新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

漱石と鴎外、そして御田植神事

2023年10月09日 | 作家論・文学論
10代の若者アンケートで、「知らない日本語」の第一位が『忠臣蔵』で、認知度も1%にすぎなかったそうです。

『忠臣蔵』がライフワークのひとつだった池波正太郎が聞いたら、激怒しそうですね。

「おじいちゃん、最近の若者から見ると『忠臣蔵』はアホな主君のために従業員が犠牲になる、コンプライアンス上大いに問題のある、元祖ブラック企業物語ということになっているんですよ」

「法令遵守をいうなら、吉良がお咎めなしこそ、当時のご政道からいっても不当な裁きであろう! それでもおまえら日本人か!」

詳細は省きますが、若いころ「3・14報復戦」なる「リアル忠臣蔵」の渦中に生き、ささやかながら休戦に奔走した私は、『忠臣蔵』は好きでありません。

そんな私も、漱石も鴎外も、荷風も鏡花も、谷崎も太宰も知らない最近の若者を見るにつけ、日本人であるかどうかはどうでもいいことですが、「人としてそれでいいのか」と思わずにはいられません。

交誼のあった、ある文豪の記念館が、あるライトノベル原作のアニメとコラボイベントをしているのには、暗澹たる思いでした。そのライトノベルは、『文学少女』シリーズのような原作リスペクトならとにかく、原典にかすりもしない『ジョジョ』風のスタンド使いの物語だったからです。

それでも館の人は、アニメファンの来場者が増えたことを喜んでいました。来場者の10人に1人、いや、100人に1人でもいいから、原作を手に取ってほしいという切実なる願いだったのでしょう。

漱石と鴎外は、さまざまな誤りも犯しています。

しかし、その誤りは誤りとして、好き嫌いに関係なく、思想や立場も超えて、「日本語」に関わる人間なら、その存在を絶対に無視できない存在だと、私は思います。


まずは漱石のあの名作の冒頭から。


吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。(『吾輩は猫である』)



「吾輩は猫である」という書き出しは、今なおインパクトを失っていません。
「おれ」「ぼく」「私」ではなく「吾輩」。そして、犬でも豚でも馬でもなく「猫」。百獣の王ライオンも顔負けの「吾輩」というドヤ顔の一人称と、「猫」とのギャップ。

漱石は文学を「F(観念)+f(情緒)」の結合体であると定式化しました。『草枕』冒頭の言葉を借りれば、「智」は「情」を伴うことで、初めて文学が成り立つと言い替えることもできます。美や正義や道徳という「観念」(F)は、「情緒」(f)と結びつくことで人々の共感を生む「文学」へと生まれ変わるでしょう。

文明社会への風刺であり近代批判でもある『吾輩は猫である』は、「F+f」の実践であり作品化です。「人間という」「獰悪な種族」に対する批判(観念:F)だけなら、論文にはなっても小説にはなりません。最も身近な動物である「猫」の目を通して描かれることで、ユーモアを伴った「情緒」(f)が生まれ、後世に残る名作になりました。

文章も見事です。「猫である」「まだ無い」「見当がつかぬ」「記憶して居る」「人間というものを見た」「種族であったそうだ」と同じ文末表現になるのをできるだけ回避しています。これはさりげなく見えて、高度な技術です。

しかし逆にリフレインが効果をもたらすこともあります。ここで鴎外の例文を見てみましょう。


此車に逢えば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。葬送の行列も避ける。此車の軌道を横るに会えば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざるを得ない。
そして此車は一の空車に過ぎぬのである。(『空車』)


文末の「避ける」の繰り返しがリズミカルです。情景がありありと目の前に浮かんできます。

「此車」が出合うのが、「徒歩の人」「騎馬の人」「貴人の車」(馬車でしょう)「富豪の自動車」「隊伍をなした士卒」「葬送の行列」「電車」と、小さなものから大きなものが変化しているのがわかるでしょうか。

これは、近景の小さな被写体にピントを合わせて、ピントを手前から順に奥へ送っていく、動画撮影の「ピン送り」と同じ手法です。このことによって、あたかも空車の中から車馬でごった返す往来を眺めているような臨場感を与えています。

最後の電車だけは、線路を外れて「避ける」わけにはいきませんから(脱線してしまいますね)、詳しい描写が必要になりました。ここで初めて「待たざるを得ない」と文末の表現も切り替わります。この緩急が、文章に心地よいリズムをもたらしています。

さて、この空車の正体は、東京市内の印刷所に、印刷用紙の納品を終えた王子製紙の牛に引かせた荷車です。

巨大な牛と荷車が、のろのろ進んできて、通行人も馬上の人も、貴人の馬車も富豪の自動車も道を譲り、路面電車も一時停止しなければならない情景が、ユーモラスに描かれています。

牛車のスピードは、たしか時速3キロほどでしたでしょうか。

映画『風立ちぬ』で、零戦を運搬するのが牛であることに、敵国アメリカや同盟国ドイツとの彼我の科学力・技術力の差を嘆くべきところ、主人公が「僕は牛が好きだ」と語るのは、意外に、鴎外の『空車』を意識したものだったかもしれません。

偉そうにいろいろ書いていますが、私がリアル牛車を見たのは、住吉大社のお田植神事でした。

牛さんが畝を耕すのですが、牛さん、ほんとうに、大きいですねえ。

でも、京都の時代祭に出るようなアイドル牛で、田んぼは初めてで、泥のなか歩くのをいやがり、なかなか進まないのですよ。そんなところも、かわいらしかったものです。



最新の画像もっと見る