「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

1996年に大学広報誌に連載していた紀行文を発見!~その2~

2005年07月21日 | 「Weblog」

ケニヤの次はルワンダ編でした。これらの詳細はブログでそのうち写真と共に書きたいと思います。

5月上旬にケニアを出発しルワンダへと向かった。目的はルワンダ大学の空手部を訪ねること、内戦についての調査、そして孤児院の訪問である。

ルワンダはビクトリア湖を挟んでケニアと隣国で、飛行機で1時間と意外に近い。ベルギーの植民地だったので、公用語はフランス語。飛行機からみるルワンダは「アフリカのスイス」と言われるように山と緑の多い国で、この国で大虐殺が起こったとはとても信じられない。

首都のキガリには現在も多くの国連の車が走っていて、町には日本人どころかアジア系の人はほとんどいない。

最初の目的地であるルワンダ大学はブルンジとの国境の町ブタレにある。町の人々は、とても明るく陽気だが、町のいたるところに内戦の傷跡がある。町の街灯は壊れたままで、夜はとても暗い。

やっと大学にたどり着いたが、銃を持った守衛が、いくら説明しても言葉が通じず、中にいれてくれない。途方に暮れていたところ、偶然にも空手部の人が通りかかり、彼に通訳してもらいようやく中に入る事ができた。
 
その人の名はシンジー、空手部の師範であった。彼が学長と交渉してくれて、滞在費は大学側が持ってくれることとなり、そしてその日から空手部での練習が始まった。空手部の部員達は、毎晩のように私の部屋に来て、いろいろなことを話してくれた。

最初は空手などの話が主だったが、日がたつにつれて内戦のことも話してくれた。話によると、この大学には当時4000人の学生がいたのだが、内戦で他部族の学生同士が戦い、およそ600人が亡くなったとのこと。

またシンジーには当時奥さんと1歳になる子どもがいたが虐殺で亡くなった。中には家族18人の内15人が虐殺された人もいたそうだ。

この話を聞いて、確かに驚きと悲しみはあったが、正直なところ、一体それがどういうことであるのか理解できなかった。日本で生まれ育った私には同じ大学内で殺し合うということが想像できなかったのである。

それとともに彼らの体験したことをただ言葉でしか理解できない自分が、すごく腹立たしかった。私にできることは、同じ地球上でそのようなこと、そして今も苦しんでいるということをきちんと認識し、できるだけ多くの人に伝えることだと思った。

現在、大学の正門には学生たちの共同墓地があり、毎日絶えず花が置かれている。

大学には2週間滞在した。大学が長期休暇に入るので、シンジーやその仲間たちとルワンダを回った。ルワンダ軍将校の家に滞在したときは内戦当時の貴重な映像を見せてもらい、そのすさまじさを今度は目であらためて感じた。

今、ルワンダの人々は新しい国を作ろうと部族の壁を超えて手を取り合っている。人々はルワンダの未来を笑顔で語ってくれた。

内戦後、孤児がたくさん生まれ、多くの学校が孤児院へと変わった。これらの子どもたちが、これからこの国がどう変わるかを見て生きていくのだろう。

1ヶ月のルワンダ滞在で、ここには書ききれないほどのことを学んだ。この体験がこれからの私の人生に大きな影響を与えると思う。最後に、ルワンダの人々そして出会った仲間たちに、平和が訪れるように祈りつつ筆を置く。

最新の画像もっと見る