この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

非存在の可能性に気づくこと

2011-03-01 18:26:22 | 人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか
ニュージーランド地震ではまだ日本人28名の安否がわかっていないようである。
このような事故が起こるたびに人の運命について考えさせられる。

日本人の語学研修旅行者の中にはこの旅行を取りやめたものもいるだろう。また、逆に急遽参加したものもいるに違いない。
現地で同じフロアにいながら助かった人がいる一方、行方不明になっている人もいる。
4階にいて助け出された人がいる一方、階下に多くの犠牲者が出ているようである。
この違いはいったい何だろう。

運命論者というわけではないが、この違いがただの偶然というのではあまりに惨い気がする。
何の意味もなく彼らは亡くなったというのか。彼らの死に何の意味もないというのか。
もし、この事故に遭ったことがたとえ意味のないことだったとしても、19歳男子学生のように、一命をとりとめることと引き換えに右足を失ったとしても、今後の人生の中でなんらかの意味を形成して行けるだろうからいいが、死んでしまってはそれも叶わない。
人の生死に意味はないというのだろうか。

「存在の神秘」(古東哲明著)のなかでハイデガーはわれわれの存在に根拠はないと言っている。だからこそ現に存在していることが奇蹟であるということだが。
われわれの存在が無根拠ということは、死についても同様であるということだ。
生きていることも無根拠なら、死んでいくことも無根拠なのだ。われわれの死に理由も意味もない。ただ、われわれはいつでも存在しなくなる(死ぬ)可能性があることに気づくことが大切なのであるということなのだ。

そのことが、日常に埋没して死というものを遠い先のことのように思い込んでいるわれわれに生命の有限性を突きつける。
もし、明日自分が死ぬ運命にあるとしたら、あなたは今行っていることを、または実現したいと考えている夢を同じ様に追い求めていくだろうか。
一刻、一刻を漫然と過ごすことに、きっと耐えられなくなるはずである。

「非存在の可能性(=死)」に気づくことが、われわれの生き方に意義(意味)を与えてくれるのである。
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