九里 【九里】を探して三千里

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紀氏と木村氏 (以前の記事再掲)+ 情報

2017-11-30 | 佐々木氏

先ほど見たNHKの「日本人のお名前」と重なる部分もあろうかと思うので、載せておこうと思う。

まずは、今年の5月の記事を。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%B4%80%E6%88%90%E9%AB%98

『雍州府志』という山城国のことを書いた本で、その中の「八幡宮」に関しての記事から載せてみようと思う。

【八幡宮】 男山石清水の地にあり。男山、あるいは雄徳山と称し、また鳩の嶺と号す。欽明天皇三十一年冬、肥後國菱形の地辺、民家の児、三歳の時、神託して曰く、我はこみれ人皇十六代誉田八幡麻呂なりと。ここにおいて勅使を差し、豊前國宇佐の宮に鎮座す。しかうして八幡と称す。一説に、昔、白幡四つ、赤幡四つ、天より筑前國那珂郡筥崎に降る。すなはち、その処に松を植えて、標とす。その跡、今に至りて存す。これによりて、八幡の号を得といふ。伝えいふ、貞観元年秋七月、八幡太神、鳩の峯に移る。はじめ、釈行教、南都大安寺に居す。この僧、俗種、武内大臣の裔なり。かつて貞観元年宇佐の神祠に詣し、一夏九旬、昼は大乗経を説き、夜は密咒を誦す。一夕、夢中に太神告げて曰く、久しく法施を受く、師に離れんことを欲せず、師王城に帰らば、我もまた随ひ行き、王城の側に居て、まさに皇祚を護るべし。教、やうやく山城州山崎に到る。その夜、また、夢中、太神告げて曰く、師、我が居る所を見よと。覚めてこれを見れば、東南男山鳩の峯の上、大光を現ず。教、晨を凌ぎて、光を発するの地に到る。実に霊区なり。教、すなはち二事を録し、表をもってこれを奏す。帝、すなはち木工寮権允橘良基に詔したまひ、宇佐の祠規に准じて、六宇の新殿を造らしむ。すなはち正殿三宇・外殿三宇、合せて六宇なり。正殿三座、中は八幡宮、すなはち応神天皇なり.東は気長足姫尊、すなはち神功皇后なり。西は比口羊(ひめ)大神、すなはち玉依姫なり。その社規、魏々然たり。嵯峨院、源姓を諸皇子に賜ふ。すなはち八幡宮をもって氏神としたまふ。この社をもって、本朝第二の宗廟とす。山下第一の鳥居、八幡宮の額は、藤佐理卿の筆跡なり。山上狩尾神社は、これ当山地主神にして山腹の護國寺薬師は、八幡勧請以前より当山にあるところなり。行教の弟、僧正益信、護國寺の検校たり。同じく俗姪、安宗、別當たり。はじめ宇佐より従ひ来る紀氏ならびに大神氏たがひに神職を勤む古へ八社家あり。善法寺・田中・新善法寺・壇・園・西竹・東竹等、これなり。検校・別當の両職は、すなはち勅任なり。この中、多くはこれ紀氏にして、武内の裔なり。大神氏は絶ゆ。今、伶人山井・近江等、その余流なり。八社家のうち、田中は、もと、護國寺の別當たり。しかれども、今においては、別にを置きて護國寺を守らしめ、みづから八幡宮の社家となり、禁闕の祈祷を勧む。善法寺・新善法寺は、公方家の祈祷を修す。善法寺・田中・新善法寺、八幡においては三門主と称す。各々裘代を著す。行願寺の行円等もまた、これを著す。故に、世に、革堂上人と称す。しかれども、神社においては革を忌む。故に、裘代と称す。その衣色、濃紫にして、黒を帯ぶ。僧正著すところの緋衣と大きに同じくして、小しき異なり。これによりて、謬り伝へて、三門主僧正にあらずして緋衣を著すといふ。毎年二月・十一月初の卯の日、神楽あり。禁裏の御神楽に准じて、伶人山井・多・豊(ぶん)・安陪等、これを勤む。同じく八月十五日、放生会あり。伝えへいふ、神功皇后三韓を征する時、多くの人命を断つ。故に、魚鳥を放つ。追薦の徴意に比して、当山においてこれを修するものなりと。この法会、社僧、最勝王経を講ず。この経の中、放生の事あり。故にこれを修すといふ。元正天皇養老四年、はじめて執行したまふ。その後、久しく絶ゆ。社家の内、田中、特にこれを嘆き、東武に請ふ。延宝七年、放生会の料、禄若干を下賜、再び廃礼を興す。毎年、上卿・参議・弁・六府ならびに諸役人等、参向してこれを勤む。その余の神事、枚挙に遑あらず。神領、今において六千七百石余あり。社家の説に、この地、もと久世郡にして、八幡社のある所は、久世郡科手郷に属す。およそ、男山の麓、河原村より以南、綴喜郡なり。旧記の載するところ、各々然り。近世、誤りて綴喜郡とするものか。

【若宮】 同処、本社の艮隅にあり。応神天皇の皇子にして、大鷦鷯尊を祭るところなり。すなはち、仁徳天皇これなり。
【若宮殿(にゃくうどの)】 若宮の右にあり。これ、応神天皇の姫宮なり。
【水若宮】 若宮の左にあり。これもまた、応神天皇の季子、菟道稚郎子(うぢわかいらつこ)にして、宇治皇子と号する、これなり。
【住吉社】 本社の北ににあり。
【武内社】 本社内殿西北の隅にあり。これ、武内大臣を祭るところにして、上高良明神と号する、これなり。
【高良社】 八幡山下にあり。筑前国高良山よりこの処に移る。西の一座は住吉を祭る、東の一座は武内を祭るものなり。これを下高良明神と称す。武内大臣、千珠・満珠両顆をもって海に投ず。故に、あるいは玉垂命と号す。およそ、この社、船の形を表して、これを建つるものなり。
【狩尾社】 八幡山の西にあり。これ、国常立尊・大己貴尊・天児屋根命の三座を祭るところなり。男山地主神にして、八幡太神遷座以前の勧請するところなり。このほか護國寺ならびに宝塔院、合せて三所、共に同じく然り。

【神宮寺】 八幡山石清水の麓にあり。真言宗にして、八幡宮の供僧たり。光仁帝の時、はじめて八幡比売神宮寺を造ると。けだし、この寺か。
【薬師寺】 八幡の山腹にあり。本尊薬師は、すなはち、当山の地主なり。大江匡房卿゜、疾病を祈る。平復の後、脇侍十二神将を造り、本尊の左右に置く。匡房卿の願文、この寺火災に罹る時、鳥有となる。惜しき哉。古へ、田中、この寺の別当たり。今、真言宗の僧をして、交々これを守らしむ。
【足立寺】 男山の西にあり。樟葉村の南より山に登るの路なり。和気清麻呂、道鏡が怒りに触れて、脚の筋を断ち、紫陽に放たる。宇佐八幡の加護によりて、両脚たちまち癒えて、歩行、故の如し。ここにおいて、足立寺を創す。八幡宮還幸の日、この寺もまた、この山に建。今、寺は絶えて、山の名となる。



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