この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

存在神秘Ⅲ

2009-12-18 05:22:58 | 人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか
「在ることの無底性や、刹那生滅性が理解できたからといって、いったいそれがなんだろう。在ることのはかなさ、むなしさ、よりどころのなさを、ことさらあぶりだしただけではないか。まさにニヒリズムの存在論。そうおっしゃるかもしれぬ。
だが、結論からいうと、まったく逆だ。存在のそうした否定的性格は、論理的にみると、すでに、存在のとんでもない肯定性を、論証してしまっているからである。」

「存在の無根拠とは、森羅万象が在ることに、いささかも必然的な理由も起源も目標もない、ということだった。つまり、万物は在る必然性などさらさらないのに在るという、存在の非必然性(「根本偶然」)を意味する。
存在が非必然だということは《万物は無くてあたりまえ、無いことこそオリジナル。在るなんてことがむしろ異様。なのに在る》、ということである。
もしかりに、必然的な理由や目的があって、なにかがこの世に登場したら、それが在るのはごく当然なことになるからだ。たとえばもしあなたが、しかるべき理由や使命をおびてこの世に生まれたのだとしたら、あなたがこうして存在していることは、当然のこと。存在しないほうが、理屈としてはおかしい。
だが、幸か不幸か、そんな必然性が原理的にないというのが、存在の無根拠性である。だから、在るなんてことは、論理的には異様なこと、無いほうが理屈としてはむしろオリジナル(=論理的に無理が無い)、ということになる。ぼくたちはふつう、存在していることこそ自明で当然だと思っているが、無根拠の無を前提に考えれば、自明なのは非在や無であって、存在はとても非自明(奇異)なことだということである。

熱力学の第二法則からしても、この宇宙は壮大な死滅過程(エントロピー)。エントロピーこそ宇宙の<自然>であり、このように宇宙の片隅の地球のうえで、あたりまえのように燃焼運動がおこったり、新陳代謝が起きたり、人類が生命の歴史をきざむなんてことは「絶対に在りえないこと(アンプロバブル)」である。
しかし理屈の上ではどんなにそうであっても、まぎれもなく現に事実として、<在るはずのない>多種多様な事物事象が、だれしもの今ここに<在る>。非在でも不思議ではないどころか、非在こそ理論上は当然であるはずのさまざまなものが、現に存在している。
絶対に在りえないこと、在るはずのないことの実現。それを、稀有とか奇蹟とか神秘と形容することは許されよう。とすれば、なにかがこうやってあたりまえのようにして在ることそのことは、じつは極度に稀有で、奇蹟的なことだという、論理的な結論になる。」

「さて、存在が念々起滅の刹那現象だということは、その始点がそのまま終点と重なっているということでもあった。とすれば、どの刹那の存在も、それみずからが、みずからの発源地であると同時に、みずからの消尽点をなすことになる。
たとえば、モノである肉体なら、身体図式やDNAが昨日を継承し、脳細胞が明日への夢をつちかうだろう。だが、その肉体が<今ここ>に在るという、その存在の事実そのことは、なにを受け継いだ所産ではないし、なにかをのこす前兆や、原因や、原料ではない。
つまり、<今ここ>の存在は<今ここ>で、『最後の一滴まで飲み干される。明日、つぎの時のために、なにひとつ、残してはいない』。瞬間の起源は、それ自身にあり、その結末もみずからつけていくわけだ。
とすれば当然どの瞬間も、それ以外の時とは無関係。<先立つ今>としての過去から訪れた<次の今>でもないし、<次の今>へ継続される<先立つ今>でもない。
いいかえれば、一瞬一瞬が全面的に新しい再発、不断の創造。どの瞬間もが新しい時の開始であり、その意味ではいつもつねに天地創造だということである。
が、いつもつねに始まりでありうるためには、同時にいつもつねに終滅でなければならない。そのかぎり刻一刻のどの瞬間もが、『世界終末(エスカトン)』だということになる。
つまり、刻一刻の存在(瞬間)それ自体、つねに天地の初めにしてして最期の時。

さてもし刻一刻が、不断の<天地創造即世界終末>だとすれば、刻一刻の<今ここ>それ自体が、天地の全幅をそのつど尽くすことになる。つまり、刻一刻の瞬間が、宇宙のリアルな長さだし広さ。刻一刻が創造にして終滅であるような時空にしか、現実には実在しないのだから、そうなる。
ここから、刻一刻の<今ここ>のどの瞬間生起(存在)もが、無窮性(永遠)をたたえているさまも、透見されてこよう。刻一刻の瞬間で、天地世界が尽き果て完結をみていくのだから、地球も宇宙も、彼岸も此岸も、過去も未来も、在るといえるものならすべて、一瞬の<今ここ>に含まれ、尽き果てているはずだからだ。つまり、一瞬が永遠(すべて)。」
「したがって、一瞬めざめて、存在神秘を味わうことができれば ― たとえたった二つで死んだ子も ―、存在論的には永遠にわたって生きたことと同等である。たとえ三兆年間生き続けることができたとしても、<存在の味=存在神秘>にかわりはないからだ。」
「つまり、一瞬が<すべての時=永遠>に通底する。その意味でも、直線時間論からすれば儚くみえるどの一瞬刹那もが、存在論的には無条件にすべて、「永遠の時」を刻んでいることになる。」

この後段の「一瞬の刹那は永遠である」という存在論的な意味はまだ腑に落ちていないが、存在がありえないこと、稀有な(というより可能性ゼロとまで言える)ことにもかかわらず、われわれがこうして存在している不思議は、ほんとうにとんでもないことだと理解する。しかし、翻って考えれば、この奇蹟は大いなる意味に裏打ちされているのだということに気づかされるのではないだろうか。

ハイデガーは二十歳のとき、神学徒生活を送っていた。
「死を極限まで思うそのメレテ・タナト行法がこうじたある日。ハイデガーは、最終最期のあるなにかを、しっかりとつかむ。度重なる発病。そのほとんど生を揮発されたような神学徒生活のなかで、しかも戦争で残虐の野原と化した焦土のなかで、むしろだからこそかえって、それまで見失われ、忘却されていたものがあぶりだされてきた。
それが、さきにのべた『生の事実性』である。『この生が存在すること』。(中略)
死んでいるのではなく、あくまで現にこの世に生きて在ることそのこと。そんな生や世界の存在に、はじめてありありとでくわす。そしてあらためて驚く。『驚異中の驚異、つまり存在者が《在ることそのこと》を経験する』(中略)
もちろん言葉にすれば陳腐な言い方にしかなりはしない。しかし気づいた当人には、とんでもない悦びがはじけとぶ体験だ。『存在忘却の根本体験』(存在の凄さを忘れていたことの痛切な体験)とのちにいわれるそれ。『存在と時間が、それゆえかかれなければならなかったといわれるそれ、それはまさしくハイデガー自身におきたできごとである。』

そこでハイデガーは「神が存在なのではない。存在が神で<ある>と知る。
つまり、存在。神と見まごうほど神々しい、それが存在なのである。
そしてあらゆる存在者の存在も同様に神である。だからわれわれも神なのである。

ようやく本書の半分を紹介できた。うまく伝えきれているか自信がない。興味を持たれたらぜひ本書に当たっていただきたい。増刷されているようだし、町の本屋でも簡単に手に入るだろう。そして本家、ハイデガーの「存在と時間」と読みすすんで欲しい。
ハイデガーの「存在と時間」は、存在論の単なる解説書ではなく、読み込んでいけば「存在神秘」体験を味わえる道案内のようになっていると、古東氏は言っている。
そして、この本は読み手側の思考改変をせまり、読者自身がじかにことがらに接触するようしむけるような「形式的指標法」で書かれているという。だからとても難解。わたしもまだ、行きつ戻りつしてなかなか読破できていない。

「魂の再発見」や「ハイデガー=存在神秘の哲学」を並べてみたことがこれまでなかったが、この機会に読み返してみたら、まったく違う立場の人間が、医師であるラリー・ドッシーや哲学者であるハイデガー・古東哲明が、違うアプローチから同じような結論に到達していることに驚かされる。
われわれは生の果てに死があると考えているがそれは間違い。絶対的時間というものも存在していないし、絶対宇宙というものもない。われわれは素粒子の刹那の生滅のように、在と無の念々起滅・刹那現象のなかにある。われわれの心はすべて「一つの心」でありながら、日常はこの脳という限定されたところに閉じ込められ孤立しているように感じているが、何かの瞬間に、全き心(一つの心)と繋がり、存在神秘体験を味わい、存在驚愕(タウマゼイン)にうたれるのだ。

この稿おわり
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