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ジュリー・マネの肖像(6) ヴァカンスは終わり、世紀末のパリへ

2010年06月29日 | アート/ミュージアム
 前回から日が空いてしまったけれど、ジュリー・マネの日記抜粋版の続き。

 『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』(中央公論社)は現在品切のままで、Amazonのマーケットプレイスでは18,593円なんて高値がついている(定価は4800円)。古書店を丹念に探せば、もっと手頃な値段で入手できるとしても、やはりもったいない。本書は、19世紀末のパリの印象派周辺の芸術家たちの肉声を伝える貴重な記録であるばかりでなく、一人の聡明な少女による日記文学の傑作でもある。中央公論新社は、中公クラシックスなどで復刻してほしい。印象派展やオルセー展の人気ぶりを見ていても、必ず一定以上の読者はいると思う。ルノワール展のカタログの年譜も、このジュリーの日記に多くをよっている。

 お嬢さまのヴァカンスも、そろそろ終わりに近づいている。
 ルノワール夫人に、新婚旅行の話を聞いたりしている。ルノワールの妻アリーヌ(1868-1936)は当時27歳で、ルノワールとの間に2人の男の子をなしていた。

○ちょっと信じられない
 ルノワール夫人が、イタリアへの新婚旅行のことを話してくあさった。とってもおもしろいお話だった。というのはルノワールさんもよくこの旅行のことを話してくださるんだけど、いつもひとりで行ったようにおっしゃっていたから。わたしたちがまだ奥さまとお会いしていなかったからだろう。
 そのころ奥さまは22歳で、とっても痩せていらしたという。ちょっと信じられないけど。また奥さまはルノワールさんとはじめて会ったときのことも話してくださった。モネさん、シスレーさんもいっしょだったらしい。この3人は長髪で、彼らが通りすぎると、奥さまが住んでいらしたサン・ジョルジュ通りの人たちは大騒ぎしたとのこと。
 (1895年9月19日 木曜日)


 うん。確かに痩せていたなんて、信じられなかったろうなあ。
 24歳のアリーヌがモデルになった『田舎のダンス』(1883年)を見ると、この頃にはルノワール好みのスタイルに。


 『田舎のダンス』 すごくいい笑顔。人柄のよさを感じる。


 若い頃、ルノワールは、食わず嫌いで敬遠してきた(スレンダー系がタイプなのです)。変化があったのは、10年以上前のオルセー展。『若い女性のトルソ 陽の効果』の前に立った時に、急に木漏れ日のなかに引き込まれるような幻惑を感じて、以来、ルノワールの絵も好きになった。ただ、今もグラマラス系の裸婦像の多くは苦手で、『可愛いイレーヌ』『団扇を持つ若い女』、そしてジュリーの一連の肖像画のような、美少女作品が好み。ロリでもペドでも、何とでもお好きにお呼びください。

 さて、ジュリーがパリに戻るのは、10月の初めだった。

○悲しみの帰宅

 ルノワールさんは夏じゅうとても親切で素敵だった。会えば会うほど、繊細な人がらで大変な知性がありながら、しかも誠実で飾らない芸術家であるということがわかってくる。
 パリがとても醜く灰色にくすみ殺伐としたところに見えてくる。アパルトマンに戻ると深い悲しみにとらわれた。このアパルトマンには孤独の匂いがしみついている。あらゆるものがママンを想いおこさせ、同時にママンはここにいないということを告げている。
(1895年10月4日 金曜日)


 灰色にくすみ、殺伐とした十九世紀末のパリ。ドレフュス事件で世論は真っ二つに分かれ、ノストラダムスばりに、終末論も流行っていた。文中に出てくる「アシェット」とは、現在は婦人画報社を傘下におさめた、世界最大のフランスの老舗雑誌社だろうか。
 20世紀末、私たちがノストラダムスの大予言で大騒ぎしたように、当時16、7歳の少女たちも世界の終末を深刻に憂えていたらしい。

○世界が終わるなんて!

 ベルト「ルノー」と3人のお友達と一緒に過ごす。世界の終末が1900年にやって来て、フランスは来年に破壊されてしまう(アシェット年鑑による)という話に、みんなは深く悲しんでいた。世界の終末なんか見たくない。フランスが分割されて、戦争になるのを見るなんて恐ろしいこと。そんなふうにならなければいいとわたしたちは思った。でも誰もがそう思っているみたいだから、世界の終末は来るのかもしれない。「むかしは若い娘たちは春と太陽が好きだったのに、いまでは秋と冬と月しか好きじゃない」とベルトがいった。
(1895年10月26日 土曜日)



 ただ20世紀の大衆芸術・文化は、この世紀末の時代に発明されたものだ。ジュリーがこの日記を書いた1895年といえば、リミュエール兄弟のシネトグラフ「汽車の到着」に、観客が大騒ぎした年でもある。エジソンのキネトスコープを改良したもので、これが映画の誕生とされる。

 ミュージカルの定番、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(1909年発表)も、この世紀末のパリが舞台。パリの石造りの街並みの建築物の建材は、街のすぐ下に広がる地下採石場(カリエール)から切り出した石灰岩だった。パリの地下といえばカタコンベ(地下墓地)が有名だけれど、メトロや上下水道が縦横無尽に走る地下都市の全貌は、誰にもわかっていないらしい。

 19世紀末のカタコンベでは、頽廃趣味の芸術家たちによって、「地下の夜会」(ソワレ)と名づけた仮面舞踏会が開かれることもあった。20世紀末でも、パリの上流階級の子弟の間では地下パーティがブームになったりしたようだ(ギュンター・リアー、オリヴィエ・ファイ「パリ 地下都市の歴史」東洋書林)。以前、仮面舞踏会について調べていた若い友人がいたので、これは余談。


☆過去エントリ
ジュリー・マネの肖像 ~ルノワールを中心に~(『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』より抜粋)
(1) ベルト・モリゾの娘
(2) ワグナーの肖像画
(3) ベルト・モリゾの死
(4) お嬢様のヴァカンス
(5) ルノワールさん大いに怒る
☆関連エントリ
可愛いイレーヌ ルノワール展

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