九里の祖 経久の次男 左衛門経重
藤左衛門尉 経重 1232年に園太暦に記載があった事は、前回に書いた。
それまでは文官であった九里だが、この人と息子は武士のごとき名前となる。
経重―秀重・・・である。
【和暦年月日】 文永10年2月20日 (1273年)
【文書名】 若狭国守護代渋谷経重施行状案
【底本名】 若狭国太良荘史料集成
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東京大学史料編纂所データベースより
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文永十年二月廿日平 経重 在判
包枝進士太郎入道 殿
東寺百合文書より
これらの文書に出てくる【渋谷経重】【平経重】そしてもしかすると、寛喜三年に出てくる【藤経重】も同じ人物なのではないだろうか?
この渋谷氏とは佐々木秀義とその息子たちを20年にもわたって保護していた【渋谷重国】のあの渋谷氏である。
佐々木高綱の弟である義清。義清の母親は【渋谷重国】の娘である。
義清は出雲国の月山富田城を築城している。
一方、浄椿である。
時代は1400年後半 舞台は水茎岡山城周辺である。
九里備前守信隆が六角佐々木の陰謀により歿して、次の城主は浄椿である。
浄椿にはいくつか名前がある。
九里伊賀入道浄椿(じょうちん)、伊賀守、刑部少輔三郎右衛門高雄(たかかつ)である。(宗恩も含むか)
(宗忍は九里ではあるが浄椿とは別な人であることが判明。宗忍は大永五年まで生存。三条西実隆の記した『実隆公記』による。)
15歳の時に応仁の乱。そのとき浄椿は小倉実澄に預けられた。
小倉実澄の妻は、飛鳥井雅親の娘である。
戦乱の京より飛鳥井雅親(権大納言)は近江国蒲生郡日野佐久良城主であった小倉実澄館に避難していた。
応仁元年二年には近江にも戦火が上がり、文明元年(応仁二年と同じ年)九里城(本郷城)も陥落焼失したそうである。
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このような戦乱の中に、小倉氏に嫡男を預けたということは、縁戚であった可能性もある。
また、明応九年(1500年)には、蹴鞠の第一人者である飛鳥井雅康が九里美作守員秀に宛てて「蹴鞠秘伝五部抄」を記している。
この雅康とは、雅親の弟で権中納言である。
このような方から飛鳥井家にとって代々継がれてきた【秘伝】(自筆)を賜るというのは、よほど親しいか、近いか、ではないだろうか。
飛鳥井雅親の息、次男が土岐益豊となる。
(土岐は富城にもつながりそうだが、今のところは良く判らない。しかし、土岐氏の中にも隠岐氏がいる。【隠岐国時】が群書系図部集3の中にいた。)
小倉氏があの京都の小倉山と関係があるとすると【小倉百人一首】とも関係が出てきて、定家の百人一首はパズルであった水無瀬の記事につながってくる。↓
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin01.html
そして、小倉実澄は歌人としてもかなり有名であったそうなのである。
浄椿の名前も、蓮乗の祖父が蓮浄と名乗っていたことなど自分のルーツを細かに知り、そのように名乗ってみたのではないだろうか?
近衛家からも【抱き牡丹】の家紋を賜っている。
公家の出、藤原姓であることを意識していたのではないだろうか。
そして、景徐周鱗からいただいた法名が【片岡桂嫩】というのだが、その【片岡】は、賀茂の片岡社の事ではないだろうか。
近江国御家人井口中原系図の【九里氏】のその後について書いておきたい。
系図は前回の秀方でぷつんと切れている。が、九里の祖という人物を残しておきたいがために、書いたのだと思う。
さて、前回に続くが、賀茂員定が長生きをして、近江国で源員定として『保』に関するコメントを残していたのかもしれない。
丹後国には丹後街道があり、九里半街道と言われている近江国高島郡(朽木氏の高島)今津より若狭国小浜までの街道と繋がっているのである。
丹後国守護としては、当然、物流・商業とかかわりがあったであろうと思われる。
このあたりから『保』と関わりができ、員定・員秀・隆員と繋がっていくのかもしれない。
しかも、員秀は【忠富王記】の中にもあったように、賀茂社の舟木庄の代官である。
いくつもの顔を持っている【九里】である。