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日々の雑記

日々思いつくままに書いていくだけのブログ。
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公務員は楽じゃない

2025-01-12 01:00:00 | 思い出関連
私の父は公務員だった。公務員というだけで
羨ましいと思うかもしれない。でもそれは勘違いだ。
その想像している公務員はたぶん区役所とかで仕事して
いる人を思い浮かべている。でも公務員というのは
警察官、消防士、自衛官、海上保安庁等多岐に渡る。
少なくとも命をかけて火災現場の消火活動にあたる
消防士を楽で羨ましい仕事。と思う人はいないだろう。

私の父はそういう系統ではなく一般的な市の
公務員だった。が、38年間の公務員生活でやった
仕事はどれもろくな部署の仕事ではない。

順番に言うと水道局の職員、ごみ焼却施設の職員、
老人ホームの管轄の職員、土地の区画整理の職員、
児童館の管理の職員。以上。つまり区役所とか市役所
の仕事は一切やってない。特に大変だったのが最初の
水道局の仕事だ。母親曰く毎日帰りが深夜の3時とか
だったらしい。なので毎日睡眠時間が3時間程度で
次の日、いや正確にはその日に出社していったのだ。
ちなみに公務員に残業代は一切出ない。長時間働いて
も給料が増えることは無いのだ。じゃあ普段の給料が
良いかというとそんなことは無い。定年退職する最後
の月の給料を見せてもらったが手取りが34万円だった。
38年間、1日も休まず働いてきた最後の給料である。

公務員は安定した仕事。と思っている人もいると思うが
過労や精神を病んで自殺した人の話なら父からいくら
でも聞いた。38年間1日も休まず1日も体調不良にならな
かったタフな父親だからこそ最後までやり遂げれたと
思っている。

それでも目指したいという方はぜひ目指して欲しい。
きっと父親も喜ぶだろう。なお父親が公務員になると
いった時、父親の母親、つまり私の祖母は反対した
らしい。理由は上記した通り楽な仕事ではないからだ。
それでも父親が公務員になったのは自分が住んでいる
地域の人達の役に立つ仕事がしたい。という素晴らしい
理由からだ。私は父親を今でも尊敬している。

小学生の時、絵で毎年賞を取っていた思い出

2025-01-09 01:00:00 | 思い出関連
今日はちょっと自慢だが私は小学1年から6年まで
毎年のように学校で描いた絵のコンクールで賞を
もらったことがある。自分に絵の才能があったと
思っているが、それ以上に図工の先生に恵まれた。
あの先生と会っていなければ私が賞を取ることは
なかっただろう。先生は私に絵の才能があるのを
見抜き小1の頃からアドバイスをくれたのだ。

小1で牧場にいった時に絵を描いたのだが、
その時、先生が私が空を青一色で塗っているのを
見てこう言った。あ、先生は女性の結構おばさん
といえる年齢の方だった

「見えている色が全部じゃないのよ。空は確かに
青く見えるけど、よく見ると色々な色が混じっている。
他のものも同じよ。見えている色だけでなく他の色も
色々置いてみたら、きっともっと面白くて良い絵に
なるわよ」 

小1の私にはあまりに難しい言葉だった。が、私は
試しに青く塗った空に緑の色を置いてみた。私は
思った。意外に悪くない。赤を置いてみる。これも
悪くない。黒を置いてみる。悪くない。そうこう
しているうちにだんだんと楽しくなってきた。

私の空は青一色から様々な色が混じった空になって
いて、私はそれを純粋に良いと感じた。牧場なので
牛がいた。牛といえば当然白と黒だ。だが私はその
2色をベースとしながらも色々な色を追加していった。
そうして完成した絵は自分でもびっくりするほど
良いものだった。先生もとても褒めてくれた

「とても良い絵ね。これは私からコンクールに出して
おくわ」そして賞を見事にとって百貨店に展示された
のだ。親と見に行ったが実際見た親が驚いたほどで
ある。構図とかが自分より上手い子は他に山程いた。
だがこういう塗り方をしているのは自分だけだった。

味を占めたわけではない。私は先生から教えてもらった
塗り方が楽しくてそれ以降も同じようにとにかく1枚
の絵に膨大な色数を使った。絵の具だったが偶然混ぜて
出来た色も遠慮なく積極的に使った。毎回100色ぐらい
使ってたと思う。そして毎年賞を取ったのだ。

小学4年の時は街の商店街を描いた。この時も商店街を
多彩な色で塗った。その中の1つの店の人が暇だった
のか描いている様子を見に来たのだが私の絵を見て驚いて
「凄く良い色の絵ね」と。その絵でその年も賞を取った。

とにかく絵を描くのが楽しかった。友達のいなかった私に
とって絵を描くことはこのうえない喜びだった。

が、残念なことにある日突然それは終わりを告げる。

中学生になった。中学だと美術の先生がいる。夏休みの宿題
で絵を描くことになったので私は小学校の図工の先生のことを
思い出しながら多彩な色を使った風景画を描いた。自信があった。
しかし…夏休みがあけて美術の先生が一人ずつの絵をクラス全員
に見せながら批評を始めたのだ(事前に一切聞かされてなかった
のでクラス中が軽いパニックになった) そして私の絵に対して

「こういう絵、凄く嫌いなんだよね。なんか色んな色を
使って上手そうに見せる誤魔化した感じの絵。絵から何も
感じない。適当に描いただけの下手くそな絵。0点だな」 

私はそれ以降、絵を描くことが怖くなった。今になって思うのだ。
才能の無い子供なんて存在しない。どの子供にもなんらかの
才能がある。大事なのはそれを大人がちゃんと見つけて伸ばして
あげれるかどうかだ。子供の才能を活かすも殺すも大人しだいだ。
「下手くそ」その一言が子供の才能を殺すのだ。

何でも褒めればいいものでは無い。ただ直すべきところが
あるなら、ちゃんとした形でアドバイスしてあげるべきだ。
もっとこうした方が良くなるんじゃないかな?
その一言で私は救われたと今でも思っている。

いじめで通信制高校へ通った過去(その4)

2024-12-20 00:41:10 | 思い出関連

書こうと思えばたった2年でしたが書けることは

山程あるのですが、本当に回想にしかならないので

通信制高校に通って良かったなと思ってる

ことをまとめておきます。ただしあくまで私の通ってた

時代&ところですからね。でも誰かの参考になれば幸いです。

 

・スクーリングがある日以外、つまり月2回以外は家で過ごす

というか実質自由日で両親が共に仕事していたので、本当に

好きに時間を使えました。時間に余裕があると精神的にも余裕が

出来て普通高に通っていた頃よりだいぶ精神的不安定さが無くなり

ました。他人と接触する機会も格段に減りましたが、結局毎日

学校に行って会いたくも無い人物にいじめられてたわけです

から、学校から離れるという選択肢は今でも正解だったと思って

います。普段は家でゲームしたりレンタルビデオ借りて見たり、

TV見たり、絵を描いたり、後は適当に外に1人で遊びに行ったり

してました。まあ今より娯楽の少ない時代ではありました。

あ、今の仕事に後に繋がるのですがPCでプログラミングとかの

勉強も独学でしてましたね。

 

・以前にも書いたのですがスクーリングにて幅広い年代と個性

あふれる人達と会うことで、自分の視野が大きく広がりました。

今までは学校という閉鎖された空間の人間としか接触が無かった

ので。通信制高校も当然学校ですが閉鎖感がなく授業の受け方も

昨日書きましたが本当に自由で色々な人達がいました。それらの

人達があなたはそのままで良い。というのを言葉ではなく存在で

教えてくれました。誰一人友達のいなかった自分を肯定してくれる

場所でもありました。

 

・自由な時間が増えて心に余裕が出来、そして視野も広がった

ことで転学前はあれほど死にたいと思っていた自分が気付ば

何かやってみたいと思うようになっていました。その結果私は

通信制高校を卒業後、ゲームソフトの作り方を学ぶ専門学校へ

進学しました。ゲームソフト会社には入れなかったですが今は

IT関係の仕事をしています。毎日大変ではありますが同時に

楽しいです。あれほど学生時代いじめを受けた自分が今や部下を

持ち、新人の指導までしてますからね。自分でも驚きです。

振り返れば通信制高校に転学してなかったらどうなって

いたんだろうと思いますね。

 

今、学校に通うのが辛い人、多いと思います。いじめとか無くてもね。

無理して通う必要は無いです。ただある程度は勉強して高校ぐらいは

卒業しておかないと将来の進路は相当狭くなってしまいます。

最近は私の時代より格段に通信制高校が増えましたし進化もしている

はずです。転学はもちろん最初から選択肢に入れても良いと思って

います。何も恥ずかしいことでは無いですよ。他人に強制されたレール

を歩く必要はありません。人生は自分で作るものだと私は思っています。

 

というわけでこのシリーズを長々続けてもあれなので一旦

ここで終わりにします。明日からは…まあまた時事ネタで何か

書こうかなと。祖母の言葉も思い出したらまた気が向いた時

にでも書きます。


いじめで通信制高校へ通った過去(その3)

2024-12-19 00:25:56 | 思い出関連

私の古い時代のことなので本当に過去の回想に

なることは先に書いておきます。通信制というと

今の時代はインターネット授業とかなんでしょうけど、

私の時代はPCは一応家にありましたしインターネットも

ありましたがPCのスペックやインターネットの速度は今と

比較にならないレベルで低く、とてもネットで授業とかは

不可能だったわけです。

 

それを踏まえて通信制高校とはどういったものだったのか。

・通信制なので基本的には最初に教科書とか買うのでそれを

持って自主学習を家で行う。

 

・月に2回程度スクーリング、つまり学校に直接行っての授業

がある。

 

・授業はいわゆる大学の単位制に似ている。例えばそれぞれの

科目を年間でこの時間数以上の授業を受けないといけなくて、

それをクリアするとテストを受ける権利がもらえる。そしてその

テストで合格点を取ると単位がもらえる。全科目で単位を

取ると次の学年に進める。駄目なら留年。

 

・中間テスト的なのは紙で学校から送られてくるのでそれを教科書

とか見て良いので家で解いて送り返す。これを合格点に達するまで

繰り返す。合格しないと再度送り返されてくる。これが難しくて

5回ぐらいでようやく合格した時もありました。

 

・スクーリングは学校に行くと入口に今日の授業が書かれた紙が

置いてある。例えば1時間目の数学はこの教室、社会はこの教室。

とか。それを見ながら自分の受けたい授業を受けるという方式。

受ける時間数も自由なので1時間目だけとか4時間目だけとか

1時間目と6時間目だけとか好きな受け方でOK。私はたいてい

午前中だけ授業を受けて昼からは帰ってました。出席数を当然

カウントする必要がありますが教室に入ると紙が置いてあるので

それに個別にふられた番号と名前とかを書いて授業が終わったら

先生に提出する形でした。

 

・上記の通りなので基本的にみんな個人行動です。加えてどの授業を

受けるかも自由なので毎回教室のメンバーや人数は変わります。なので

他人を一切気にしなくて良いですし私語も一切ありません。当然

いじめも発生しようがありません。前回書いたように老人を含めた

幅広い年齢層の人がいるので。友達は作れなくはないですが難しいです。

複数人で行動している人をほぼ見なかったですから。いても2人とかです

 

・なので体育の授業とか酷いものでした。サッカーとかバドミントンとか

テニスとかやりましたが、こういう時にコミュニケーション能力や行動力

を発揮するような人はそもそも通信制高校に来ません。サッカーの時なんか

誰もボールを蹴らず1時間が過ぎていました。テニスの時はサーブをしては

ネットにかかり、相手がサーブをしてはネットにかかりの繰り返し。

運動音痴だった自分でも安心して参加出来ました。もちろん最初から最後

まで誰も一言も話をしません。ゆえに普通の高校みたいに失敗しても

誰からも責めらたり怒られたりすることがありません。苦痛では

無かったですが楽しくも無かったですね。単位のためだけにやってる

だけだったので

 

(長くなったので次へ続く。今日はここまで)


いじめで通信制高校へ通った過去(その2)

2024-12-18 00:32:11 | 思い出関連

(その1から続き) 

さて翌年の4月から入学ですが通常高校に入学するには

入試があります。しかし私の通った通信制高校に入試は

ありませんでしたが代わりに面接がありました。面接が

あったのは入学希望者が膨大だったからです。なにも

いじめを受けた人達だけが転学してくるわけではないので、

それぞれが何故入りたいのかを聞き取る目的の面接でした。

私も受けたはずですが…正直記憶がほぼありません。

 

さて学校にもよりますが通信制高校の場合年齢制限がありません。

実際お年寄りも山程いました。どういう理由で入学したのかは

分かりませんが。中年ぐらいの人やどうみても暴走族の服を着た

人、メイド服を着た人、授業中常にドーナッツ食べてる人、

身体障害者の人、普段は電気屋さんをやっている人とか、

とにかく多種多様な人達がいました。

 

これは私の大きな財産になりました。今までこういった

幅広い世代+個性を持った人達と接したことが無かったからです。

こういった人達と会話はなくても同じ授業を受けることで私の視野は

一気に広がりました。世の中には色々な人達がいる。そしてそれぞれの

人達の存在が認められている。だから自分みたいないじめられて転学

した人間にもちゃんと居場所がある。今で言う多様性というものですね。

それを知れただけでも私は通信制高校に通った意味が十分あったと

思います。いじめられ続け、自分には存在価値や生きてる意味が無い。

そういう考えを覆してくれたのです。

 

(長くなったので続く。今日はここまでにします)