九里 【九里】を探して三千里

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足利義晴と武田元光

2017-03-23 | 九里バラバラ情報
前回の続きだが、

中原広忠~広季の系が、近衛氏の領地であった三池庄・三池山門庄の「三池氏」につながっている事だ。
この関係は前から気にはなっていたが、近衛領とは知らずに、中原系図で近い感じがしていたので、見ていただけだった。

堺に下向~の申し付け…とは、この三池庄のことだったのではないだろうか。
堺から筑後への船があり、そこに伝達するために行ったのではないだろうか。(下記に出てくる「堺」は「堺公方」のことかもしれないが…)
三池氏につながる中原氏と関係のある「九里源兵衛」がそのことに適した人物であったとすると、
やはりこの中原広忠の系に近いところに九里がいたのではないだろうか。

三池氏に関しては後日述べたいと思う。

~~~*~~~

足利義晴の事(武田元光につながる)

近江幕府(桑実寺など)

大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通や柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。

享禄元年(1528年)には朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。しかし享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。

戦後、今度は晴元と元長が対立、天文元年(1532年)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。

天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。


足利氏の軍事力として若狭武田は活躍していて、その武田元光の孫(=六角定頼の孫でもある。)が義統になる。

前々回の記事につながってくる。

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