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このブログは吉村昭推しです……司馬遼太郎生誕100周年だそうですが?

2023年09月13日 | 作家論・文学論
今年は、司馬遼太郎の生誕百周年なんですね。

昼の食堂で、NHKの『雑談「昭和」への道』番宣が流れて、気が付きました。1980年代のインタビュー番組の再放送のようですね。

この番組そのものには興味ありませんが、司馬が関東大震災と同じ年に生まれたというのは、少し発見でした。

以前、このブログにも書いたとおり、小学校時代の親友の薦めで『竜馬がゆく』も読み、そこそこ好きでした。

司馬作品から離れるきっかけは、左翼活動に飛び込み、日本帝国主義の朝鮮・中国・アジアに対する歴史を学び、いわゆる司馬史観に否定的になったからです。

左翼活動を離れて、大阪で会社員生活を始めてからは、再び司馬作品も毛嫌いせずに読むようになりました。

司馬はやはり、ストーリーテラーで、エンターテイナーです。晩年の作品は、トインビーか池田大作にでもなったつもりか、つまらぬ文明論ばかりでしたが、小説家に徹していた時代は、どんな作品を読んでもおもしろいです。私にとって司馬の最高傑作は、1962年連載開始の『燃えよ剣』ですが、みなさんはどうでしょう。同時期の『風神の門』も大好きな作品です。

司馬の死後、30年近くが経過しますが、今も司馬人気は落ちません。それが小説人気だったらいいのですが、私が気になるのは、司馬作品から「歴史」や「国」や「ビジネス」や「人生」を語る人が後を絶たないことです。

日本文学研究者、著述家の川幸逸郎氏の次の記事は、いろいろ参考になりました。



少し長くなりますが、同意した部分を引用させていただきますね。

〈司馬遼太郎は大正12年生まれで、太平洋戦争では戦車部隊として従軍しました。戦争で非常に嫌な思いをしたということは、本人も繰り返し話しています。その根底には、「官僚的非合理主義」が日本を破滅にやった、損得勘定のはっきりした民間人の商売感覚、つまり儲からないことはやらないという「庶民的合理主義」があれば、軍部の暴走は防げたという考えがありました。

司馬の作品には、庶民的合理主義の人物がよく登場します。例えば、坂本龍馬がそうです。龍馬は自分で革命を起こしながら、革命政府の一員にはならず、民間組織である海援隊のリーダーにとどまろうとしました。『竜馬がゆく』では、そんな龍馬を最高にさわやかな人物として描きました。

逆に、官僚主義的な人は、そのためにつまずいたということを書いています。今度、『関ケ原』が映画化されますが、司馬の石田三成観は、非常に有能な官僚であったけれど、それゆえ観念的になりすぎて、人間を将棋の駒のように動かせると考えたために、徳川家康に勝てなかったというものでした。〉

〈司馬は本当に思想嫌いで、他でも「思想は国や組織をうまく運営していくための方便にすぎない」「日本人のえらいところは無思想なところだ」ということを言っています。

しかし、現実には、司馬が肯定した庶民的合理主義つまり損得勘定だけでは選択しえない局面があります。そのとき基準となるのが、思想や美意識です。それが崩壊した1960年代に、この先をどう生きるかということを問うたのが三島でした。

これに対し、司馬には、庶民の活力、すなわち庶民的な合理主義が、戦後の民主主義や高度経済成長を支えてきたという考えがありました。また、それに強く共鳴していました。

だからこそ、三島の提示した問題を吸い上げることなく、彼が命をかけてまで違和感を唱えたことについて、歪曲に近い形で矮小化し、無理やり芸術の範囲に押し込めようとしたのです。〉

川幸氏の三島や春樹への評価は、過大評価のように感じましたが、私は、おおむね、この記事を興味深く読みました。


司馬の死後20年余後に大阪に登場した、思想・文化・芸術、さらに平等と民主主義を憎悪するファッショ集団が、セクト名として、司馬が持ち上げた「維新」を名乗ったのは、歴史の皮肉というべきでしょうか。彼らこそは、司馬が依拠した、「今だけ・カネだけ・自分だけ」の「庶民的合理主義」の申し子でした。司馬が存命なら擁護したであろう文楽など伝統文化・芸能に対する補助金事業まで攻撃の対象にしたのです。

関東大震災における朝鮮人虐殺も、南京大虐殺も、いわゆる従軍慰安婦も、存在しなかった。今の時代は、こうした嘘やデマを振りまく歴史修正主義者が跳梁跋扈しています。

この歴史修正主義に対して、『坂の上の雲』などの作品に代表される、いわゆる司馬史観が与えた影響は大きなものがあると思います。

私が敬愛し、目標にしてきた作家に、吉村昭がいます。

昭和でいうと30年代のころの話ですが、新人作家のアルバイトに、週刊誌のスキャンダル記事があったそうです。私の尊敬していた作家も常連だったのだとか。しかし不遇時代の吉村は、この仕事を「筆を曲げることになる」と断ったということです。筆を曲げることはできなかった、と。

私もこの吉村昭の言葉を見習って生きてきました(で、びんぼうのままです)。

吉村が司馬遼太郎賞を選考段階で断ったのも、史実を捻じ曲げながら「歴史小説」と称し、文明史家ぶる司馬を、「作家」以前に、まともな人間とは見なしていなかったからでしょう。

吉村昭は、こんな司馬批判のことばを残しています。

「私が、果たしてこれでよいのかと頭をかしげたくなるのは、あたかも史実を尊重しているかのように見え、読者もそれを毫も疑うことをしないのに、実は、物語を興味深くさせるため史実をゆがめている小説なのである。一面識もない男女を同衾させたりしてもよいのか、と私は思うのである。歴史という文字を冠する小説であるかぎり、史実を軽視したり、故意にあらためてしまってもいいものなのか(後略)」 (『史実と創作について』)



「一面識もない男女」「同衾」。


これは、『花神』の村田蔵六と楠本イネのラブストーリーのことでしょう。

吉村は、他の作家が同じテーマについて書こうとしていることを知ったら、譲ってきた人です。吉村も高田屋嘉兵衛について調べていたものの、司馬の担当でもある編集者の義理やメンツを優先し、司馬に譲ったというエピソードが残ります。

しかし、司馬の『菜の花の沖』は、ほんとうに駄作でした。こんなことになるなら、吉村版高田屋嘉兵衛を読みたかった!

そんな吉村が、わざわざ『ふぉん・しいほるとの娘』を書かねばならなかったのも、連続ドラマにまでなってしまった『花神』の歴史改ざんが許しがたかったからでしょう。

文藝春秋の吉村昭の担当編集は、司馬遼太郎の担当でもあったそうです。

吉村に、文章のちょっとしたミス・ニュアンスの違いを指摘してくれる編集者の存在の大切さを説いたエッセイがありますが、そのなかで、ある編集者に、ある作家の文章に苦言を呈したと語っています。

おそらく、司馬のことでしょう。


「しかしあの先生は直してくれないんですよ」と、編集者が言い訳するところで、この話題は終わっています。

このエッセイを読んで、私が思い出したのが、大阪城公園駅にデカデカと飾られた、司馬が書いたあの文章のことでした。(続く?)

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