子どもは母が世界で一番大好きな愛の対象である。
状況からくる影響により、大嫌いだと語る人もいるかもしれない。
それでも、自分が存在することを選択してくれた人であることは疑う余地のないことである。
子どもには自分の存在を云々することは不可能であり、
主に母なる人の判断に委ねられているからだ。
それはとまれ、
子どもはいつも母を見ている。
母だけを見ているといっても過言ではないと思う。
母の喜ぶ顔が見たいと思う。
母の言う通りの良い子になろうとする。
年齢が小さければ小さいほど世話をしてもらう必要性が高いから、母の言う事を聞く。
それでないと、家は居心地の良いものとならないからだ。
母の方も自分の言う事をよく聞く子にしたいと思う。
しつけという名の下に、この子の仕合せのためだと信じて。
しかし、それは母の都合だ。
母が自分のしたいことが邪魔されないように、自分が楽なように子どもを操る。
時には、自分が果たし得なかった夢を、我が子に背負わせてしまう。
また、家業の跡取りとしての役目を押し付けるかもしれない。
世間から素晴らしい親だとの評価を得たいためかもしれない。
それらの是非をいうのではない。
母が我が子に「こうなってほしい」「ああなってほしい」と願うことは大切なことである。
原初、子どもは母に欲望される存在であることが何よりも必須である。
しかし、
母が我が子に求めるものは母の想いであること。
それは言い換えれば、子どもを母の欲望の対象にしてしまうことである。
子どもを母の欲望の対象にしてしまうとは、母に呑み込まれて自立できないということと等価である。
自立した人となるためには、どうしても母への反抗が必須となる。
母への反抗期がない子は後に、自立することに問題が生じる可能性が大きい。
ゆえに、母の良い子になってはいけないというのである。
子どもが言う事を聞かなくて困っている方は
Φ シニフィアン研究所のHPへ http://signifiant-lab.com/