東京大学史料編纂所DBより
…とある。
この横山荘を今度は、歴博DBで調べてみると。
1 近江 蒲生 横山
2 近江 坂田 春近
3 近江 伊香 伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷
4 近江 伊香 中庄 椙野郷
5 近江 伊香 富永庄 雨森郷・落川郷・高野郷・高月郷・唐川郷・野村郷
横山荘は蒲生郡だが、他に横山という地名がある場所を見ると、中原景経・経任の居住していたりで、領主を務めていた『伊香』に三か所となっている。
これは、詳しく見ていく必要があると思う。
蒲生郡横山荘を見ると、
【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 横山
【フリガナ】 ヨコヤマ
【参考市町村】 蒲生郡蒲生町
【明治村字名】 横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1
【遺文番号】 カ27012
【記録類】 『東鑑』元暦元,12,1(横山)
【地名辞典】 荘園志料=東鑑に文治1頼朝、園城寺千僧供領とす・角川地名=庄号なし→横山郷=現蒲生町横山付近と同一とする
【備考】 東鑑にも庄号なし・三井寺と日吉社(延暦寺)の対立関係よりして、横山と横山郷は同一物でないかもしれない
見解が分かれている。1184年当時の三井寺と日吉社の対立関係がどのようなものであったのか…はわからないが、ともかく頼朝が直接に下した文書に「園城寺千僧供領」とすることが残されている。
それでは、近江国に於いて、どのような荘園が千僧供領になっていたのであろうか。
1 近江 高島 木津庄
2 近江 蒲生 佐佐木庄
3 近江 蒲生 馬淵庄 北方
4 近江 蒲生 横山
5 近江 神崎 栗見庄 品田・本庄
6 近江 坂田 富永庄
一つ一つ見ていくと、
1.木津庄
【領家・本家】 鳥羽院領・皇室領・延暦寺領(千僧供料所)・山門領
【初見年和暦】 保延四年
【初見年西暦】 1138
【出典】 延暦寺文書・華頂要略・伺事記録・天台座主記・井口日吉神社文書・蒲生郡誌・饗場文書・朽木文書・日吉社室町殿御社参記・牒状類聚
2.佐佐木庄
【領家・本家】 延暦寺領(千僧供料所)・山門領・源有仁領
【初見年和暦】 永治二年
【初見年西暦】 1142
【出典】 愚昧記裏文書・玉葉・東鑑・天台座主記・常楽寺文書・水原小三郎所蔵文書・華頂要略・牒状類集・平家物語巻9・源平盛衰記巻30
3、馬淵庄 北方
【領家・本家】 道覚法親王領
【初見年和暦】 承久三年
【初見年西暦】 1221
【出典】 華頂要略・河野氏文書(永享12,8,9)・蒲生郡志・黒川文書・黄薇古簡集
4.横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1
5.栗見庄
【領家・本家】 延暦寺千僧供料所・妙法院門跡領・山門領
【初見年和暦】 保元元年?
【初見年西暦】 1156
【出典】 陽明文庫所蔵兵範記裏文書・源平盛衰記・室町家内書案・康正段銭引付・丹波系図・華頂要略・大鳥、奥津島文書・日吉社室町殿御社参記・井口日吉神社文書
6、富永庄
【領家・本家】 筑摩社領・大成就院領・金剛勝院領・青蓮院門跡領・山門領
【初見年和暦】 寿永二年
【初見年西暦】 1183
【出典】 華頂要略・都久麻社文書・天台座主記・島記録・牒状類聚・康正段銭引付
金剛勝院領→寿永2延暦寺千僧供料所=天福2山門大成就院領=建武1尊氏、筑摩社領に →2109046「富永保」参照・カ31483元徳3延暦寺衆徒申状=或は伊香郡富永庄か康正段銭引付=富永庄江州山門領(段銭)・伊香郡にも富永庄あり
千僧供領と近江国の関係ありそうな情報としては、
近江国守護・佐々木氏の地盤である佐々木荘は、同国内で強大な勢力を誇る延暦寺の千僧供荘だった。
佐々木氏は延暦寺に千僧供料を貢納する義務を負っていたが、建久2年は前年の水害による不作で未進が生じており、3月下旬に延暦寺の傘下にある日吉社の宮仕数十人が、未進催促のため神鏡を奉じて荘園に押し寄せた。 定綱は在京して不在だったが、宮仕は定綱邸に乱入して家中の男女に暴行を加え放火に及んだ。
~~~*~~~
『延暦寺の傘下にある日吉社』とある。
もう一つ、井口氏
『井口氏は延暦寺千僧供領であった近江国富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。』と武家家伝のwebにある。
富永庄のほかに木津庄・栗見庄とも井口日吉神社文書に記載があることからも、井口氏と何等か関係があるとみえる。
・・・井口の祖は中原である。中原景経と経任の兄弟の景経の系が井口である。経任の方が九里である。
そして、井口氏は湖北のみならず、湖西にも井ノ口と名が残っていることから見ても、時期は異なるかもしれないが、両方に領地があったのではないだろうか。
越中、朽木、田中、能登、横山、永田、山崎、平井、皆そのような(湖東と湖西に領地がある)可能性があるのかもしれないが、この田中・横山・山崎・永田・井口などは、私から見ると、同時期ではないかも知れないが、湖東にも、湖西にも勢力を及ぼしていた場所があったのではないだろうか、と思われるのである。
そして、清水山城城下の集落には、またしても【安養寺】という名前も出てくるのである。蒲生郡の鏡村の近くにも安養寺。湖北にも安養寺、そして湖西にも、である。
横山氏から離れてしまったが、ともかく鎌倉時代に『横山館跡』のあるあたりと思われるが、蒲生郡に横山荘があったのだと思う。
そして、湖西にも横山氏がいたのである。
湖西には小野氏もいて、武蔵国の横山党との関係は?など、私にとってはどれも難しすぎる問なのだが、まずは調べてみよう。
…とある。
この横山荘を今度は、歴博DBで調べてみると。
1 近江 蒲生 横山
2 近江 坂田 春近
3 近江 伊香 伊香庄 黒田郷・古橋郷・石作郷・田井郷・椙野郷
4 近江 伊香 中庄 椙野郷
5 近江 伊香 富永庄 雨森郷・落川郷・高野郷・高月郷・唐川郷・野村郷
横山荘は蒲生郡だが、他に横山という地名がある場所を見ると、中原景経・経任の居住していたりで、領主を務めていた『伊香』に三か所となっている。
これは、詳しく見ていく必要があると思う。
蒲生郡横山荘を見ると、
【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 横山
【フリガナ】 ヨコヤマ
【参考市町村】 蒲生郡蒲生町
【明治村字名】 横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1
【遺文番号】 カ27012
【記録類】 『東鑑』元暦元,12,1(横山)
【地名辞典】 荘園志料=東鑑に文治1頼朝、園城寺千僧供領とす・角川地名=庄号なし→横山郷=現蒲生町横山付近と同一とする
【備考】 東鑑にも庄号なし・三井寺と日吉社(延暦寺)の対立関係よりして、横山と横山郷は同一物でないかもしれない
見解が分かれている。1184年当時の三井寺と日吉社の対立関係がどのようなものであったのか…はわからないが、ともかく頼朝が直接に下した文書に「園城寺千僧供領」とすることが残されている。
それでは、近江国に於いて、どのような荘園が千僧供領になっていたのであろうか。
1 近江 高島 木津庄
2 近江 蒲生 佐佐木庄
3 近江 蒲生 馬淵庄 北方
4 近江 蒲生 横山
5 近江 神崎 栗見庄 品田・本庄
6 近江 坂田 富永庄
一つ一つ見ていくと、
1.木津庄
【領家・本家】 鳥羽院領・皇室領・延暦寺領(千僧供料所)・山門領
【初見年和暦】 保延四年
【初見年西暦】 1138
【出典】 延暦寺文書・華頂要略・伺事記録・天台座主記・井口日吉神社文書・蒲生郡誌・饗場文書・朽木文書・日吉社室町殿御社参記・牒状類聚
2.佐佐木庄
【領家・本家】 延暦寺領(千僧供料所)・山門領・源有仁領
【初見年和暦】 永治二年
【初見年西暦】 1142
【出典】 愚昧記裏文書・玉葉・東鑑・天台座主記・常楽寺文書・水原小三郎所蔵文書・華頂要略・牒状類集・平家物語巻9・源平盛衰記巻30
3、馬淵庄 北方
【領家・本家】 道覚法親王領
【初見年和暦】 承久三年
【初見年西暦】 1221
【出典】 華頂要略・河野氏文書(永享12,8,9)・蒲生郡志・黒川文書・黄薇古簡集
4.横山
【領家・本家】 園城寺領(千僧供領)・日吉社領・山門領
【初見年和暦】 元暦元年
【初見年西暦】 1184
【出典】 寺門高僧記・日吉社領注進記(元応元)・古簡雑纂1
5.栗見庄
【領家・本家】 延暦寺千僧供料所・妙法院門跡領・山門領
【初見年和暦】 保元元年?
【初見年西暦】 1156
【出典】 陽明文庫所蔵兵範記裏文書・源平盛衰記・室町家内書案・康正段銭引付・丹波系図・華頂要略・大鳥、奥津島文書・日吉社室町殿御社参記・井口日吉神社文書
6、富永庄
【領家・本家】 筑摩社領・大成就院領・金剛勝院領・青蓮院門跡領・山門領
【初見年和暦】 寿永二年
【初見年西暦】 1183
【出典】 華頂要略・都久麻社文書・天台座主記・島記録・牒状類聚・康正段銭引付
金剛勝院領→寿永2延暦寺千僧供料所=天福2山門大成就院領=建武1尊氏、筑摩社領に →2109046「富永保」参照・カ31483元徳3延暦寺衆徒申状=或は伊香郡富永庄か康正段銭引付=富永庄江州山門領(段銭)・伊香郡にも富永庄あり
千僧供領と近江国の関係ありそうな情報としては、
近江国守護・佐々木氏の地盤である佐々木荘は、同国内で強大な勢力を誇る延暦寺の千僧供荘だった。
佐々木氏は延暦寺に千僧供料を貢納する義務を負っていたが、建久2年は前年の水害による不作で未進が生じており、3月下旬に延暦寺の傘下にある日吉社の宮仕数十人が、未進催促のため神鏡を奉じて荘園に押し寄せた。 定綱は在京して不在だったが、宮仕は定綱邸に乱入して家中の男女に暴行を加え放火に及んだ。
~~~*~~~
『延暦寺の傘下にある日吉社』とある。
もう一つ、井口氏
『井口氏は延暦寺千僧供領であった近江国富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。』と武家家伝のwebにある。
富永庄のほかに木津庄・栗見庄とも井口日吉神社文書に記載があることからも、井口氏と何等か関係があるとみえる。
・・・井口の祖は中原である。中原景経と経任の兄弟の景経の系が井口である。経任の方が九里である。
そして、井口氏は湖北のみならず、湖西にも井ノ口と名が残っていることから見ても、時期は異なるかもしれないが、両方に領地があったのではないだろうか。
越中、朽木、田中、能登、横山、永田、山崎、平井、皆そのような(湖東と湖西に領地がある)可能性があるのかもしれないが、この田中・横山・山崎・永田・井口などは、私から見ると、同時期ではないかも知れないが、湖東にも、湖西にも勢力を及ぼしていた場所があったのではないだろうか、と思われるのである。
そして、清水山城城下の集落には、またしても【安養寺】という名前も出てくるのである。蒲生郡の鏡村の近くにも安養寺。湖北にも安養寺、そして湖西にも、である。
横山氏から離れてしまったが、ともかく鎌倉時代に『横山館跡』のあるあたりと思われるが、蒲生郡に横山荘があったのだと思う。
そして、湖西にも横山氏がいたのである。
湖西には小野氏もいて、武蔵国の横山党との関係は?など、私にとってはどれも難しすぎる問なのだが、まずは調べてみよう。