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リートリンの覚書

名所江戸百景を訪ねて 第37景 「墨田河橋場の渡かわら竃」


名所江戸百景を訪ねて


名所江戸百景を訪ねて
第37景 「墨田河橋場の渡かわら竃」


近景には今戸の竃が描かれ、その竃から立ち上がる黒煙がたなびいています。

隅田川の船場の渡しを二艘の渡し船が行き交い、渡り鳥が水面で休み、また飛び交う姿が描かれています。

今戸の対岸には中央右側には、水神社の森。船場の渡しが見えます。

遠景の右側の桜は墨堤の桜です。薄紅色が横長に広がっています。

遠景左側に見える山は筑波山です。
 

今戸竃




東京の今戸や橋場とその周辺では、今戸焼(いまどやき)と呼ばれる素焼及び楽焼の陶磁器が焼かれていました。

江戸時代から明治時代にかけて、日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産していました。

言い伝えによりますと、天正年間(1573~1592)に生産が始まったといわれ、幕末期には今戸焼を生産する家が約50件ほどあったといいます。



今戸焼
 今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、今戸やその周辺で焼かれてきた焼き物で、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。今戸焼職人は瓦や日常の生活道具などを製造販売して、庶民の需要に応えていた。
 今戸焼の土人形は、江戸東京の代表的な郷土玩具で、今戸人形と呼ばれ親しまれたが、明治半ば頃には衰退してしまった。関東大震災(1923)後、今戸人形の伝統を引く制作者だった「尾張屋」金沢春吉(1868~1944)の尽力によって一時復興したが、春吉の死後その動きも弱まった。現在では、受け継がれた型や製法を基に職人が制作を続けているが、周辺の都市化や震災・戦災などにより多くが区外に移り、今戸に1軒を残すのみである。台東区では「今戸焼作り」の技術を区の生活文化財に指定し、人形や寺社の縁起物の製造をおこなっている職人を今戸焼の技術の継承者として認定している。
山谷堀ヒストリカルツアーより引用



上記の写真は、台東区立下町風俗資料館のにある今戸焼の展示物です。台東区立下町風俗資料館は東京都台東区上野公園2-1にあります。
 

船場の渡し


船場の渡しは、台東区船場と墨田区堤通を結んだ渡しです。

船場の渡しに関しましては、第35景 「隅田川水神の森真崎」にて詳しく記事にしております。
 

墨堤


向島地域を洪水から守るために隅田川に築かれた堤です。

江戸幕府8代将軍徳川吉宗の時代から徐々に植桜が始まり、隅田川の堤は桜の名所として有名になり、漢詩で「墨堤」と詠まれるようになりました。
 


描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。




現在、跡地には、マンションが並んでおり、今戸焼の窯はありません。

対岸に描かれた水神社(現隅田川神社)の近辺は現在では東白鬚公園となっており、緑が今も残っているのですが、高速道路で隠れていて見えません。

当時と同じ風景といえば、青空と隅田川ぐらいでしょうか。



最後に

今戸焼について調べますと、明治期には約50件ほどあった窯は、今戸周辺の都市化や、震災・戦災などにより、製造を続けてきた職人たちの多くが周辺地域に移転していきました。

その中で、台東区で唯一今戸焼職人として頑張っていらっしゃる方がいると知りました。

約80種の人形や寺社の縁起物の製造販売を行っているそうです。伝統を守り続けている職人さん、その姿は輝いて見えます。これからも頑張ってください。



 

参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅

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