」を持ち寄り、墳墓の位置を田野に出かけて確認した。その結果として、4支(four branch families)を含む(NCM(阮功茂)も入る)5世代が確認された。
BD(裴允)族と同様に、ND(阮廷)族の家譜は、最も近い世代(5代程度の深度)しか辿れなかった。しかしND(阮廷)族はより古い祖先を確認しようと試みた。従って、少なくとも9世代前の祖先は墳墓もしくは謚号もなく合同で祭られたのに対して、8世代前の祖先VV(無為)が1709年の「編簿(“compiled ledger”)」の中に発見された。長支が祖先祭祀を遂行できない場合には次支が代役をなしてもよいと決められた。NCM(阮功茂)の子NXT(阮春韶)が新しく発見された儀礼(6代、7代前の祖先の祭礼)を担当した。
序文はまた家譜編纂に直面する2つの困難について言及している。
①1つは、「各支編簿(”branch records”)」の多くは忌日と謚(posthumous name)のみを記し、墳墓の位置や継承の順序は言及していないことである。このような記録の仕方が、18世紀以前のBC(百穀)社の家譜の一般的形態であったのではないかと推測している。
②第2番目の困難は、中字(ミドルネーム)に関わる。つまり家譜によれば、N(阮)族の主要な家系の姓は中字としてD(廷)の字が加えられた。しかしながら族人が勝手にK(克)字(NK[阮克])やX(春)字(NX[阮春])のような中字を用いるようになっていたので、関係を辿るのが益々難しくなった。その一族が他の中字とは対照的にD(廷)に焦点をあてたことは興味深いが、ND(阮廷)族の支派の家譜編纂にあまり有効な方法ではなかった。つまり家譜編纂時におけるND(阮廷)族への支派の帰属決定が容易でなかったと推測している(Shimao, 2009, p.67. 嶋尾、2000年、230頁)
2.1.3. NN(阮如)族
家譜によれば、当時の危機を反映して、家譜を完成するために1809年に一族は集まった。他のN(阮)族と区別する指標は中字のN(如)であったので、最初の問題は中字の使用が混乱していなかったかどうかということであった。さらに祖先の継承順序も諱も墳墓もわかってはいない。族長でも3箇所の墳墓の位置しか覚えていない状況であった。現存する文献としては4点が収集され、始祖は7世代隔たったTG(清間)であったことがわかった。そして彼の息子の5人が各支族長として5支が確定された(Shimao, 2009, p.67. 嶋尾、2000年、231頁)。
2.1.4. NL(阮琅)族
1811年に族譜を編纂するために集まりがなされ、作業は中字L(琅)をもつN(阮)族の歴史的検討から始められ、村落の古老への聴き取り調査が行われた。第1のインフォーマントは上述のND(阮廷)族のNCM(阮公[功]茂)であった。NL(阮琅)族の先祖は本来、L(黎)姓であった。それから当時BC(百穀)社はDuong Van Nga(楊文娥)皇后を崇拝し始めたが、王朝名の黎朝を畏敬して、NL(阮琅)姓とした。NL(阮琅)の祖先は地方行政に関与する官吏や儒教的知識人の家系であったという。
しかしながらNL(阮琅)族の家譜編纂者は、NCM(阮功茂)のこの証言に疑問をもち、第2のインフォーマントに聴き取り調査をした。隣村のTC(小穀)村のL(黎)族の故老(an elder)で、NCM(阮功茂)の話を承認した。加えて、TC(小穀)村のL(黎)族はBC(百穀)社のL(黎)族から分かれ、BC(百穀)社のL(黎)族は既にNL(阮琅)族に改めてしまっていた。TC(小穀)村のL(黎)族とBC(百穀)社のNL(阮琅)族の容貌は似ていると調査者も印象づけられたという。
他方文献上はNL(阮琅)姓に1675年に既に改められたことを記す史料もあるが、その他の史料から、その祖先は7世代隔たったDUC(道淵公)にまで遡れるにすぎない。NL(阮琅)族の家譜は、支派分節(branch families)についての言及はないが、DUC(道淵公)の時代から今日まで詳細な家系図であることがわかった(Shimao, 2009, pp.67-68. 嶋尾、2000年、231頁~232頁)。
2.1.5. BH(裴輝)族
1990年代初めに編纂されたBH(裴輝)族の最近の家譜は第2支第4派第7代(the seventh generation scion of the fourth offshoot of the second branch family)のBVH(Bui Van Huu)が最初に編纂したと記す。この人物が1839年に建てられたB(裴)族碑文に登場する裴文有と同一と仮定できるなら、BH(裴輝)族の家譜は他の族に若干遅れて、明命年間(1820-41年)に編纂されたということができる(Shimao, 2009, p.68. 嶋尾、2000年、232頁)。
2.1.6. 家譜編纂の共時的性格
BC(百穀)社に住む上述した諸族の家譜は、共同体の歴史において殆んど同時に19世紀前半に編纂された。すなわちすべての族は集まりを開き、過去の調査を行ない、家系図に属する集団を強固にし、ゾンホ制度を再建した。N(阮)姓を持つある集団の場合、中字が親族結合を確認するために用いられた。他方タイミングの点からみると、NC(阮公)族は19世紀初めのこの動きに従わず、最初の総合的家譜を編纂するのに1894年まで待つことになる。編纂者は副榜(pho bang, “subordinate list” degree holder)として1892年に科挙に合格したVTD(武善悌)であった。NC(阮公)族との関係は母方であるが、多分成功した儒学者で、NC(阮公)族で最も傑出した親類として、BC(百穀)社に帰ってきた後にその事業を引き受けた(Shimao, 2009, pp.68-69. 嶋尾、2000年、239頁)。
2.2.家族と俗例
嘉隆帝及び明命帝期(1802-40年)に家譜編纂の傾向とともに、族約を書き、俗例(a village-wide legal code)を発布する試みも存在した。前者に関しては、ND(阮廷)族のNCM(阮公[功]茂)が次のような細則を決めた。彼の息子NXT(阮春韶)に書留めらせて、支派に配布させ、これらの細則が後世長く族の行動規範であることを教えた。
①ND(阮廷)族の女性が結婚する場合に、ビンロウ・キンマと酒に加えて、銭1陌を納めること
②一族の祖先儀礼は、毎年陰暦12月11日に開催されること
(Shimao, 2009, p.69. 嶋尾、2000年、230頁)。
NN(阮如)族の族約は次のようにある。
①祖先儀礼は、毎年、清明(陰暦3月)と冬至に開催されること
②新しく生まれた子に名をつける際に、族の始祖から3世代の中で、6人の祖先の謚の6つの漢字を用いられるべきでないこと
③NC(阮公)族の女性の結婚の際に、儀式が祠堂で催される。そこでビンロウ・キンマと酒に加えて、銭1貫を納めること
BH(裴輝)族の族約は1839年に次のように規定している。
①一族の会合が毎年、元旦、清明、端陽(5月5日)、嘗新(収穫祭)、冬至に開かれる。
②科挙の秀才に合格した族内の誰かは賞金として5貫を与える。挙人の場合は10貫である。
③婚出する族内の女性は、祠堂に銭1貫を納めること。
(Shimao, 2009, p.70. 嶋尾、2000年、235頁)。
嶋尾氏も注目するように、BH(裴輝)族の族約で特徴的なことは、秀才に合格すると5貫、挙人の場合は10貫といった族内の科挙合格者への報償規定である(嶋尾、2000年、235頁)。
19世紀半ばまでに、第3の下位単位であるB(裴)村が一村と二村に加えて、BC(百穀)社に創出された。古老の聞き取りによれば、B(裴)村は、BH(裴輝)族のBa To Co(夭逝した族内の女性で、霊験あらたかとされる)を祭る祭祀グループであるという。20世紀初めの神勅(Imperial Brevets)では、C.H.Cong Chua(景花公主)と呼ばれ、BH(裴輝)族の始祖DLC(道良公)の娘であるとされる。
1806年と1829年との間に、3村すべては、俗例(local ordinances)を制定した。年中行事の準備と式次第といった内容が主であるが、結婚や葬式に関する規定も含んでいた。この発展は家譜の編纂とともに、族の結びつきを強め、村落秩序を再確立する動きにおける1つの連結としてみなすことができる(Shimao, 2009, p.70. 嶋尾、2000年、233頁)。
1.2.分割(Partition)
17世紀および18世紀のベトナムの時代状況を概観して、次のように述べる。17世紀の後半に、北部と南部間の内乱が終わり、中央集権的儒教政治秩序を再建する試みがなされた。しかしながら18世紀の北部に中央政府の弱体化により、農民反乱を含む社会不安が結果として生じ、農村社会で自治と自給自足の度合が増すことになる。他方、農村ベトナムは17世紀の東南アジアの地域的商業ブームへの北部の参入に乗じたが、18世紀は内的に孤立した経済への回帰によって特徴づけられた。
Cソムにある「石の陵(Lang D)」とよばれる墳墓に注目する。NC Tr.(阮公朝)が埋葬された墳墓である。NC(阮公)族家譜(1966年編纂)によれば、NC Tr.(阮公朝)の生没年は1647年~1702年で、黎朝の宦官(内監)として仕えた。退職して帰郷し、有力な農村指導者になった。古老の伝承では、NC Tr.(阮公朝)は村の后神として祭られることを願ったが、拒絶されたという。だから彼は村落を一村と二村に分割して、新しい社会単位(a new social unit)を創ることを決定した。その分割は革命前まで存在した。村の古老らへの聴き取りによれば、BC(百穀)社内の2村は地理的には分けられないが、異なる土地神を崇拝する2つの集団に基づいていた。しかしながら、一般的に言えば、一村は地理的にはAソンとBソンに、二村はCソンに対応していたようである。前者は、楊文娥(Duong Van Nga)と裴於台(BUD)を、後者はケー・カウ・マン(Khe Cau Mang)を祭っていた。
この出来事(incidents)について、NC(阮公)族家譜には、NC Tr.(阮公朝)は二村の后神として祭られたとのみ記している。しかしND(阮廷)族家譜(1905年編纂)はNC Tr.(阮公朝)に反対して、村落内の紛争(turmoil)が起こったと言及している。
そして、嶋尾氏はNC(阮公)族のNC Tr.(阮公朝)とND(阮廷)族のNO(阮威)との武力紛争を取り上げ、その経緯を具体的に詳述している。すなわち、ND(阮廷)族のNO(阮威)は武芸に秀で、兵士として黎朝に仕えていたが、NC Tr.(阮公朝)が村落内で影響力を広げていることを聞いて、一村を統率するために駐屯地から帰郷し、結果として武力衝突(armed clash)が起こった。それからNC Tr.(阮公朝)はNO(阮威)を告訴すると、NO(阮威)は村から逃げ、上級役人に訴えて、その告訴が偽りであることを証明した。NC(阮公)族とND(阮廷)族との間で起こった武力衝突は歴史的記録では立証されていないが、NC Tr.(阮公朝)が地方的に影響力を拡大しようとする試みがBC(百穀)社の分割の原因であると仮定することは正しいように思えるとする。2つの碑文は、NC Tr.(阮公朝)はTC(小穀)社とQL(果霊)社の村民に后神としては受け入れられたと記している(Shimao, 2009, pp.60-62. 嶋尾、2000年、222頁~223頁)。
1686年の碑文はHCA(香盍庵)をHTT(興寿寺)に再建する際に、役割のために二村の后仏として、その年にNC Tr.(阮公朝)の母が指名されるという興味深い物語を記す。地域的により広い宗教的集会に奉仕する際にBC(百穀)社を越えるHCA(香盍庵)の活動は当時V(武)族からNC Tr.(阮公朝)へ移されたように思われる。
今日、Cソムにはもう一つの「煉瓦の陵」と呼ばれる墳墓がある。そこにはBQC(沛郡公)として知られる人物が埋葬されている。NC(阮公)族の家譜によれば、NC Tr.(阮公朝)の長兄の末子であるNCTh.(Nguyen Cong Thieu、生没年1697-1737)という居住者がいた。「煉瓦の陵」の近くに、BQC(沛郡公)が后神・后賢に妻と母は后仏に指名されたことを記す7つの碑文がある。1730年代にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)は地域において勢力拡大を試みたことを示している。一村と二村を含むBC(百穀)社の「官員斯文」(社内の官職保持者と儒教的知識人の集まり)によって1731年の碑文は、NCTh.(Nguyen Cong Thieu)が后賢として祭られたことを認めている。この指名は彼の権威が全体として共同体の承認によるのではなく、儒教知識人として生じたことを示している。同年彼はまたQL(果穀)社のTL(上霊)村の后神に認められた。NCTh.(Nguyen Cong Thieu)の勃興は、村落内の分割からではなく、村落間の成功から生じたことを示している。建立年代が判読不明のもう一つの碑文は、永佑年間(1735-39)に隣りのTC(小穀)村の后神にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)がなったことを記す。
1737年にNCTh.(Nguyen Cong Thieu)は一村の后神として受け入れられた。これはライバルND(阮廷)族の家譜の中に含まれる事実である。同年にBC(百穀)社に含まれる上位単位TX(程川)総の官員斯文は、NCTh.(Nguyen Cong Thieu)を郷里長に選出し、后神として祭るためにとっておいた。
またかつてのライバルND(阮廷)族の家譜の記述を紹介している。
ND(阮廷)族の功茂は、1749年に生徒(郷試の3段階目までの合格者)という儒教的知識人であった。仏教を軽視していたが、大病を機に法門を請い、沛郡公七十老夫人の手引きで禅に入ったと記す。ただ功茂の生没年と、沛郡公のそれとが時代的に合致しないという問題があり、史実の確証を保留しているが、ND(阮廷)族の宗教的影響力が一村へ浸透したことを窺える史料として理解している(嶋尾、2000年、249頁注24)。
1.3. 祖先崇拝の様々な様相
18世紀ベトナム北部における全般的危機が村落レベルでゾンホという出自家系にどのように影響したかについて注目する一方で、彼らの内的組織を強化する形において、農村家族の部分への対応をも観察する。本節では、断片的であるが、利用できる史料から18世紀のゾンホ内の祖先崇拝の様相における発展に焦点をあてている。
1.3.1.B(裴)族
祖先崇拝に関連したBC(百穀)社で最も早い記録は、1553年に遡れる嘱書で、長男の相続に関して①香火田(3畝5高13尺が20ヶ所に分散)、②祖先の墓(6畝3高が24ヶ所に分散)を規定している。約100年後の嘱書にも祖先儀礼の遂行における長男の果たした役割を示している。17世紀は、B(裴)族組織がBC(百穀)社の境界を越えて成長した。BDD(裴允敦)は隣村のDL Xa(楊来社)出身の女性と結婚し、息子の1人BN(裴寧)は、楊来社に母の家族とともに移住し、B(裴)族の支派を形成した。
しかしながら18世紀には、族内の紛争が起こった。永盛年間(1705-19年)、B(裴)族の主要な家系の長であるBGD(裴光耀)と息子BTL(裴世禄)は香火田と祖先の墓を維持することができなかった。代わりに墓地と接する森林地が牧草地、耕作地、居住地として切り開かれ、開拓された。BC(百穀)社とDL Xa(楊来社)の長男と次男の支派との間で紛争が生じた。
このように16世紀中葉以降、B(裴)族では長男に香火田、墳墓、祖墓の相続継承を集中させようとしたが、17世紀末になって長男は管理できず、私的に農地への流用が行なわれ、族内の紛争・分裂を惹起した。このことを嘱書・訴訟文書により明らかにした。
長支(長男を祖とする支派)が民事訴訟で敗れ、BC(百穀)社を去り、南方へ移住した。それから18世紀末、西山朝の光中帝期(1788-1792年)に、BTN(裴世宜=裴光耀の三男)は黎朝の復興を支持したが、村民たちは西山政府からの報復を恐れて、BTN(裴世宜)を告訴した。事件の結末は不明だが、数年後、BTN(裴世宜)は復権したが、B(裴)族は零落し、構成員の多くは姓や中字(ミドルネーム)を変えたり、別の社に移住したりした(Shimao, 2009, pp.62-63. 嶋尾、2000年、225頁~226頁)。
土地紛争における訴訟に関して、BD(裴允)族の家譜に添付された他の文書が存在する。ここで重要なことは、紛争が1799年の一族の集まりで最終的に解決された時、「DLC(道良公)」を始祖とし、裴族の3つの支派(separate branch families)を形成したと主張する出席者の集団が存在したことである。DLC(道良公)とその子孫は、BH(裴輝)族であり、BD(裴允)族ではない。つまりBH(裴輝)族の紛争史料がBD(裴允)族の家譜に紛れ込んでいるとみなす(嶋尾、2000年、227頁)。BD(裴允)族の家譜の中に現れているBH(裴輝)族に関連した証拠書類を提示している事実は、ゾンホシステムの再組織化が決して単純で容易な仕事ではなかったことを示している(Shimao, 2009, pp.63-64. 嶋尾、2000年、226頁~227頁)。
1.3.2.ND(阮廷)族
家譜によれば、始祖から7代目のNDV(阮廷垣)が儒教思想を受け入れたのは18世紀初めであった。NDV(阮廷垣)は、4人の異なった師をもった。その先生の1人PTK(范錫珪)は、隣県の村から招かれ、その父と同様に郷試に合格して郷貢(のちの挙人)の学位を得て、知県として仕えた。彼はPTK(范錫珪)の兄の娘を側室として娶り、親しい関係を結んだ。PTK(范錫珪)はND(阮廷)族に儒教思想を教えたのみならず、風水の知識と方法を伝えることによって、家族の祖先儀礼を企図する際に大きな影響を与えた。NDV(阮廷垣)はPTK(范錫珪)に、自分の父(時期不明)、母(1746年)、支派の祖先(1747年)の墓の位置を吉兆の場所に決定するように頼んだ。
NDV(阮廷垣)は子供たちの教育に熱心で、PTK(范錫珪)の姪との間に生まれた息子NCM(阮功茂)は1779年に郷試を受験し、生徒(のちの秀才)という低い学位を得て、族長になった。NCM(阮功茂)は村落の調停者に任命され、NC(阮功)族の紛争を解決した。そして村落の家族に自らの家譜を編纂するように強く促した。ただし、それにもかかわらず、家譜によれば、後年彼は仏教に専念した。なぜなら仏教徒の女性がシャーマン的手法で治りにくい病気を治したからである。当時の民衆の農村仏教は、土着的民俗信仰と融合していたかもしれないように思える。また
儒教教育の強調にもかかわらず、母方の祖先崇拝がBC(百穀)社で続いたことを指摘する。例えば、NDV(阮廷垣)の側室の両親たちは埋葬のためにBC(百穀)社にやってきて、彼女の父と祖父(PTK(范錫珪)の兄と父にあたる)は、ND(阮廷)族の祖先と同じように崇拝された(Shimao, 2009, p.64. 嶋尾、2000年、228頁)。
1.3.3.NL(阮琅)族
英文の「1.3.3.NL(阮琅)族」は、2000年に出版された「19世紀-20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築-東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)における「4.<阮琅)>族の反儒教的反動?」(嶋尾、2000年、227頁~228頁)に対応した部分である。
NL(阮琅)族の家譜は、18世紀後半に起こった、小さな、しかし看過しえない事件を記している。NLB(阮琅暴)と他の家族構成員は、儒教的儀礼を避けて、諱や忌日(the anniversaries of ancestor deaths)を無視して、道教の祭壇を設けた。つまり儒礼を軽視して、道教へ傾斜したというのである。ここに儒教的思想と実践の勃興に対して、村民の一部は抵抗もしえたという証拠を見出しうるとする。しかしながら、19世紀にNL(阮琅)族は諱や忌日の遵守を復活させたと家譜は記している。ベトナム北部の儒仏道の宗教的、知的三角関係(intellectual triangle)は単純な相互関係ではなく、歴史的に三教は排斥と同化との間で絶えず変化したとする(Shimao, 2009, p.65.)。
2 村落秩序の再編成
西山朝時代に混沌状態に陥った後、BC(百穀)社は、共同体の秩序をいかに回復するかという問題に直面した。1802年に阮福映(グエン・フック・アイン)によってフエに王朝が設立して後、新国家は、以前の敵の領土を統合する困難に直面した。北部ベトナム農村の最小限必要な資源を効果的に動員する目的で、存在するサー(トン)の自律的社会単位は臨機応変の才にとどめることを決定された。
自律性のこの公的承認が、BC(百穀)社の村民にすべきように強いたことは、サーの社会秩序を強化することであった。
本節では、BC(百穀)社の儒者指導者がいかにそのことに取りかかったのかを述べている。
2.1. 家譜編纂運動
村落を復活させる1つの方法は、ゾンホの家譜編纂であった。いかにこのことがなされたのかが、家譜の前文において述べられている。
2.1.1. BD(裴允)族
BD(裴允)族の族長DNC(登迓公)は一族の根源に存在した混乱を憂慮し、先祖の功徳を記念するために一族の構成員を召集し、情報を収集し、「旧譜(“old genealogy”)」を改訂した。
家譜の編纂方針は、「信以伝信、疑以伝疑」、つまり信用できる所はそのように伝えられ、疑わしい所もそのように伝えられるという実証的な方針(the empirical principle)であったのでその作業は困難に満ちていた。というのは、西山期の戦乱で一族は分散し、「旧譜」は存在しても祖墓は確認することができなくなっていたからである。近事のみで記録することにした。だから曽祖父PAPQ(福安府君)以下4世代を世代別に3支に分けて記されている。つまりDNC(登迓公)はこの時点で17世紀以前の家系図の再構成は断念したという。
2.1.2. ND(阮廷)族
家譜によれば、ND(阮廷)族は墳墓の位置や諱謚(the commemorative names of those interred there)も失われた。族長さえも把握していなかった。1809年、長支(the first branch)の中の傍系に属するNCM(阮功茂)が一族を集め、「先人簿(“records of ancestors”)」を持ち寄り、墳墓の位置を田野に出かけて確認した。その結果として、4支(four branch families)を含む(NCM(阮功茂)も入る)5世代が確認された。
BD(裴允)族と同様に、ND(阮廷)族の家譜は、最も近い世代(5代程度の深度)しか辿れなかった。しかしND(阮廷)族はより古い祖先を確認しようと試みた。従って、少なくとも9世代前の祖先は墳墓もしくは謚号もなく合同で祭られたのに対して、8世代前の祖先VV(無為)が1709年の「編簿(“compiled ledger”)」の中に発見された。長支が祖先祭祀を遂行できない場合には次支が代役をなしてもよいと決められた。NCM(阮功茂)の子NXT(阮春韶)が新しく発見された儀礼(6代、7代前の祖先の祭礼)を担当した。
序文はまた家譜編纂に直面する2つの困難について言及している。
①1つは、「各支編簿(”branch records”)」の多くは忌日と謚(posthumous name)のみを記し、墳墓の位置や継承の順序は言及していないことである。このような記録の仕方が、18世紀以前のBC(百穀)社の家譜の一般的形態であったのではないかと推測している。
②第2番目の困難は、中字(ミドルネーム)に関わる。つまり家譜によれば、N(阮)族の主要な家系の姓は中字としてD(廷)の字が加えられた。しかしながら族人が勝手にK(克)字(NK[阮克])やX(春)字(NX[阮春])のような中字を用いるようになっていたので、関係を辿るのが益々難しくなった。その一族が他の中字とは対照的にD(廷)に焦点をあてたことは興味深いが、ND(阮廷)族の支派の家譜編纂にあまり有効な方法ではなかった。つまり家譜編纂時におけるND(阮廷)族への支派の帰属決定が容易でなかったと推測している(Shimao, 2009, p.67. 嶋尾、2000年、230頁)
2.1.3. NN(阮如)族
家譜によれば、当時の危機を反映して、家譜を完成するために1809年に一族は集まった。他のN(阮)族と区別する指標は中字のN(如)であったので、最初の問題は中字の使用が混乱していなかったかどうかということであった。さらに祖先の継承順序も諱も墳墓もわかってはいない。族長でも3箇所の墳墓の位置しか覚えていない状況であった。現存する文献としては4点が収集され、始祖は7世代隔たったTG(清間)であったことがわかった。そして彼の息子の5人が各支族長として5支が確定された(Shimao, 2009, p.67. 嶋尾、2000年、231頁)。
2.1.4. NL(阮琅)族
1811年に族譜を編纂するために集まりがなされ、作業は中字L(琅)をもつN(阮)族の歴史的検討から始められ、村落の古老への聴き取り調査が行われた。第1のインフォーマントは上述のND(阮廷)族のNCM(阮公[功]茂)であった。NL(阮琅)族の先祖は本来、L(黎)姓であった。それから当時BC(百穀)社はDuong Van Nga(楊文娥)皇后を崇拝し始めたが、王朝名の黎朝を畏敬して、NL(阮琅)姓とした。NL(阮琅)の祖先は地方行政に関与する官吏や儒教的知識人の家系であったという。
しかしながらNL(阮琅)族の家譜編纂者は、NCM(阮功茂)のこの証言に疑問をもち、第2のインフォーマントに聴き取り調査をした。隣村のTC(小穀)村のL(黎)族の故老(an elder)で、NCM(阮功茂)の話を承認した。加えて、TC(小穀)村のL(黎)族はBC(百穀)社のL(黎)族から分かれ、BC(百穀)社のL(黎)族は既にNL(阮琅)族に改めてしまっていた。TC(小穀)村のL(黎)族とBC(百穀)社のNL(阮琅)族の容貌は似ていると調査者も印象づけられたという。
他方文献上はNL(阮琅)姓に1675年に既に改められたことを記す史料もあるが、その他の史料から、その祖先は7世代隔たったDUC(道淵公)にまで遡れるにすぎない。NL(阮琅)族の家譜は、支派分節(branch families)についての言及はないが、DUC(道淵公)の時代から今日まで詳細な家系図であることがわかった(Shimao, 2009, pp.67-68. 嶋尾、2000年、231頁~232頁)。
2.1.5. BH(裴輝)族
1990年代初めに編纂されたBH(裴輝)族の最近の家譜は第2支第4派第7代(the seventh generation scion of the fourth offshoot of the second branch family)のBVH(Bui Van Huu)が最初に編纂したと記す。この人物が1839年に建てられたB(裴)族碑文に登場する裴文有と同一と仮定できるなら、BH(裴輝)族の家譜は他の族に若干遅れて、明命年間(1820-41年)に編纂されたということができる(Shimao, 2009, p.68. 嶋尾、2000年、232頁)。
2.1.6. 家譜編纂の共時的性格
BC(百穀)社に住む上述した諸族の家譜は、共同体の歴史において殆んど同時に19世紀前半に編纂された。すなわちすべての族は集まりを開き、過去の調査を行ない、家系図に属する集団を強固にし、ゾンホ制度を再建した。N(阮)姓を持つある集団の場合、中字が親族結合を確認するために用いられた。他方タイミングの点からみると、NC(阮公)族は19世紀初めのこの動きに従わず、最初の総合的家譜を編纂するのに1894年まで待つことになる。編纂者は副榜(pho bang, “subordinate list” degree holder)として1892年に科挙に合格したVTD(武善悌)であった。NC(阮公)族との関係は母方であるが、多分成功した儒学者で、NC(阮公)族で最も傑出した親類として、BC(百穀)社に帰ってきた後にその事業を引き受けた(Shimao, 2009, pp.68-69. 嶋尾、2000年、239頁)。
2.2.家族と俗例
嘉隆帝及び明命帝期(1802-40年)に家譜編纂の傾向とともに、族約を書き、俗例(a village-wide legal code)を発布する試みも存在した。前者に関しては、ND(阮廷)族のNCM(阮公[功]茂)が次のような細則を決めた。彼の息子NXT(阮春韶)に書留めらせて、支派に配布させ、これらの細則が後世長く族の行動規範であることを教えた。
①ND(阮廷)族の女性が結婚する場合に、ビンロウ・キンマと酒に加えて、銭1陌を納めること
②一族の祖先儀礼は、毎年陰暦12月11日に開催されること
(Shimao, 2009, p.69. 嶋尾、2000年、230頁)。
NN(阮如)族の族約は次のようにある。
①祖先儀礼は、毎年、清明(陰暦3月)と冬至に開催されること
②新しく生まれた子に名をつける際に、族の始祖から3世代の中で、6人の祖先の謚の6つの漢字を用いられるべきでないこと
③NC(阮公)族の女性の結婚の際に、儀式が祠堂で催される。そこでビンロウ・キンマと酒に加えて、銭1貫を納めること
BH(裴輝)族の族約は1839年に次のように規定している。
①一族の会合が毎年、元旦、清明、端陽(5月5日)、嘗新(収穫祭)、冬至に開かれる。
②科挙の秀才に合格した族内の誰かは賞金として5貫を与える。挙人の場合は10貫である。
③婚出する族内の女性は、祠堂に銭1貫を納めること。
(Shimao, 2009, p.70. 嶋尾、2000年、235頁)。
嶋尾氏も注目するように、BH(裴輝)族の族約で特徴的なことは、秀才に合格すると5貫、挙人の場合は10貫といった族内の科挙合格者への報償規定である(嶋尾、2000年、235頁)。
19世紀半ばまでに、第3の下位単位であるB(裴)村が一村と二村に加えて、BC(百穀)社に創出された。古老の聞き取りによれば、B(裴)村は、BH(裴輝)族のBa To Co(夭逝した族内の女性で、霊験あらたかとされる)を祭る祭祀グループであるという。20世紀初めの神勅(Imperial Brevets)では、C.H.Cong Chua(景花公主)と呼ばれ、BH(裴輝)族の始祖DLC(道良公)の娘であるとされる。
1806年と1829年との間に、3村すべては、俗例(local ordinances)を制定した。年中行事の準備と式次第といった内容が主であるが、結婚や葬式に関する規定も含んでいた。この発展は家譜の編纂とともに、族の結びつきを強め、村落秩序を再確立する動きにおける1つの連結としてみなすことができる(Shimao, 2009, p.70. 嶋尾、2000年、233頁)。
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