パリオリンピック帰国後の会見で、「特攻資料館に行きたい」と語った卓球の早田ひな選手(24)。この発言に、中国、さらに韓国から非難が殺到する思わぬ事態が起きています。
■「若い方も特攻隊を知っていただく機会に」
個人で銅メダル、団体で銀メダルを獲得した、卓球女子日本代表のエース、早田選手。帰国後の会見で「今やりたいことは?」と聞かれると、次のように答えました。
早田選手
「鹿児島の特攻資料館に行って、生きていることを、そして自分が卓球をこうやって当たり前にできているということは、当たり前じゃないというのを感じたい」
早田選手が行きたいと答えたのは鹿児島県にある「知覧(ちらん)特攻平和会館」。第2次世界大戦で亡くなった特攻隊員の遺品や関係資料などが展示されています。
知覧特攻平和会館
川崎弘一郎館長
「多くの方から、早田さんの発言があったとお伝えしていただける。早田さんが20代ということで、若い方も特攻隊を知っていただく機会になったと思う。平和、命の尊さについて考えていくきっかけとなっていただければ、ありがたいなと思っております」
SNS上にも、早田選手の発言を称賛する声が上がりました。
Xから
「さすが日の丸を背負った代表選手」
「若い選手が先人を敬い、感謝してくれる姿に感動しました」
■中国メディア「侵略の歴史の美化」「ぼうとく」
その一方で、思わぬ余波も…。早田選手の中国版SNS・微博(ウェイボー)には、非難の声が殺到したのです。
微博のコメントから
「日本は中国に何をしたのか、真実としっかり向き合うべきだ」
「発言を撤回してほしい。あなたのファンをがっかりさせないで」
さらに中国メディアによりますと、早田選手にウェイボーのアカウント開設を勧めたという男子シングルス金メダルの樊振東選手(27)や、女子団体金メダルの孫穎莎選手(23)が、早田選手のフォローを外したといいます。
早田選手と孫選手と言えば、団体戦後の記念撮影で頭についていたゴミを取ってあげるなど、微笑ましいやりとりが話題を呼んだばかりでした。
今回の早田選手の発言について、中国メディアは…。
中国メディア
「特攻は軍国主義による侵略の歴史の美化だ。早田選手の発言は中国人への感情のぼうとくだ」
さらに、発言の余波は韓国にも及びました。3位決定戦後、泣き崩れる早田ひなに歩み寄るシン・ユビン選手。
銅メダルをかけて戦った早田選手と韓国代表シン・ユビン選手(20)。韓国メディアは試合後のふたりの抱擁シーンに触れつつ、こうコメントしました。
韓国メディアから
「感動的な抱擁シーンが薄れてしまった」
早田選手の平和を願う発言が、思わぬ方向に広がる事態となっています。
(「グッド!モーニング」2024年8月17日放送分より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/e837c7fe24183e21abb5fc97fce77a40e7dc6b29
94歳、弟の分まで生きた やなせさん
『お父さん、日本のことを教えて!』(自由国民社)の著者、赤塚高仁さんと飲んでいたら、アンパンマンのテーマソング『アンパンマンマーチ』の話になった。
「あの歌詞には戦死した弟への思いがある」というのである。
知らなかった。赤塚さんと別れた後、「アンパンマン」の原作者・やなせたかしさんの著書を探して読んだ。
やなせさんは、5歳の時に父親を亡くし、その後、母親は再婚して家を出ていった。やなせさんと二つ下の弟の千尋さんは、伯父夫婦に育てられた。大正生まれの二人が成人する頃が、ちょうど日本が戦争に突入していく時代だ。やなせさんに赤紙が来たのは22歳の時だった。暗号解読の部署に配属になったため、直接戦場で戦うことはなかった。
千尋さんは特別攻撃隊を志願した。小型特殊潜航艇、いわゆる「人間魚雷」である。任務地に向かう途中、フィリピン沖の海峡で敵の攻撃を受け、乗組員全員、輸送船と共に沈んだ。
やなせさんの詩集『おとうとものがたり』(フレーベル館)に、「シーソーというかなしい遊びがある」という出だしの詩がある。
小さい時、弟は病気がちで、学校の成績も悪かった。
兄は健康で成績はよかった。
弟は薬ばかり飲んでいて、いつもお菓子と玩具に囲まれていた。
兄は自分も病気になりたくてわざと雨にびしょぬれになったりしたが、平気だった。
しかし、中学生になったら逆転した。
弟は頑丈になり、柔道2段で優等生。
兄は柔道無段で劣等生……という内容である。
詩の最後はこうだ。
ぼくらは一方が上がれば一方が下がる
それでもぼくらは仲良しだった
シーソーをもう一度したいと思っても
ああ人生のギッコンバッタン
ひとりぼっちではできないんだ
戦後、やなせさんは漫画家としての道を歩み始めるが、仕事に恵まれず、雑誌記者や舞台美術など、頼まれたら何でもやった。
冬の寒い日、落ち込んだ時があった。
電気スタンドの灯りで暖を取った。
手のひらの血管が透けて見えた。
「悲しいのも苦しいのもつらいのも生きているからだ」と思えた。
言葉がどんどん降りてきた。
「電気スタンドでは味気ない」と、「太陽」に替えて、
「手のひらを太陽に透かしてみれば」という詩ができた。
ミュージカルの舞台美術の仕事をしていた時だった。
音楽を担当していた作曲家のいずみたくさんにその詩を見せると、
気に入ってくれて曲を付けてくれた。
こうして生まれた『手のひらを太陽に』は、
昭和44年、小学6年生の教科書に採用され、今日にいたる。
そうだ、うれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも
で始まる『アンパンマンマーチ』も生きていることへの賛歌そのものだ。
「何のために生まれて/何をして生きるのか」と続く歌詞に対して、
「これは幼児が歌う歌じゃない。難しい」といろんな人から散々言われた。
やなせさんは言う。
「僕は子ども向け大人向けと区別したことはない。
大人も子どもと一緒に見て、何かを感じてほしい」
昭和44年、初めて世に出た『アンパンマン』は、マントを翻して空を飛び、飢えた子どもにあんぱんを配る太ったおじさんだった。国境を越えたら、敵の戦闘機と間違えられて撃ち落とされるという悲しい結末だった。
太ったおじさんは、後にかわいい丸顔のアンパンマンになった。自分の顔を食べさせることに対して「残酷だ」という批判もあったが、「正義の味方が最初にやらないといけないのはひもじい人を助けること」「正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなきゃいけないんだ」という主張を貫いた。
「戦争中に一番堪えられなかったのは飢えだった」
と言うやなせさん。
「子どもにとって一番大事なことは食べること。だから登場するキャラクターは全部食べ物なんだ」
と。
そして歌詞は「愛と勇気だけが友だちさ」と続く。
なぜ「だけ」という言葉が出てくるのだろう。著書に記述はなかった。
憶測だが、やなせさんは、戦後もずっと大好きだった弟と共に生きていたのではないか。弟を含め戦争で散った人たちの胸中にあったのは、愛する人を守るんだという思いと、そのために戦う勇気、「愛と勇気だけ」だったのではないか。