○エドワールおじさんのことで大議論!
エドワールおじさんのことで、ルノワールさんと、うるさくて感じの悪いエラールとかいう絵描きとのあいだで議論があった。このひとが言うにはマネの絵にはいいところがないという。それに対してルノワールさんは、「だったら、あなたがマネを好きじゃないということだ。先生として尊敬していれば、なにからなにまでよく見えてくるものさ」と反論した。エラールはずっとドローネーのことを話していた。彼の絵が気に入っているらしい。ドローネーが描いたじぶんの母の肖像画をもっているとのこと。全体がひびだらけだけれども、とても美しいという。それを聞いていたルノワールさんは、「ひびがはいっているってことは、それがよくない絵だってことさ。絵画というものは修練を積まなくちゃいけない仕事なんだ。美しい絵とはよく描かれた絵のことだ」とおっしゃった。
するとエラールは、だったらペンキ屋にもならなくちゃいけないな、なんて冗談を言った。それに対してルノワールさんは、じぶんはいつも絵の勉強をしている。いつもよりおおく学び、いまある自分に満足しないようにしたいとおっしゃって、こんなふうにつづけた。「ぼくには野心がいっぱいあるんだ。ヘボ絵描きになるくらいなら、むしろ筆を折ったほうがましだ」。のぼせたエラールはとうとう『オランピア』はむなくそわるいと言いだした。そればっかり言いつづける。そしたらルノワールさんも頭にきて、口喧嘩はとどまるところがなかった。
おじさんの作品に対して悪口をいわれるたびに、わたしはいつもいらいらしてしまう。おじさんの作品をむなくそわるいなんて言う人は馬鹿にきまってる、とじぶんに言いきかせても、やはりひとこと言いたくなる。頭にくる。
(1985年8月23日 金曜日)
このエラールという画家については、よくわからない。ルノワールと一緒にいた少女がマネの身内と知りながら、こんな罵倒を繰り返したとしたなら、ほんとうにたちのわるい男だ。
しかしこの頃には、マネも一定の評価を得ていたけれど、まだまだエラールのように快く思わない人たちも大勢いたのだろう。現代人にはわかりづらいけれど、この当時は前衛美術だったのだ。
1865年、マネの《オランピア》がサロン(官展)に発表されると、スキャンダルになったことはよく知られている。ジョルジュ・バタイユはこう書いている。
「マネの名が絵画史の中でもつ意味は別格である。マネは単にきわめて偉大な画家であるばかりではない、彼は彼以前の画家たちとはっきりと断絶したのである。彼はわれわれが生きている時代を開いた。彼はわれわれの世界である今日の世界とはうまが合うが、彼が生き、スキャンダルを惹き起こした世界の中では折りが合わない。マネの絵画がとり行ったのは突然の変化、するどい転倒であり、革命と呼びたいところだが、それでは誤解を招く恐れがある。この絵画があらわしている、目の前での精神の変化は、少なくともその本質において、政治史が記録する変化とは異なるからである。」
(『沈黙の絵画 マネ論』)
《オランピア》 エドワール・マネ (1863年)
《オランピア》は、ひとびとが考えていた「絵画」という概念を完全に裏切り、くつがえすものだった。「群衆が哄笑をもって迎えた最初の傑作」とバタイユはバタイユらしい逆説でこの作品を絶賛する。すでに芸術は一部特権階級だけのものではない。ここに「群衆の時代」の芸術の幕が切って下ろされた。
《オランピア》が非難の対象になったのは、裸婦像がタブーだったからではない。たとえば、1863年発表されたカバネルの《ヴィーナスの誕生》は、理想化された裸婦像によって絶大な人気を博している。今の視点で見ると、ナポレオン3世が購入したこの作品のほうが、はるかに卑俗で、それゆえに猥らでエロチックだ。
《ヴィーナスの誕生》カパネル
スキャンダルになった《オランピア》も、ルネサンス時代の古典的先例から借りた点では、カパネルと同じだった。しかしマネの衝撃は、女神でもニンフでもない現実の女性、それも娼婦が、公衆の面前に裸をさらすこと、それ自体だった。まさか《オランピア》が1907年にルーブル入りするなんて当時の人々は考えてもみなかっただろう(現在はオルセー美術館所蔵)。
マネの登場によって、絵画は宗教や歴史の従僕であることから解放された。絵画それ自体が可能になった。ここに近代絵画が始まる。
ただバタイユが「革命」ということばを慎重に避けたように、マネにはいくつもの顔があり語りづらい。ボードレールやマラルメとも親交を結んだ美術界の叛逆のヒーローは、同時に社交的な紳士だった。保守的なアカデミズムとの戦場もあくまでもサロンであり、後進の印象派グループとは距離を置き続けた。
マネを信奉した印象主義の画家たちのなかで、最も「革命」ということばからほど遠い画家が、ルノワールかもしれない。「絵画というものは修練を積まなくちゃいけない仕事なんだ。美しい絵とはよく描かれた絵のことだ」ということばには、画家ルノワールの職人気質を改めて感じさせる。ルノワールの原点には、13歳で磁器絵付の工房で徒弟奉公があった。
☆関連エントリ
ジュリー・マネの肖像(1) ベルト・モリゾの娘
ジュリー・マネの肖像(2) ワグナーの肖像画
ジュリー・マネの肖像(3) ベルト・モリゾの死
ジュリー・マネの肖像(4) お嬢様のヴァカンス
可愛いイレーヌ ルノワール展
エドワールおじさんのことで、ルノワールさんと、うるさくて感じの悪いエラールとかいう絵描きとのあいだで議論があった。このひとが言うにはマネの絵にはいいところがないという。それに対してルノワールさんは、「だったら、あなたがマネを好きじゃないということだ。先生として尊敬していれば、なにからなにまでよく見えてくるものさ」と反論した。エラールはずっとドローネーのことを話していた。彼の絵が気に入っているらしい。ドローネーが描いたじぶんの母の肖像画をもっているとのこと。全体がひびだらけだけれども、とても美しいという。それを聞いていたルノワールさんは、「ひびがはいっているってことは、それがよくない絵だってことさ。絵画というものは修練を積まなくちゃいけない仕事なんだ。美しい絵とはよく描かれた絵のことだ」とおっしゃった。
するとエラールは、だったらペンキ屋にもならなくちゃいけないな、なんて冗談を言った。それに対してルノワールさんは、じぶんはいつも絵の勉強をしている。いつもよりおおく学び、いまある自分に満足しないようにしたいとおっしゃって、こんなふうにつづけた。「ぼくには野心がいっぱいあるんだ。ヘボ絵描きになるくらいなら、むしろ筆を折ったほうがましだ」。のぼせたエラールはとうとう『オランピア』はむなくそわるいと言いだした。そればっかり言いつづける。そしたらルノワールさんも頭にきて、口喧嘩はとどまるところがなかった。
おじさんの作品に対して悪口をいわれるたびに、わたしはいつもいらいらしてしまう。おじさんの作品をむなくそわるいなんて言う人は馬鹿にきまってる、とじぶんに言いきかせても、やはりひとこと言いたくなる。頭にくる。
(1985年8月23日 金曜日)
このエラールという画家については、よくわからない。ルノワールと一緒にいた少女がマネの身内と知りながら、こんな罵倒を繰り返したとしたなら、ほんとうにたちのわるい男だ。
しかしこの頃には、マネも一定の評価を得ていたけれど、まだまだエラールのように快く思わない人たちも大勢いたのだろう。現代人にはわかりづらいけれど、この当時は前衛美術だったのだ。
1865年、マネの《オランピア》がサロン(官展)に発表されると、スキャンダルになったことはよく知られている。ジョルジュ・バタイユはこう書いている。
「マネの名が絵画史の中でもつ意味は別格である。マネは単にきわめて偉大な画家であるばかりではない、彼は彼以前の画家たちとはっきりと断絶したのである。彼はわれわれが生きている時代を開いた。彼はわれわれの世界である今日の世界とはうまが合うが、彼が生き、スキャンダルを惹き起こした世界の中では折りが合わない。マネの絵画がとり行ったのは突然の変化、するどい転倒であり、革命と呼びたいところだが、それでは誤解を招く恐れがある。この絵画があらわしている、目の前での精神の変化は、少なくともその本質において、政治史が記録する変化とは異なるからである。」
(『沈黙の絵画 マネ論』)
《オランピア》 エドワール・マネ (1863年)
《オランピア》は、ひとびとが考えていた「絵画」という概念を完全に裏切り、くつがえすものだった。「群衆が哄笑をもって迎えた最初の傑作」とバタイユはバタイユらしい逆説でこの作品を絶賛する。すでに芸術は一部特権階級だけのものではない。ここに「群衆の時代」の芸術の幕が切って下ろされた。
《オランピア》が非難の対象になったのは、裸婦像がタブーだったからではない。たとえば、1863年発表されたカバネルの《ヴィーナスの誕生》は、理想化された裸婦像によって絶大な人気を博している。今の視点で見ると、ナポレオン3世が購入したこの作品のほうが、はるかに卑俗で、それゆえに猥らでエロチックだ。
《ヴィーナスの誕生》カパネル
スキャンダルになった《オランピア》も、ルネサンス時代の古典的先例から借りた点では、カパネルと同じだった。しかしマネの衝撃は、女神でもニンフでもない現実の女性、それも娼婦が、公衆の面前に裸をさらすこと、それ自体だった。まさか《オランピア》が1907年にルーブル入りするなんて当時の人々は考えてもみなかっただろう(現在はオルセー美術館所蔵)。
マネの登場によって、絵画は宗教や歴史の従僕であることから解放された。絵画それ自体が可能になった。ここに近代絵画が始まる。
ただバタイユが「革命」ということばを慎重に避けたように、マネにはいくつもの顔があり語りづらい。ボードレールやマラルメとも親交を結んだ美術界の叛逆のヒーローは、同時に社交的な紳士だった。保守的なアカデミズムとの戦場もあくまでもサロンであり、後進の印象派グループとは距離を置き続けた。
マネを信奉した印象主義の画家たちのなかで、最も「革命」ということばからほど遠い画家が、ルノワールかもしれない。「絵画というものは修練を積まなくちゃいけない仕事なんだ。美しい絵とはよく描かれた絵のことだ」ということばには、画家ルノワールの職人気質を改めて感じさせる。ルノワールの原点には、13歳で磁器絵付の工房で徒弟奉公があった。
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ジュリー・マネの肖像(1) ベルト・モリゾの娘
ジュリー・マネの肖像(2) ワグナーの肖像画
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