新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

猫を抱く少女 ジュリー・マネの肖像

2024年02月03日 | アート/ミュージアム

れんちゃんのお気入りの一枚、ルノワールの《猫を抱く少女》。

「ルノワールおじさん、この子のこと、うんとかわいく描いてね!」

この絵からはそんな声が聞こえてきそうだ。この楽しそうに笑う猫のなんと愛くるしいことだろう。ツンと澄ましたおしゃまな少女のほうが猫っぽい。

この作品は、《かわいいイレーヌ》が評判になった2010年のルノワール展と、2014年の《こども展》で、二回観た。《こども展》のときに買ったこの絵のペーパウエイトは、今ではかなり退色してしまったけれど、仕事場のデスクにある。

ジュリー・マネ(1878-1966)は、ベルト・モリゾの最愛の一人娘。ベルト・モリゾはエドワール・マネの《すみれの花束 黒い帽子のベルト・モリゾ》のモデルとして知られる。バタイユは「彼女がいなければ、マネはおそらく印象主義の絵画を描かなかったにちがいない」と言っている。光線と色彩の祝祭である印象主義の中心には、「黒雲の間のひとつの星」(『沈黙の絵画 マネ論』宮川淳訳)のようなベルト・モリゾの存在があった。

ベルトがマネの弟のウジェーヌと結婚した時に、エドワール・マネ個人の印象主義時代は終わりを告げたというバタイユの指摘は興味ぶかい。サロン(官展)にこだわりぬいたマネの反対を押し切り、印象主義グループに飛び込んだベルトは、モネやシスレーと共にその重鎮になった。

ジュリーの日記には、「エドワールおじさん」が描いた母の肖像《すみれの花束 黒い帽子のベルト・モリゾ》(1872年)への言及がある。



《すみれの花束 黒い帽子のベルト・モリゾ》 エドワール・マネ(1872年)

ママンは黒いドレスを着て、コルサージュにはすみれの花束。小さな帽子をかぶり、顔は逆光になっている。わたしはこの絵が大好き。ほんとうに美しい。『休息』では白がきれいだけれど、これでは黒がすてき。エドワールおじさんの筆づかいはなんてみごとなんでしょう。
(1894年3月17日 土曜日)


引用は『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』(橋本克己訳/中央公論社)より。

今日でわたしは16歳。日の出がほんとうにすごかった。薔薇色、ベンガル花火のように完璧な薔薇色だった。すべてがヴェールにつつまれたよう。すてきだった。
(1894年11月14日 水曜日)



ルノワールの《ジュリー・マネの肖像》が、《猫を抱く少女》が美しく成長した7年後の少女と知ってたときには、感慨深かった。その表情はどこか憂いをおび、アンニュイ。そのおもざしには深い知性を感じる。


ジュリー・マネのポートレート。

しかしルノワールがこの肖像画を描いてから1年もたたないうちに、母のベルトはインフルエンザをこじらせて急逝。マネ家は資産家で生活面の心配はなかったが、病弱だった父のウジェーヌもすでに亡く、ジュリーはみなし子になってしまう。マラルメが代父となり、従姉妹たちとの3人の共同生活が始まった。ルノワールも、マラルメとともに彼女を親身になって世話をした。

ベルト・モリゾがジュリーにのこした遺書。


「最愛のジュリー、死にゆくいまもあなたを愛しています。死んでもなお、あなたを愛し続けるでしょう。でも、お願いだから、泣かないで。死は避けることができなかったのです。あなたが結婚するまで生きていたかったけど……いままでどおり勉強して、よい子でいてください。あなたは一度だって、わたしに悲しい思いをさせたことはありません。あなたは美しいし財産もあります。それを善い方に使うことですよ。ヴィルジュスト通りの家で、従姉妹たちといっしょに暮らすのがいちばんだと思います。エドマ伯母さんと従姉妹たちに形見分けしてください。従兄のガブリエル[ガブリエル・トマ]にはモネの《修復中の船》を。もし美術館を建てるのなら、マネの作品を一点選ぶようドガに伝えて。モネとルノワールに形見を。バルトロメにはわたしのデッサンを一葉。門番のふたりにも何かを。どうか泣かないで。口では言いつくせないほど、あなたを愛しています。ジャニー、たのむわね、ジュリーのことを」



〈マンドリンを弾くジュリー・マネ〉 ベルト・モリゾ画。

ベルトの遺書は亡くなる三年前に書かれた。彼女は自分の人生の残り時間がそう長くないことを知っていたのだろう。美しく成長した娘を見る喜びと、最愛の娘を残してこの世を去らねばならない悲しみがこの絵からはひしひしと伝わってくる。

未完に終わっているけれど、ジュリー・マネの日記の抜粋。







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