九里 【九里】を探して三千里

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九里龍作と大江氏系図

2018-05-04 | 大江氏


この本によると「惟宗姓五代系図と大江氏系図写九里龍作系図」とある。
大江氏が土台になって、そこから派生した「九里氏」の系図を作ったのではないだろうか。

ここに真実があるとすれば「九里の祖」は 中原氏=大江氏の中から生まれたことになる。
そして、龍作氏の叔父であった「九里」が、「九里の祖」の続きである、ということになる。
九里庄二郎、庄三郎は「近江国」から紀州に移り住んだ人たちであったことになる。

そしてもう一つ、大江家に関してのブログを見つけたのでここにご紹介したいと思う。

http://koremori.net/%e5%a4%a7%e6%b1%9f%e5%ae%b6/

これによると、「平頼盛の孫に保教(保盛の子)がおり、承久の乱に参戦し討死している。
この事から保盛の兄の保業が京を追われて船で串本の潮崎の庄(今の潮岬)に上陸した。
そして、その地名をとって潮崎姓とした。この保業の船に大江親広もちゃっかり同乗してきたのではあるまいか。
そうだとすれば、大江家分家の潮崎辰雄氏のいう「潮崎の庄へ上陸したので潮崎姓にした」という証言とも話しは合ってくる。
ひょっとしたら大江家の先祖はその先祖を割り出す手がかりとして、分家に潮崎姓をつけさせたとも解釈できる。」とある。


その頼盛は池家では? wikipediaによると、
頼盛の息子平保業は承久3年(1221年)、池大納言家領のうちの播磨国在田庄預所職に補任される(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2813号)とともに、関東祗候を要請され(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2814号)、以後御家人として鎌倉時代末期に至るまで代々の将軍家に仕えた。また頼朝の推挙により朝廷より河内守に任じられた。
池家は、その後は「保業 - 光度 - 為度 - 維度 - 宗度 - 顕盛」と室町時代まで継承されたが、
在田庄ほか丹後国倉橋庄与保呂などの池家の所領は顕盛養子の朽木経氏に伝領された。
(朽木文書・『鎌倉遺文』30280・31207・31245号、『寛政重修諸家譜』)。

なお頼盛に返還された池大納言家領のうち息子光盛に伝領されたものは、娘たちを通して外戚の久我家へ継承された。薩摩国の有川氏はその後裔と自称した。

~~~*~~~

この潮崎氏のあたりは、以前も調べていたが、中途半端だったので、今度こそ!
それに赤字にした「久我家」こそ、大江親広の養父「源 通親(みなもと の みちちか)」の苗字ではないのか?
「頼盛の息光盛の娘たちを通して外戚の‥‥」の意味を調べてみた。

http://chibasi.net/iseheisi4.htm


「子孫の平頼盛の所領はのちに池大納言家領として頼盛の子へ伝領された。そのうち、嫡男・従二位平光盛に伝領された分は、「まんさい御前」を通じて久我家領となる…

では、この「まんさい御前」とは?
確実ではないが、源(久我)通忠室ではないか…ということである。平光盛娘ということである。



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