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1169年の久利文書 鎌倉時代が抜けていて 1336年久利家文書が再び出てくる。(1)

2021-11-27 | 九里バラバラ情報

久利文書のwebで見ることのできる一覧を見ていると、

1169年以降が見えてこず、次に「久利家文書」として1336年に久利郷一分地頭赤波…と小笠原の名、そして守護代高津と出てくる。

1336年建武三年以降には「清原氏」の影は薄くなり、「小笠原氏」「吉見氏」「土屋氏」の名前が見えてくる。

1336年に出てくる「清原公房」は「久利赤波二郎三郎公房」とも書かれており、同一人物と思われる。

その後「久利赤波殿」という記載のある文書もあるため、この時代は久利赤波と呼ばれていたし、認識されていたのかもしれない。

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吉川元春・広家からの書状も何通かある。これは久利が、吉川経安として石見吉川氏に養子として入っているためと思われる。

吉川経安・吉川経家…

吉川経家の3男の家好(いえよし)は後に鳥取藩藩主池田家の家臣となり、また家好の子孫に五代目三遊亭圓楽(本名:吉河寛海)がいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%B5%8C%E5%AE%B6

久利の血が入っていたんだ圓楽さん。驚きデス。亡くなった叔父が喜びそうな情報!

この吉川に入った久利氏は清原氏でもあり、清原氏と吉川・工藤(藤原南家)が繋がっていたこととなる。

 

===*===

 

では、平安時代の久利を見てみると、はじめに「清原頼行」と出てくる。

1063年 清原

1084年 清原則、清原正、清原近、入道学源

1126年 清原長

1169年 清原行

 

結果的には「房」の系が南北朝以降の久利氏につながっていくようである。

1308年 久利七郎祐房 息四郎経房(市原地頭職)が分割譲渡、さらに四郎次郎為房に相伝。庶子師房

1353年 久利赤波重房

1336年 久利赤波公房

1336年 久利赤波友房

1366年 久利長阿

 

この後、戦国時代には「盛」という通字になるのか?(これから調べていく)

 

次回は平安時代の石見国周辺、を、と思う。

こちらも、藤原氏(北家勧修院流・南家)・源頼光の孫頼国、そして源頼信とつながる部分がある。そうなると、藤原黒麻呂の系と繋がってくるので、やはり南家巨勢麻呂の系!

 

 


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