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畠山重忠と梶原景秀(季)は、ちゃんとレッスンを受けて、伝授されていたのだ!
突然担当になってよくできるなぁ~と感心していたのだが、正当な教えをいただいた後に鶴岡八幡宮で奏したのであった。
其の重忠の右に 大江久家(江次久家)の名がみえる。
父の久兼は大江とも中原とも名乗っていたようで、どちらの名でも検索に引っかかる。
さらに紀久兼も、紀久経も存在している。こちらは年代がわからないことからも別人の可能性も大きいカ?
さて、加佐郡河守荘はその後どのようになっていたのか。
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尼きやうくわんは貞泰の室であったと、砺波市史 資料編 1にある。
1321年のこととなり、沙弥蓮忍の文書から82年もあとのことである。
大江氏が事情があり手放したか、もしくは婚姻関係により渡ったか。
平賀氏を調べてみると、平賀義信の息が大内惟義となる。
コトバンクによると以下のようになる。
「生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。源義光の曾孫で平賀義信の子。一の谷の戦(1184)では源義経に従って戦い,その直後に伊賀国守護に任じられた。大内の呼称は同国大内庄(上野市)に由来するが,惟義がこのときに同庄に本拠をおいたのか,あるいは以前からなのか,定かではない。伊勢,伊賀両国の鎮圧に功があり,文治1(1185)年には相模守に任じられた。源頼朝の死後は在京することが多かったようで,後藤基清らの逮捕,梶原景時の残党の追捕などを行っている。また後鳥羽上皇にも仕えるようになった。源氏一門が次々と排除されていくなかでよくその地位を保ち,数カ国の守護を兼任,駿河守,修理権大夫などに任じた。承久1(1219)年ごろに死去したと思われる。
(本郷和人)」
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大内惟義の妻は藤原秀宗の妹となっており、此処で、源光基(土岐氏)とつながる。光基の娘は藤原秀宗の室となっているのだ。
更に平賀氏と日蓮宗は深く繋がっており、過去帳が残っている本土寺は平賀氏の屋敷であったそうだ。
また、平賀氏から【日朗】
(父:平賀二郎有国。母:印東治郎左衛門尉祐昭娘 )
という弟子が育っており、富木常忍が病に陥った際には付き添って一週間も看病してくれたそうだ。ありがたい。
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此の河守荘と関係のある平賀貞泰の先祖が平賀義信・朝雅か?
武家家伝平賀氏に詳しい系図があり、それによると義信・朝雅とは別の系のようである。残念…