≪整心療法研究所≫自己治癒力により心身が整っていく

自己治癒力により心身が整っていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法。

摂食障害=接触障害

2011年09月30日 | 家族
過食、拒食、嘔吐、偏食など摂食障害と呼ばれる症状は
そのまま接触障害へとリンクする
食=母 という図式 あるいは、 食=性 という図式もある
これを繋ぐと「食=母=性」となる
乱暴な物言いかもしれないが
接触障害は摂食障害となり性障害へと連鎖する可能性が大きいと言える
最初の摂食と接触は乳幼児期から始まる
養育者(たいていは母)からの適切な授乳とおむつ交換などにおいて
不快を快へと変えてくれる体験をする
ところが、何らかの事情により不快がある一定の期間持続した場合
あるいは、それが一度であっても閾値を越えた場合
後に何らかの障害となって表現される可能性が高い
それが食に表現されたのが摂食障害といえる
皮膚に表現されたなら、敏感肌、乾燥肌、アトピー性皮膚炎などの皮膚疾患
行動化ならタトゥー、過剰な異性関係、性倒錯など
人により、状況により表現方法は多々ある
思春期には特に女性を中心として「食」に表現されやすい
拒食は母を拒み、過食は母の取り入れと一体化
取り入れ、一体化した母は嫌悪する母であるから、一気に嘔吐で吐き出す
それとスタイルを気にするという肥満と痩せが伴う
「肥満と痩せ」を「膨張と収縮」と捉えたなら
それは男性の象徴である器官を連想させる
ここから「性」とも関連してくる
ゆえに
摂食=摂食=性
という図式が浮かび上がってくる
ついでながら
接触ということから言えば
接触したい欲望を持つ人は「接触事故」を引き寄せる可能性が高くなる
摂食障害でお困りの方は
シニフィアン研究所までご相談ください  http://signifiant-lab.com/

介護老人とならないために

2011年09月28日 | 家族
長寿大国と言われるようになって久しい。
長寿になったから介護を必要とする人口も増えたのも必然かもしれない。
それらの視点からではなく、精神分析の視点から考えてみる。
そうすると、「退行」という文字が浮かんでくる。
「時間的に人の精神は発達すると仮定して、その初期の段階へと戻ること」の意味で考えてみる。
例えば、「寝たきり」となった姿は
おむつをあて、寝返りもままならず、お風呂に入れてもらい、食事も介助、
もしくは「胃ろう」というチューブで直接胃に点滴のように流動食をいれてもらうことにもなる。
そして、いつもニコニコしていて、
介助や世話をしてくれる人たちから
さかんに「○○ちゃん」と呼ばれ、「可愛いね」と連発される。
実年齢と体格の差を考慮に入れずに見ると
まさしく乳幼児と同じ世話をしてもらっていると映る。
人生の大半を、社会の一員として頑張って生き、ある時を境に退行してゆく
そのきっかけは人さまざまだろう
その姿を見ていて
その人の人生の中で一番楽しかった、心満たされたと刻印された地点まで遡って行くように思える。
また、その人が一番求めていて得られなかった地点の穴を埋めようとしているかのようにも見える。
たいていは乳幼児期まで遡るようにも思う。
時には母の胎内まで回帰したようにも思える状況にも出くわした。
「胃ろう」なるものを見たときに感じたものだ。
へそのすぐ近くにチューブが付けられている姿は
まさしく「へその緒」だと、私には見えた。
これらのことから考えてみると
将来介護を必要とならないないためには、退行しないこと
退行しないためには、「満足体験」をしていること
このように言えるだろう。
老後に不安をもたれている方は
シニフィアン研究所までどうぞ  http://signifiant-lab.com/

寄る辺なき存在

2011年09月27日 | 育児・子育て
人は、母から生まれる。
他者が語らっている言語の中に生み落とされる。
自分を取り巻く周りの大人達が、その誕生を待ち望んで、様々に語らっていたであろう世界に!
しかし、生まれてすぐには、その言語を理解することはおろか、
自分の生命自体も自分で維持できない「寄る辺なき存在」である。
世話してくれる存在を必要とする。
がゆえに、その世話してくれる存在が乳児にとって、大きな影響を与えるであろうことは難くない。
その世話する存在は、たいてい「母」その人である。
このとき、
「母はどのような眼差しで自分を見てくれたのだろう?」
「どのような気持ちでおっぱいを口に含ませてくれたのだろう?」
「どのような想いで抱っこしてくれたのだろうか?」
知りたい!!
 
 
それが、
「ぼくどうやってうまれてきたの?」
「赤ちゃんってどこから生まれてくるの?」
という、幼児の質問かもしれない。
こんな、自らの根源への問いをすべての人は、意識的にも無意識的にも心の内奥に持っているようだ。
例えば、不登校や引き込もりの人たちも、何らかのきっかけでこの問に向きあっているのではないだろうか?
母のまなざしを知りたい方は
シニフィアン研究所までお問い合わせください  http://signifiant-lab.com/  

母とは禁止されたものの別名

2011年09月26日 | 育児・子育て
すべては母から生まれる
生まれる=二度とは戻れない=楽園からの追放→回帰を切望する
母の胸に抱かれ、安心しておっぱいを吸う
許されるのは一体どのくらいの期間だろう?
兄弟姉妹が生まれ、おっぱいを奪われる
その小さきライバルをにらみつける眼差し
陰でいじめようとする
いつまでも甘えるな!
と禁止される
一人歩きを要求、時には強要される
「母」は大なり小なり、禁止される対象としてある
しかし、どの人の根底にも「母への郷愁」がある
叶えられなかった「怒り」がある
「悲しみ」がある
それが日々の語らいの中に見え隠れする
人は決して諦めないようだ
もしかしたら、、、いつかきっと、、、
一分の望みを決して捨てようとはしない
「あなたが思うような母はドコにもいない」
と、何度繰り返しても決して断念しない
なぜそれほどまでに狂おしく求めて止めないのか?
禁止された存在であるがゆえに
二度と戻れぬ場所であるがゆえに
楽園に居ることを求める限りそこから逃れる術はない
だからこそ、禁止の法を立てるのである
しかし、その禁止の札があるからこそ、そこに立ち戻ってしまうものでもある
ゆえに、禁止の法の世界の住人となることでかろうじて楽園を断念させられる
法は楽園への回帰を禁止し、一方では楽園のありかを示すものともなる
そして、禁止されるがゆえに、その向こうにある楽園を思い描くのである
生まれた限りはもう元には戻れない
しかし、時空を自由に旅することのできる精神はその限りではない
ゆえに、禁止の札を立てざるを得ない
なぜ、それほどまでに禁止の法が必要なのか?
それは社会の崩壊に繋がることだからである
社会参入の第一歩が「母からの分離」
母とは求めても永遠に手に入らないものの代表となる
つまり「母とは禁止されたものの別名」である
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/

自己肥大

2011年09月25日 | 家族
「人は他者を必要としていない」
このように言うと、たぶん反論が出てくるだろう
人は人の中で生きている、だから人間と言うんだ・・・
確かにその通りではある
「自分以外の人」としての他者は多数いるし、また必要でもある
社会と言う名の集団の中で生活しているのだから
それらの他者には「自分を映す鏡としての他者」と「自分を映さない他者」がいる
自分を映す鏡としての他者=自分自身
と言える
だから必然的に他者はいないことになる
では、自分を映さない他者はどうなるか?
それは他者ではなく、風景と同じようなものである
草木や動物などと同じく「ただそこにあるもの、いるもの」
でしかない
何らかの関係を持つ=意味づけることがない限り
それはその人にとっては「いない」もしくは「ない」に等しい
つまり、「ある」「いる」と意味づけたものは自分自身ということになる
つまり、どこにも「他者」はいないことになる
こうして、他者で構成された社会のはずがどこにも他者はいないことになる
人は自分自身しか見出していない
いるのは自己肥大した自分、自己拡大した自分しか見ていない
どこに他者はいるのか?
生き方に迷っている人は
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