この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

存在神秘Ⅰ

2009-12-16 11:12:15 | 人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか
〈なぜこの世界や宇宙があるのか。なぜ万物が在り、そしてぼくたち人間が生きて在るのか。なぜ、むしろきれいサッパリなんにも無いのではなかったのか。草木も、鳥も、地球も、宇宙空間も、あなたも、なにもかもが。
「なぜものがあるのか、むしろ無〔なんにもない〕ではないのはなぜか」(ライプニッツ)
「『なにかが存在する』ということはどこから来たのか」(ベルグソン)
「在る。無はない」(パルメニデス)

そんなかたちで、遠いむかしから、問われつづけてきた哲学の難題である。
むろんこの問題に、事実的な因果関係で答えることは簡単だ。つまり、なにかが存在することに先立つ起源とか原因へさかのぼり、たとえばビッグバンや元素や神やDNAといった、それもまたひとつの「存在者」を想定する説明方式である。神話ばかりか、現代科学も当然のように採択している、とてもモダンな説明方式である。
だが、この方式は最初から破綻している。さきに簡単にのべたように、なにかの存在の根拠や理由や目的を、それに先立つ「在るもの」(存在者)にもとめても、ではその先立ってある存在者が「在る」のはなぜか、なんのためか、という問いがいつまでものこり、問題は無限に先送りされるだけだからだ。オントロギッシュ《存在にかかわること》(存在論的)な問いをオンティッシュ《存在者(モノ)にかかわること》(存在的)な問題に、いつのまにかソッとすり替えてもいる。因果論とはその意味で、思考停止にみちびく巧みな装置。すくなくとも存在問題にかんしては、そういわなくてはならない。

大切なところだから、もう一度くりかえしてみよう。今度は静かにゆっくりと。
「なぜ、なにかが存在しているのか。むしろ、なんにも無いのではなかったのは、なぜなのか」
これが存在論の基本定式である。いうまでもなく、とても奇妙な問題だ。ものが在り、この世が在る。そんなことはあたりまえすぎるからだ。すくなくともふだんの生活現場では、問題にもならない。無意味。なにより不毛な問題だ。餓死で死にそうな子供たち。ほしいのはリンゴだ。リンゴの「存在」なんかじゃない。存在を味わっても死ぬだけだ。
そのことは今はゆるされよ。だがかりにこの問題に答えようとしても、奇妙な困難におちいる。答えようがないからである。「なぜ小鳥たちは飛べるのか」。「なぜアフリカ経済が破壊されたのか」。そんな問題に答えるようには、答えられない。存在者にかんする問題(オンティッシュな問題=存在以外のすべての問題)なら、さきにのべた因果論的な説明方式で説明がつく。科学的なリサーチをかさねれば、原理的に解答可能である。

じっさい科学はありとしあるモノについて記述してくれる。そして、そのモノがどのようにして、ほかのモノからひきおこされたのかについて、因果論的な解明をあえてくれる。宇宙のなりたちについても、生命の誕生過程や起源についても、ハッブル宇宙望遠鏡による精密な観測データや、先端物質科学の実験成果などを駆使しながら、じつに詳細で明快な説明をしてくれる。それはそれで正解にはちがいない。それにとてもおもしろい。
だが、そうした科学的調査や研究をかさねても、「なぜ存在者が存在しているのか、むしろ無ではないのはなぜか」について、答えることはできない。たとえば、ビッグバンがなぜ起こったかまで、科学は説明できない。もっと正確に言えば、「なぜビッグバンが存在したのか、そしてむしろビッグバンが無いのではないのはなぜなのか」、という問題に答えられない。ようするに、なぜこの宇宙が存在しなければならなかったのかという根本理由や究極目的に、答えられない。科学を責めているのでは、まったくない。そもそも科学は、そんな問題(オントロギッシュな問題=存在問題)に答える言説方式ではない、ということである。

ならばほかの方式はどうか。たとえば宗教。「神がビッグバンをひきおこし、この宇宙を造った」。「神が遺伝子をこさえ、生命活動を最終的にコントロールしている」。
そう説明してくれるかもしれない。
だがその場合にも、おなじようにたずねるしかない。神が宇宙の存在を可能にしたとして、では「なぜ神は存在するのか、そして神が無いのではなかったのはなぜなのか」、と。
もうおわかりだろうと思うが、存在の起源なるものを想定し、さらに先立つ「なにものか」(存在者)をおけば、その起源なすなにものかの「存在」は、なぜなんのためなのかという問いが、いつまでも連鎖的に続き、解答をひきのばすだけの結果におわる。つまり、なぜなんのために万物が存在するのかわかりませんと、結局はいっているだけだ。
「なぜ在るか。存在とはそもそもなんなのか」
この問いに答えるには、もはやなにかに先立つ「在るもの」(存在者)にうったえず、あくまで「在る」という事実そのことだけに即し、存在それ自体で、だから存在をその自律性と内在性において、考えるしかないだろう。それがそもそも、哲学が問題とする存在への問い、つまり存在論である。ではならば、「在る」とは端的にどういうことなのか。〉

これは「ハイデガー=存在神秘の哲学」(古東哲明著╱講談社現代新書)の導入部である。書名のとおりハイデガーの存在論を中心にして、先に提起した疑問に、「存在」とは何か、「存在する」とはどういうことなのかを哲学している。

つづく

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)
古東 哲明
講談社

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