この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

存在神秘Ⅱ

2009-12-17 06:46:53 | 人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか
「存在者」が存在することは誰しも疑わないし、不思議に思わない。ところが存在者を存在しめている「存在」について考察するとき、その得体の知れなさにうろたえる。
はたして、存在は在るのか、無いのか?

「かりに、存在そのことも在るのだとしよう。つまり、『存在は存在する』。そう仮定してみよう。すると当然だが、存在は在るもの(存在者)ということになる。とするとさらに、その「在るものである<存在>」はどうなるか。これも当初の前提(「存在は存在する」)から、在るはずである。つまり、『在るものである<存在>』も在ることになる。
だがそうなると、そのまたさらなる存在を、さらにそのまたさらなる存在を、つぎつぎに要求されてしまう。つまり、『在るが在るが在る・・・』ことになる。この連鎖に限りがないから、議論は無限にさかのぼり、無限退行の誤謬におちいってしまう。無限退行の誤謬とは、最初に仮定したことがあやまりであることを、論理的にしめす。
このあやまりをさけるためには、最初に前提とした『存在が存在する』という考え方を撤回するしかない。つまり、存在は存在するもの(存在者)ではない。存在は無(no-thing=モノではない)にほかならないというわけだ。
存在者は存在するが、存在そのことは存在しない。もっといえば、存在は、存在するようなモノとはまったく別次元の、じつに不可解なことだということである。」
(存在の非-存在者性)

つぎに「存在の無底性」(存在の無根拠性)ついて。
「無底とは文字どおり、底が無いということ。底とはむろん、究極的なよりどころ(人生や世界の究極理由・起源・意味・目標)のこと。そんな底が存在には原理的に欠けているというのが、存在の無底性である。」
「ただ、そのうえでいっておかなければならない。『底がないこと』(Ab-grund)と、『底ではないこと』(Un‐grund)とは、決定的にちがう。<底がない>とは、それ自体が<底である>ことにひとしいからだ。底なしとは底の別名なのである。
『無底とは、底の根源的な本質である』。そうハイデガーはいう。つまり、根底(底をなすもの)は、無底(底なし)でなければならないということだ。存在にかんしても同様。存在を無底とみぬくことは、存在を底と洞察することにほかならない。

『存在はその本質において根拠である。だから存在は、それを根拠づけるようなさらなる根拠をもつことはありえない。そのため存在から根拠が抜け去っている。そのように、存在から根拠が抜け去っているという意味で、存在は無底である。』
ひらたくいえば、森羅万象が存在することにはいかなる拠り所(根拠・起源・理由・目標)も欠落しているが、けれど拠り所が欠落しているからこそ、森羅万象が在ることそのことは、なにかとほうもなく根源的なこと(拠り所となること)だということである。
ふつうぼくたちは、根拠や意味や目的が欠けていることを、暗く否定的な不幸のように、受けとってしまう。世をはかなんだり、存在不安にかられたり、でも事情はまったく逆なわけだ。存在は根底などないからこそ、とても根底的なこと。もし存在に根底などがあれば、存在はつまらないことになってしまう。そう言っているわけだ。」

そして「存在の非在化」へ話はすすむ。

「さきにのべたように、存在は存在しない。存在したくても、原理的に存在できない。存在するのはモノ(存在者)だけである。ならば、存在はどのようなすがたで生起するのか。『存在は非在化する』というのがその答えである。『在ることは<無い>が密接にからみあっている』ともいう。在るが無い、無いが在る。そういってもいい。そのほかさまざまな言い方でくりかえされるこの非在化の無(存在は念々起滅)こそ、『存在と無は同一』テーゼの中心である。存在が根本的に不可解であることも、無根拠であることも、すべてこのことに起因するからである。」

この「存在の念々起滅」を古東氏(ハイデガー)は、まず映画のスクリーンに譬えている。フィルムの一枚はひとつのシーンの終わりを見せている。と同時に、次に移る動性の起点ともなっている。そして暗転が「死」で、ついで次のコマが写される。それが「生」。この点いたり消えたりの繰り返しが映像に動き(生命)を吹き込んでいるが、われわれの生命もこのような念々起滅の繰り返しであると言っている。

空に浮かぶ雲。雲も不思議な在り方をしている。かたちがあるようでない。一瞬たりとも固定形をとらない。よくごらんになっていただくとわかるが、雲は、形を失うことで、形をとっている。自己崩壊が、自己形成と、同時進行するのである。

炎もそうだ。一方で火が点き燃えあがろうとする生成のベクトル。他方で、燃えつくし消え去ろうとする消滅のベクトル。この生成と消滅という二つの、たがいに対立し排除しあう動きのなかではじめて、火は存在できている。

われわれは生きつづけての果てに死を迎えると考えているが、そうではないとハイデガーは言っている。われわれは一瞬の死と、一瞬の生を刹那に繰り返していると言う。そしてまた、その念々起滅が刻時制、時間を生んでいると言うのである。

つづく
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