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リートリンの覚書

東京史跡巡り・人物編 勝安房邸跡


東京史跡巡り・人物編

勝安房邸跡



勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。





東京都指定旧跡

勝安房邸跡

 この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な「氷川清話」などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄与され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。

港区






「明日に向かって」

 勝海舟・坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、龍馬(26歳~31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が咸臨丸での渡米、帰国後 幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当たって海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当たらなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自ら主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の渦の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸城無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、海舟も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようにしています。剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援に協力を頂き、彫刻家 山崎 和國氏に製作をお願いし2016年9月(平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。



所在地

東京都港区赤坂6丁目6


最後に

像を正面から撮ってみたいと挑戦したら、



透明なガードレール?が邪魔をする。

しかも、この場所。

勝海舟の住居跡だっていうのに、

坂本龍馬の方が、
目立っているような…




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