◆朝鮮の戦犯は
「被害者」 韓国政府機関が名誉回復
【ソウル12日共同】韓国の政府機関「強制動員真相究明委員会」は12日、日本の植民地支配下で旧日本軍兵士となり、第2次大戦後、
連合国側の軍事裁判でBC級戦犯として処罰された朝鮮半島出身の83人を「被害者」と認定、名誉回復を図ると発表した。
聯合ニュースが伝えた。
韓国政府機関が朝鮮半島出身者の戦犯とされた人の名誉回復を行うのは初めてとみられる。同委員会は盧武鉉政権が進める「歴史の見直し」
の一環として、強制連行などの実態を調査してきた。
BC級戦犯は極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれた戦争指導者(A級戦犯)と区別され、戦争中の捕虜虐待などの責任に問われた。
◆日本軍の捕虜政策-
多くの犠牲を出した管理体制-
戦争裁判で何が問題だったのか
戦後日本が戦争裁判で多くの戦犯を生んだということはご存じだと思います。私がいま、戦後補償の裁判で関わっているのは、韓国・
朝鮮人BC級戦犯といわれた人たちの補償の問題です。なぜ韓国人・朝鮮人、台湾人が戦犯にならなければいけなかったのか、
ここに日本軍の捕虜政策がきちっと反映しているということです。このシステムが理解できないと、例えば朝鮮人が、
なぜオーストラリアやイギリスで評判が悪いのか分かりません。
そしてもう一つは、捕虜収容所の関係者です。アメリカの第八軍が横浜で行った横浜裁判というのがあります。
そこでは331件裁かれています。その中の3件が中国人関係の裁判、それからあと連合国の民間人たちのケースを入れて8件ありますが、
その人たちを捕虜として考えていくと330件が何らかの形で捕虜と関係する裁判です。
ですから、日本の裁かれた戦争犯罪というのは、捕虜の問題なんですね。そのことが分からないと、
私たちは戦争裁判で何を日本人は裁かれて何を裁かれなかったのか。この腑分けをきちっとしておくべきではないかと思います。
なぜ連合国がそこまで捕虜虐待を重視したのかということです。もちろん、
オーストラリアでの裁判やオランダの裁判が一部人民に対する日本の虐待、こういうものも取り上げていますけれども、集中的にやっていくのは、
それから戦争直後にすぐ手をつけるのは捕虜および連合国の民間人の問題なのです。自分たちの国の兵士および国民に対する虐待、
これを集中的に裁いていく、こういう形で横浜裁判、および連合国各国の裁判がありました。そういうことを念頭に置いて、
日本軍の捕虜政策というのがどういうものだったのかということを、皆さんにお話ししたいと思います。
非常に高い日本軍捕虜の死亡率
連合国の捕虜がどれだけ多くの犠牲になっているかというと、これは東京裁判の中に出てくるんですが、27%が死亡しているんですね。
ドイツ・ナチスの英米の捕虜は4%弱です。私たちはナチスはひどいと思っていますけれども、
あれはユダヤ人の強制収容で多くの犠牲を出しているからです。
オーストラリアの場合には、全捕虜の33%だといいます。戦闘で死んだ人よりも捕虜になって死んだ人の方が多いんですね。
そのくらい捕虜が政策のなかで犠牲になっていきました。
それの有名なのがタイとビルマの泰緬鉄道なんですね。それとオーストラリアの場合には、サンダカンのデスマーチ。
2000人のオーストラリアおよびイギリス兵が殺された事件です。いま、オーストラリアのウォーメモリアルに行きますと、
2000人の顔写真がずらっと壁に貼ってあります。
私たちは2000人というとああ2000人かと思いますよね。ところが一人一人の顔写真と名前がずっと貼ってあると、
これはそれこそ圧倒的な事実の重み、それが泰緬鉄道の場合には、1万3000人といわれています。数え方が非常に難しいんですよ。
とにかく1万人前後の連合国の捕虜が死亡しています。
それとオーストラリア、豪国作戦を展開するためにジャワ、フローレス、アンボン、セラム、ハルクという、
オーストラリアのすぐ北のインドネシア領に飛行場を作って、ここから飛行機を飛ばしてオーストラリアを爆撃していくことを考えます。
私たちはパールハーバーということで戦争を考えますけど、日本はパールハーバーの後にすぐにダーウィンも爆撃しています。
それからかなり南ですがシドニーを特殊専攻艇で攻撃しているんですね。そのくらいオーストラリアということを考えていました。
それで飛行場を作ります。飛行場を作るにも労働力がないから、捕虜を使います。この捕虜を連れてジャワ島から船が行くと、
あとから何千人もの食糧をジャワ島から運び出すんですね。なぜかというとアンボンというのは、
珊瑚礁みたいな島ですからほとんど食糧の自給はできません。そういうところに何千人分もの食糧を後送するんですが、
輸送船は1隻も着かなかった。バンダカンの制海権というのはなかったんですね。
そういうなかで捕虜が飢えていきます。日本が一生懸命飛行場を作って、結局飛行場を作って飛行機がきたのは1回ぐらいで、
あとは全部連合国の爆撃に対して一生懸命穴を埋めて、するとまた爆撃して穴を埋めて、それの繰り返しという、
そういうようなことをやった飛行場建設というのがあります。そういうなかで捕虜の死亡はものすごい数で、
先ほどもいいましたように27万に達しました。
そして東京裁判の大きな柱の一つがこの捕虜問題です。平和に対する罪、人道に対する罪、
こういうことが裁かれたとよくいわれますけど、あの裁判の大きな柱は、通例の戦争犯罪、要するに捕虜や民間人の人たちに対する虐待、死亡、
これが大きく裁かれています。
捕虜とは一体誰か
そのとき、一体捕虜とは誰かという問題になります。そこで日本の軍隊は、
誰と戦ったのかということを考えていただければ分かると思いますが、フィリピンでは米比軍です。そしてマレー半島で英印軍と戦っております。
そしてインドネシアでは蘭印軍といいたいんですが、ABDA軍ですね。要するに蘭印の防衛のためにチャーチルが提案してイギリス、
アメリカ、オーストラリア、そして蘭印軍、これでジョイントホースを作るんですね。これが1942年1月です。ところが、
何せ寄せ集めの軍隊ですから、指揮権、命令系統がちゃんと動かないうちにトップのウェーベル大将が「おれいやだ」
といって帰っちゃったんですね。
それで事実上空中分解したんですけれども、空中分解しただけならいいんですが、
これに参加するためにオーストラリア軍が中東で展開していた部隊が、ジャワに派遣されます。
それからもう一つはオーストラリアの軍隊がそのままインドネシアに派遣される。そういうなかで1942年3月、蘭印が無条件降伏した時に、
大量のオーストラリアの捕虜、イギリスの捕虜がそこから出てきます。
1945年の南方作戦が一段落した段階で日本が抱えていた捕虜は最初の段階で25万人です。そのあと捕虜が増えて30万人、
最終的には35万人という数が出てきます。この人たちを食わせるのは大変です。それで日本軍が何をやったのかというと、
白人と非白人に分けていきます。
戦争を遂行する過程で、日本は帝国主義本国と植民地の分断を図るこういう政策を、プロパガンダでやっていきます。
マレー半島では大量のビラを撒きます。インド兵向けにはちゃんとヒンズー語とかタミール語で、あなたたちはイギリスの犠牲になるのか、
チャーチルがシルクハットかぶって葉巻をくわえてインド兵の後から銃を突き付けて、自分は後の安全なところを歩いて、
こういうようなビラを撒いて分断を図っていきます。そういうなかで9万~10万の捕虜がシンガポールで出ます。その一人がレインさんですね。
その中から印度軍を中心にインド国民軍を編成したということは、有名な話だと思います。
すると捕虜とは誰かということにもう一度帰っていきます。白人と非白人を分ける。何を基準に分けたのかと私は思うんですね。
なぜかというと、インドネシアではオランダとインドネシアのダブルの人たちがたくさんいるわけです。彼らは白人なのか非白人なのかという、
そういう厳密なことをやっていけば分からないんですが、だいたい私は容貌で分けたと思います。
捕虜は捕まえると一人一人捕虜のカードを作ります。いつどこで捕まえて部隊は何で、両親は誰で、どういう技術を持っているか。
全部ピックアップします。容貌も書きます。肌の色が白、鼻が高いとか眼がブルーとか、こういうことも含めて、白人と非白人を分けていきます。
そうして約半数弱が白人捕虜として、ピックアップされてきます。
では残ったアジア人、非白人は解放されたのか。ここがまた一つの大きな問題です。アジア人捕虜は解放するという方針を出します。
これは中国人の強制連行に関わることですけれど、一体中国人は捕虜か捕虜でないのか。当事者は捕虜だという身分を主張しているはずです。
日本は華人労務者だという形で主張しているはずです。ここのからくりは何なのかということですね。
もう一つインド人です。インド人も本来は捕虜のはずです。しかし日本軍はインド人は捕虜として扱わないで、
労務隊を編成してそこで彼らを捕虜でない形で使っていきます。だから本当に解放されたアジア人捕虜もいますけれども、
アジア人労務者として捕虜の身分から労務者の身分に切り替えられて、日本軍に使われた人たちがたくさんいます。悲劇は、
そうして使われた多くのインド人や中国人が亡くなったということです。
彼らを使った日本兵が戦後戦犯裁判で処刑されています。なぜかというと、
彼らは軍からインド人労務者を渡すからこれを使って荷役をするよう言われます。彼らは労務者としての処遇をします。戦後になると、
インド兵が私たちは捕虜だ。捕虜を虐待した、という形でジュネーブ条約違反ということを含めて、彼らは、
これはオーストラリアのラバウル裁判ですけれども、そこで処刑されています。
捕虜と国際条約
なぜ彼らが処刑されたのかということです。捕虜と国際条約、すなわちジュネーブ条約、これが大きな問題です。
ジュネーブ条約というのは、捕虜の処遇について決めた条約です。これを日本は署名したんですね。
署名したんですけど陸軍と海軍の反対で批准しなかった。こんな捕虜の処遇を認めてたら、
日本兵よりよっぽど捕虜の方がいいという処遇になります。
当時日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓を叩き込まれたはずです。捕虜になることは考えられない。
だから捕虜の問題というのはほとんど予測していなかった。そこに25万の捕虜が出たんですね。そこがまず最初のつまずきなんです。
その25万の捕虜が出る前に、実は開戦直後赤十字から打診があります。
これについても陸軍はうまく適当に使えというような方針を出すんですけど、
そのあとアメリカから日本はジュネーブ条約を批准していないことは知っているけれども、相互の適用をやりたいという申し出があるわけですね。
同じようにイギリス、英連邦から翌年にあります。私たちはこんなものは批准していませんと蹴れば、それはそれで一つの方針です。
しかし外務省は蹴れなかったんです。なぜ蹴れなかったかといえば、外務省は内と外の情報を管理していますから、
当時50数万の在外邦人がいて、ジュネーブ条約を日本が蹴れば、この人たちの処遇にもろに反映する。
それで外務省としては何とか批准まではいかないけれども、それを玉虫色で解決したいというので、ここで外務省が主導になって、陸軍省、
海軍省それから陸軍、海軍ですね、この人たちを入れて会議をやって、回答したのが準用の回答なんです。日本は、
その精神を尊重しますということです。精神尊重ですから、虐待したって精神尊重してましたと言えばいいわけですね。ところが事実上連合国は、
批准と同じにこの準用を解釈していきます。
捕虜の労務動員
そして東条は、「1日たりとも働かないでは飯を食わせるな」という趣旨のことを演説したといわれています。
東条はそんなことは言っていないといっているんですが、その意を解してちゃんと下級の中将が労務に就かせる方針を出していきます。
こういう形で、捕虜の労務動員が始まります。しかし、労務動員といっても連れてきてここで働いてくださいという形では、
働けないんですよね。で、何をやったのかというとそれぞれの企業に捕虜を使わないかと、最初は軍の側から提案するわけです。
ところが企業は怖がって最初は捕虜を使おうとしなかった。しかし軍は、宿舎は軍が提供します、食べるものも軍が提供します、
管理は軍がやります、だから企業の側は捕虜について1日2円の賃金を払ってくれればいいんです。こういうようなプッシュをして、
それで捕虜を入れていきます。
そうすると、捕虜を使った段階で、思わぬ効果が出た。ひとつは捕虜が働いているのを見て、無敵皇軍、
日本が本当に大東亜を占領してそこを支配していることをこれが捕虜の実際の姿の中から、
多くの人たちがそれを感じて日本軍に対する忠誠を誓っていく。こういう宣伝効果が一つあった。それともう一つ、
朝鮮人を使っていたけれど能率が上がらなかった。それで、朝鮮人を捕虜で代替しようという企業が出てくるんですね。
その時、どういう状況だったかというと、みんななるだけサボタージュをしますよね、日本人も。
そして賃金を民間企業でも上げるように要求する。ところがそこに捕虜が組織的に入ってくると、
自分がさぼっていると職場がなくなるというので、他の人の労働の能率が上がっていく。
そこで、1942年の秋ぐらいから本格的な捕虜の日本への導入を図ります。しかし、10万人シンガポールにいたといっても、
その中でどういう捕虜がどこにいて、それをどこの企業にあてはめていくのか。これは非常に難しい仕事です。それでまずやったことは、
各企業に捕虜を何人、どういう仕事に使いたいのかという、許可願いを出させます。それには理由書も添付させます。
これはどういうルートを通って行くかというと、まず、地元の区役所、市役所などに書類を出します。だんだん上がって軍司令官、
その地域を管理する軍司令官がこれを許可すると、その上に最終的には陸軍大臣が全部許可します。
ここが朝鮮人と中国人と違うところなんですね。厚生省止まりで認可をするのではなくて、最終的には軍のトップ、
軍政のトップが捕虜については全責任を持つ形で導入していきます。
企業があげたものを軍が承認して、陸軍省が承認して、それをシンガポールやフィリピンのマニラなどの軍司令官に命令を出し、
そして乗せる船まで指定して日本に連れてくるわけです。連れてきて門司などに上がった捕虜を受け取り、受領して、
神戸やなんかにこれを連れてくる。そして、要請が出ていた企業に配分していくんですね。非常にシステマティックなんです。
そうやって捕虜を労務に動員していきます。
捕虜収容所の管理体制
捕虜収容所というのは後方の勤務です。東南アジアや日本が占領した地域全体に、捕虜収容所ができます。
フィリピンにはフィリピン捕虜収容所、シンガポールにはマニラ捕虜収容所、ジャワにはジャワ捕虜収容所、
そしてボルネオにはボルネオ捕虜収容所をつくっていきます。これは東南アジアです。そして奉天とか上海とか香港、
ここにも捕虜収容所があります。日本国内にも収容所が何カ所かできます。
収容所にに捕虜を配置した時、食べさせたり医療の面倒も見なければいけない。ものすごい人手がかかるんですね。
東南アジアの場合には、それを朝鮮人と台湾人で補填したのです。だから捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、
トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、あと全員が朝鮮人軍属なんです。
日本国内の場合も、最初は軍が面倒を見ますよといったんですが、軍がそんな余裕がないと全部企業に丸投げするんです。
捕虜を派遣するからお前のところで全部食わせろ。それから面倒を見ろ、これが派遣俘虜です。そうやって捕虜を派遣しておいて、
体制が整うと自分のところに分所を作って、そこに予備役の将校を入れて下士官を入れて、日本の軍が警備する、こういう体制を整備します。
これが1943年昭和18年の5月ぐらいですね。3月ぐらいでもう整備されています。
ところが、整備したのはいいけれど、こんどはそんなところに有能な日本軍の兵士を張り付けておく余裕がなくなるんですね。
それで何をしたかというと、派遣所と名前を変えて、軍人は将校一人にして、あとは先ほどいったような各企業からの警備員、民間人ですね。
それから傷痍軍人を軍属として採用して、それで彼らが管理するわけです。そういう管理を戦争末期にしますから、
もっともきつい状態の時ですね。食べるものがほとんど無い。食糧もちゃんと軍から支給することになってたはずですが、
戦争末期になるとそれも滞る。それともう一つは、副食もつけてたはずです。軍が支給していた。ところができなくなると一人3銭かな。
これをやるからお前のところで食べるものを集めろと、こういう方針に変わります。
なんてったって食べるものがない。それから、捕虜に対するプロパガンダをすごくやって、反英米、鬼畜米英ということもやっています。
空襲もありますから、捕虜に対する敵愾心がものすごく高まっていくわけですね。俘虜収容所は全部「俘」と書いた腕章をつけてるんです。
腕章というのは勝手に付けたりはずしたりできないものなんだそうです。捕虜収容所の人は食糧の買い出しに行く時、それを付けていくと、
捕虜なんかに食わせるものは売れないと拒否されるので、しょうがかいから腕章をはずして食料を調達したというような話もあるほどです。
たぶん、神戸はもうちょっと条件が良かったと思います。
こういう形で捕虜を管理していきますから、昭和19年、1944年、45年になると捕虜はほんとうに餓死との、たたかいになります。
アウシェビッツのあの姿を思いうかべてもらえればいいというくらいに、捕虜がやせていくわけですね。それでも労働は続くんです。労務は、
とにかく人手が足りない。平時の生産の70%に落ちている、50%に落ちてると企業から言ってきます。
そこで捕虜を何百人という要請がありますから、捕虜収容所は無理してでも人を出していきます。空襲で捕虜収容所が爆撃されても、
なかなかそこを動かないのは、労務の需要がある限りは労務を優先させたんですね。多少とも移動できる人は山奥に移動していきます。
それともう一つ、連合国が上陸作戦を展開して捕虜を奪取されたらば、これはむこう側の戦力になりますから、
最も日本に対する敵性の強い捕虜というのはアメリカ人捕虜と規定していたそうです。
この人たちは海岸地域の捕虜収容所から山奥の捕虜収容所なんかに移していく。こういうこともやったといわれています。
私たちは捕虜収容所のほうからこの問題をアプローチしていくと、捕虜収容所が細かく展開するので、
なかなか全体像がつかめないんですけれども、労務の需要からつかんでいくと、中国人強制連行と同じですね。事業所、
そこから見ていくといかに捕虜がいろんなところに展開していくのかがよく分かります。
日本の捕虜政策に対する米英の態度
レインさんは引き揚げの時に沖縄に2日間いて、マニラに3週間いってそれからオーストラリアに引き揚げてるんですね。
これはほかの捕虜もほとんど同じです。どういうことがその間にあったのか。もちろん体力の回復ということも大変大きな問題ですけれども、
アメリカとイギリスは日本に対して1944年の2月の段階で、「もうあなたたちは信用しない」という声明を発表しています。
これはどういうことかというと、フィリピンで解放された捕虜、そこからアメリカが証言を得たら、あまりにもひどい捕虜の処遇、
バターンのデスマーチがありますよね。それと医療がない食糧がない、そういう証言を得てイギリスやアメリカは、
日本の捕虜虐待をつかんでいるんですね。だけど一般には公開しなかった。なぜ公開しなかったかというと、
これを公開すると日本はまた逆上して、自分たちの捕虜をもっとひどい目に遭わせるだろう。だからこれは伏せておいた。
ずっと伏せておいたけど、1944年になって、もうこれ以上伏せることはできないといって、捕虜の実情を放送で流し、
これは全世界に流れます。
それと、日本に対する抗議の報告書もでます。マッカーサーは自分たちの捕虜を虐待したものに対しては、
戦後絶対に戦争裁判にかけるとその段階でいっていますし、イーデンが国会で演説をやっているくらいなんですね。
これに対する抗議文は年中外務省を通してきます。外務省は全部見ているんです。重光の「昭和の動乱」という自伝を見ていたら、
やっぱり彼は捕虜問題にいちばん心を痛めている。何とか方針を転換しようと思っても、もう動き出した歯車を変えることはできなかった。
なぜかというと、陸軍も、陸軍省も捕虜の問題をほとんど歯牙にかけなかったんですね。労働力として使うくらいは一生懸命考えましたけれど、
ジュネーブ条約にのっとってどこまで捕虜を処遇できているのか、通り一遍の調査はしています。
そんな事実はありませんいう電報を打ち返しています。連合国の抗議というのは、受信をしている人によると数え切れないくらいで、
私たちはいちいち憶えていないと。正式な回答したのが80何件あるんです。そういう捕虜の状態でした。
ですからポツダム宣言の第10項というのは、「我らの捕虜を虐待せるものを含むあらゆる日本の戦争犯罪はこれを厳しく裁く」、
これが連合国の戦争犯罪規定です。そこで明確になっているのは、捕虜虐待だけなんです。これを受け取った大本営は、
何を言っているのかよく分からなかった。他の戦争犯罪はいったい何なのか。それは明記されていないので中身が分からない。しかし、
捕虜虐待だけは明記されているんですね。
マニラで受領した降伏条件の中にも、捕虜の条件が書かれていました。すぐ身柄を安全なところに移して、
そしてその人たちをいの一番に引き揚げさせる。そのために、占領が始まる前に全部名簿を提出させています。この名簿は、
捕虜収容所の名簿だけではないんですね。捕虜が働いていた吉原製油の社長から、同じ工場で働いていた人のリストまで全部出させる。
そのくらい徹底してます。それで、虐待した人を全部リストアップしていく。そのくらい連合国が捕虜の問題を重視していることを、
当時の陸軍大臣も次官も「私たちが予想もしてなかったことだ」だと言っています。
一体捕虜収容所で何があったのか。連合国がやる前に自分たちが調べよう。俘虜関係調査委員会というものを作っていきます。
これは日本軍が作った委員会です。どうも連合国が捕虜について厳しく裁くようだから、一般的な戦争責任とか戦争犯罪ではなくて、
捕虜について集中的に調査するというやり方をしていきます。それで捕虜収容所の人に調査させて、懲罰をしているんです。
軍法会議を開いてではなくて、どうも捕虜を何回か殴っているようだから、あれは営巣に一週間入れるとか、
そういうことをやってアメリカや連合国がそれを追及することをかわそうとしているんですね。ところが、連合国の方の動きが早く、
これも途中で何となくうやむやになります。
日本は東京裁判やBC級裁判の他に、自主裁判というのを自らやっています。
バターンのデスマーチの本間中将は礼遇停止になっています。あれは自主裁判の軍法会議の法廷と行政処分の両方やっていますが、
その行政措置だと思います。こういうふうに日本側が裁いておけば、よもや連合国はそんなに厳しく裁かないだろう、
というように予測してたんだと思います。
しかし、先ほどいいましたように、1944年アメリカ、イギリスは日本に対して一切の幻想を捨てたと、
これから日本の捕虜虐待に対して徹底的な情報を収集して、これに対する責任を追及するという方針に変わっていきますから、
44年くらいになると東南アジアはもちろん、中国、日本の中にある捕虜収容所についても、全部リストを作っていきます。
北緯何度東経何度にどういう収容所があった、最初はほとんどクェスチョンマークなんですね。44年の8月くらいになると、
新潟の収容所は砂地の上にあって、どういう鉄工所が使っていて、イギリス人捕虜が何人いて、オーストラリア人捕虜が何人いて、
全部それを掴んでいます。神戸でも全部リストアップされて、名前まではともかくとして掴んでいたはずです。
捕虜虐待の実態調査
日本は捕虜の名前を全部赤十字に報告してます。ここが中国人と朝鮮人の違うところです。
これは国際条約にしたがってそれをやる義務があったんですね。そうやっているはずです、といった方がいいですね。というのは、
あんまり捕虜の数が多くて、それと捕虜を管理する日本側の体制はあまりにも貧弱で、
実は捕虜の名前をリストアップして報告するのが全部終わったのは1953年です。戦争が終わっても延々と捕虜収容所では名簿を作っていた、
それくらい日本は体制が遅れたといわれています。
一方、連合国の側は、まず身柄を安全に確保した段階で、「お前は誰に虐待されたか」ということを書き出すんです。
これはかなりランダムですけど、たとえばレインさんに調査官が来て「お前日本人に殴られたか」「いつどこでどういうふうに殴られたか」
「殴られたのを見たのか」、そういうカードが集積されます。これは今、ワシントンの公文書館に残っています。マニラで体力を回復した人や、
一度帰った人たちにも調査します。どういうようなランクで、いつまでここにいて、そしてどういう虐待を受けたか、
その虐待は自分が受けたのか、目撃したのかそれを全部書かせるんですね。それと同時に、
捕虜収容所の解放に連合国の兵士が入っていきますから、収容所の写真を撮って、どういう建物だったのかということもレポートして、
それも蓄積していきます。こういうことをふまえて裁判を展開します。
私は、その刑が妥当かどうかとか、なぜ捕虜収容所だけなのか、もっと大きな戦争犯罪がなぜ見逃されたのか、という疑問はあります。
だけど、そこで問題にされている戦争犯罪に、そんなに大きな誤りはないと思います。ただ、人定の間違いはあると思います。というのは、
日本人の名前を確定できない、それともう一つは綽名でだいたい呼んでいるんですね。たとえば内海などというのは、
ツというのは発音しにくいとかいろいろありますね。そうすると、全部あだ名を付ける。あだ名で呼んでますから、
あだ名とその名前が一緒のものかどうかの確定ができる人とできない人がいる。それが一つ。それともう一つは、
名前が特定できない時は首実検をやったんです。捕虜収容所の関係者を全部捕虜の前を歩かせて、これ、これってやりますから、
本当に殴った人とそうじゃない人が1年も2年もたつとかわってきますね。でもそれで、とりあえず容疑者をピックアップしていく。
そういうやり方をしていきましたから、人定に問題があったことは事実かも知れません。
ただ、先ほども言ったように、多くの捕虜が死亡し、ないしは戦後いろんな後遺症を持っていた、これは事実だと思います。で結局、
多くの捕虜を死亡させた捕虜収容所に集中的に戦争責任が被さってきます。たとえば泰緬線の場合には、捕虜を管理するのは捕虜収容所です。
でも捕虜を使うのは鉄道隊なんです。だけど鉄道隊からは二人しか戦犯は出ていない。捕虜収容所では20数人、
朝鮮人の軍属も死刑になっています。
なぜかというと、捕虜収容所はずっと一緒で毎日顔を合わせていますから憶えているんですね。鉄道隊は、
協力するだけだから工事が終わるとどんどん展開していきますから、殴られてもよっぽどひどい人でないと分からない。
そこで戦争責任の追及が捕虜収容所にどうしても集中する。日本軍が捕虜にやったいろんな行為のシンボルとして、捕虜収容所がとりあつかわれ、
そして具体的には、殴った、私的制裁ですね。それは日本軍の場合は誰でもが受けてきたとよく言われますし、
軍属たちはさんざん殴られて教育されてきたから、殴ることにそんなに抵抗感を持たなかったということも事実だといいます。でも、
自分たちは殴られても、殴る行為を捕虜にやった場合、これは戦争犯罪になるんですね。
朝鮮人は3000人、俘虜収容所の監視員として集められました。3320何人ですから大体3000人です。
その中から129人が戦犯になっているんです。それで23人が処刑されています。憲兵隊は戦犯の絶対数は多いんですが、
率としてこんなに高い戦争犯罪人を出した部隊はないと思います。日本の戦争犯罪として有期刑を含めて処刑された7%
は旧植民地出身者なんですね。そのうちの大部分は捕虜収容所です。148人の朝鮮人の戦犯のうち、129人が捕虜収容所関係者です。
裁判で裁かれなかったもの
日本軍の捕虜政策、ジュネーブ条約とそのつまづき、大量の捕虜を管理する能力がなかった。それからシステムが作れなかった。一応、
陸軍省の軍務局の中に捕虜管理部をつくって俘虜情報部と両方で管理する。すごいなと思ったら、一人の人が二つの仕事をしている。
そういう形でほとんど捕虜に、エネルギーを割かなかった。ですから、捕虜収容所がどういう実態の中にあるのかということがつかめてても、
改善命令も出せなかった。
南方からの捕虜の輸送、これはやっぱり地獄船なんですね。日本兵も大変だったけど、捕虜はそれよりもっと大変で、
船倉に押し込められますけど、最初の頃は1坪に6人、それがその年度末になると22人、要するに寝る場所もないという、そういう形で、
20何人までは確認できていますね、輸送されてきますから、門司に着いた時にはあまりの惨状に朝鮮俘虜収容所から、
捕虜を引き取りに来た人が受け取りを拒否した、というぐらい輸送の過程で多くの捕虜が死んでいるんです。
日本に着いて、上陸した捕虜を目撃していた女の人の証言を聞くと、
黄色い人がひょろひょろと上がってきて今にも倒れそう、それを受け取りに来た捕虜収容所の人が全部受け取って、夜行列車に詰めて、
乗せていくと。あまりにもひどい人は、そこらの病院に入れたりすると。しかし、船倉を見たら垂れ流し状態。
その中に死体がうずたかく山のように積まれている。最初暗くてよく見えなかったのが目が慣れてみると、それは全部遺体だったという。
それからあとどんどんお棺が運ばれてくると手足が出たりしてひどい状態で、彼女はそれをみたあとうなされて、
いままで絶対に思い出したくないというぐらいの惨状だったという。
捕虜虐待というのは、たんにこれだけというのではなく、そういうものも全部含めて、
実は元捕虜の人たちが記憶の中にインプットされているんですね。だから戦後、オーストラリアはものすごく対日感情が悪いんです。
個人の行為に対する責任は個人が取るべきだ。だから日本の戦争裁判は、
私たちが正しいというのがオーストラリアや連合軍の基本的な考え方です。これに対して私たちが、それはそうかもしれない、
だけと連合国の捕虜の問題だけが特記されてて、他の戦争犯罪についてまったくといっていいほど触れていない。中国人は3件だけです。
横浜裁判では。朝鮮人については一切取り上げていない。こういう戦争裁判のあり方には、私は強い疑問を持ちます。それと連合国は、
自らの戦争犯罪行為は一切裁かないことを申し合わせていますから、自分たちが原爆を落としても空襲をやっても、それはノータッチなんですね。
その中で捕虜収容所を中心にした捕虜の扱いだけがクローズアップされてきますから、私たちは日本の戦争の戦犯というと、
いろいろなことを含めて裁かれたというふうに考えていますけど、そうではなくて、主要には捕虜の問題、
そこを軸にして日本の戦争犯罪が問われている。このなかで、問われなかった、落とされた戦争犯罪が、
どのくらい今の戦後史を規定してきたのか。戦後史のなかで裁かれなかったのはいったい何だったのか。これを自分たちがもう一回、
戦争裁判を見直すなかで考えていかなければいけないんだというふうに、最近思い至っているところです。
一体日本の捕虜政策、それがどういうような犠牲を生んで今日にまで、禍根を残しているのか、
そこを私たちが明確にしていかなければならないんじゃないか、というふうに思っています。どうも個人の蹴った殴ったという、
そういうなまじ易しい問題ではなくて、日本軍の持つ構造的な管理体制の欠陥、これが捕虜虐待として表れているのではないか、
これはたとえば天皇、作戦参謀がいちばん発言権があるとか、いろんな問題がそこに絡んでくるんですが、
捕虜問題はそういう問題を考える大きなポイントではないかと最近思っています。
朝鮮人の場合は、まったく日本から受けた被害に対して、なぜ戦争裁判から排除されたのか、従軍慰安婦の問題だけじゃないんです。
植民地の問題はあそこでまったく裁かれていなくて、中国人に対しては連合国の国民だから135の事業所の調査も行うわけですね。
そういう形で連合国の問題と、それからアジアの民衆の問題、これは裁かれなかった日本の戦争犯罪の中には、
アジアの住民に対する日本軍のいろいろな行為、これも含まれている。それを私は1990年代にいろんなところで始まった戦後補償裁判、
それはそういうことを含めた私たちの歴史の掘り起こしだと思っています。(了)
以上抜粋。
(私のコメント)
韓国で、戦犯の名誉が回復されました。その「朝鮮人戦犯148人のうち、129人が捕虜収容所関係者」でした。そして
「捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、
あと全員が朝鮮人軍属」なのです。
朝鮮人は、捕虜という弱者を虐げたのです。虎の威を狩る狐、事大主義という民族性は、いつの時代にも変わらないようです。
ところで韓国は東京裁判を公式に否定したわけですが、日本も東京裁判を公式に否定したことに文句はないですよね?