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天田郡(あまた・ぐん) 金山と河守郷の位置関係 と 寛元四年1246年 大中臣久兼

2024-02-27 | 九里【只今の状況・まとめ】


天田郡の河守郷と赤枠の金山郷(佐々木荘下山保?)

大中臣 金山氏(武家家伝より)


中郡氏は貞永年中(1232ごろ)に、それぞれ大きな打撃を蒙ったようだ。おそらく、幕府内部の抗争による結果と思われるが、その詳細は不明である。そして、那珂氏は那珂西郡のほか若干の所領を残して他は没収され、中郡氏は本領中郡荘を失った。

『大中臣系図』は、逆境に立たされた中郡・那珂両氏の人々が、一門の結束の強化をはかるために、栄光ある祖先の功業を後世に伝えようと企図した。そして、鎌倉時代後期の延慶二年(1309)に、種々の史料に基づいて作成したものと思われる。 

以上が気にかかり、大中臣姓で久兼を調べてみた。
東京大学の史料編纂所のDBに一件のみ、あった。

1246年のことである。


1239年の河守荘の寄進の文書
そして、


那珂実久


実久は頼朝側近の有力な御家人として、元治元年(1199年)には丹波・摂津・山城の守護を兼ね、京都守護職の地位にあった。
1207年頃には執権北条氏との対立から那珂東郡・那珂西郡の惣地頭職と京都守護職などを失った。しかし那珂郡内の地頭職は那珂氏が掌握しており、那珂東郡の惣地頭職こそ北条氏の手に渡るものの、那珂西郡の惣地頭職は回復した。

時連の息経政は養子である。
経政が、経任だったのだろうか。

と調べているうちに、大きな私的発見があった。(つづく)

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