吾嬬神社
(東京都墨田区)
概要
東京都墨田区にある神社です。
日本武尊が東征の折、相模国から上総国に船で渡る途中、暴風にあい、妃・弟橘媛が自ら生贄となり、暴風を鎮めました。
その後、岸に流れ着いた遺品を祀ったのが起源とされています。
また、歌川広重の名所江戸百景・第31景 「吾嬬の森連理の梓」で描かれています。
神紋・社紋
主祭神
弟橘姫命
相殿
日本武命
創建
未詳
例祭
8月
略縁起
当社の縁起は諸説ありますが、「縁起」の碑によりますと、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘姫命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになり、船は無事、渡る事ができました。
後に、弟橘姫命の御召物がこの地の磯辺に漂着し、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、また相模(さがみ)に進み、上総(かずさ)に行こうとしました。海を望み高言(こうげん)して、「これは小さな海だ。立跳で渡れるだろう」といいました。海のまん中にきたとき、忽然と、暴風が起きました。王の船は漂うだけで、渡ることができなくなりました。時に、王に従ってきた妾がいました。弟橘媛(おとたちばなひめ)といいます。穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘です。王に、「今、風が起り、浪がはやく、王の船を沈めようとしています。これはきっと海神の心。願わくば、賤しい妾の身を、王の命の贖(あなが)に、海に入りましょう」といいました。言い終えるとすぐ瀾(おおなみ)を披(ひら)いて入りました。暴風はたちまち止み、船は岸に着くことができました。故に、時の人は、その海を、馳水(はしりみず)といいました。『日本書紀』
境内
社殿
鳥居
吾嬬の森連理の樟
(あずまのもりれんりのくす)
かつては「吾嬬の森連理の樟(あずまのもりれんりのくす)と呼ばれていましたが、現在は枯れてしまい、根元だけ保存されています。
歌川広重の名所江戸百景・第31景 「吾嬬の森連理の梓」で描かれています。
出典・Wikipedia
吾嬬森碑
(墨田区登録文化財)吾嬬森碑所在地 墨田区立花一丁目一番十五号 吾嬬神社内この碑は、明和三年(一七六六)に儒学者山県大貳により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸時代を代表とする神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。明治四十三年(一九一〇)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じて垣間見ることができます。平成二十一年三月墨田区教育委員会
石碑
狛犬
手水舎
神輿庫
歌碑
参道
境内社
福神稲荷神社
御祭神
宇賀之魂之命
大国主之命
金山彦之命
当社は元亀戸4丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが、(1922)に吾嬬神社旧社務所の位置に御遷座しました。その後、第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋、草木にいたるまで焼け落ちた中、この社殿は全く被害を受けませんでした。吾嬬神社復興事業(1946年)社殿を現在の場所へ再び御遷座しました。(参考・境内掲示より)
住所
東京都墨田区立花1-1-15
アクセス
東武亀戸線 東あずま駅
徒歩7分
最後に
吾嬬の森
その姿は、歌川広重・名所江戸百景・第31景 「吾嬬の森連理の梓」で描かれています。
しかし、その森は失われ、連理の樟も、現在枯れてしまい、根元だけ保存されていました。
描かれた梓を見ると、立派な木だったことがうかがえます。枯れてしまったのはとても残念に思いました。
江戸時代には、多くの人々が訪れた吾嬬の森、ですが、現在では緑も少なく、訪れる人もおらず、寂しい神社となっていました。悲しいですね。
いつの日か、吾嬬の森が復活して欲しいと切に思いました。
参拝した際、二羽の鳩が出迎えてくれました。祭神にちなんで、夫婦の鳩かも、とちょっと期待しました。仲良く歩く姿が微笑ましかったです。
暖かな気の流れる神社でした。
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参考
Wikipedia