九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

四条家隆は【四条家】だったのだろうか? 藤原隆房の間違えではないのか?

2024-01-14 | 千葉氏



ここにも書かれてはいるのだが、調べていてちょっと違和感を感じ始め【四条家】を調べてみると、藤原家隆は四条天皇には仕えていたのだが…
(詳しくは知らない私が言うのもなんだが、、)家隆は四条家ではないのでは?

*****

webの新しい市史がデジタルがあったので、見ると…

四条隆房になっている!!!

四条隆房という名前がわかったので、その名で検索してみると、もっと詳しく出てきた。



文治二年 1186年である。
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千葉氏の中の【橘氏】 橘荘 橘川

2024-01-12 | 片岡氏


四条家隆生涯に詠んだ歌 六万首

↓ 片岡常春は舟木荘と横根荘も所帯であったとある。
↓ 海上郡橘荘および木内荘がある。両荘共に、その地主・荘司は千葉氏の一族であったらしい。


佐竹義政の娘を妻とした片岡常春。
海上常幹の息とすると、以前調べた長山局、聖光尼、播磨局了阿につながる系である。

鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 市村高男 著の論文より
4枚目の系図に注目したい。

吉田清幹の裔である景幹に嫁いだ長山局(蓮妙)
その二人の娘であった聖光尼(千葉尼)千葉成胤の妻となる。
千葉成胤と聖光尼の娘が播磨局了阿となる。(結城朝光妻)

吉田清幹の兄弟である致幹の嫡子・直幹は房総平氏の千葉介常胤の娘と結婚して、多気義幹、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹を儲けている。 

この辺りと片岡常春、そして富城蓮忍・富木常忍と結ぶ糸があるのではないかと思う。



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東胤頼 と 千葉成胤 は同じ1155年うまれ! そして下総国海上郡三崎荘、藤原定家

2024-01-11 | 千葉氏

片岡常春の所領であった「三崎荘」と、おなじく下総国海上郡にあった東荘(橘庄)を調べているうちに、東胤頼と富木常忍の祖父にあたる千葉成胤がともに1155年生まれであることがわかった。叔父と甥の関係であるが同じ年である。
つまり、胤頼の娘も、成胤の娘も同世代であり、共に土岐氏に嫁いだ可能性もあったという事になる。

*****自分の間違いが、また見つかってしまった*****
此処に書きとどめておこうと思う。
海上荘が三崎荘で、
東荘がもと橘荘であり、
私は勘違いしていたようである。スミマセン。

つまり中原経任の橘次の【橘】は東荘のもう一つの名であった【橘荘】からであったかもしれないことになる。千葉氏も橘氏を称し…と読んだことがある。

ヤレヤレ😥

東胤頼は上西門院に仕えていた時代があった。
統子内親王のことで後白河天皇の同母姉である。
コトバンクには「源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹を妻とし,頼朝自身も上西門院に仕えてその蔵人となり,右兵衛権佐となるなど,義朝・頼朝父子の立身にはこの女院の存在が大きかった。」とある。

東荘を調べてみる。三崎荘の隣…


須賀山城

桜井城





さて、三崎荘が後に九条家の家司であった藤原定家が所職を得ているのだそうだ。(1199年)
しかし遠隔の地であり経営困難という事で返却(1202年)され、千葉氏(東氏)の所領となったという経緯があったようである。
因みに東胤頼の和歌の師匠が定家である。

「玉寄する三崎」考 鴨長明集 左注歌をめぐって 兼築信行 著 より

この三崎荘は海上荘ともよばれる。

とすると、wikipediaによると上記の定家の返却時期が違うが、以下のように書かれている。

治承4年(1180年)5月11日の皇嘉門院惣処分状に九条家領と見え、皇嘉門院から猶子九条兼実の長男良通に伝領されている。
文治2年(1186年)の関東知行国乃貢未済荘々注文(『吾妻鏡』文治2年3月12日条)には殿下御領(近衛家領)と見えるが、
建長2年(1250年)11月の九条道家惣処分状、建長8年(1256年)8月25日付九条家重書目録などに当荘が見え、元久元年(1204年)4月23日付宜穐門院宛の九条兼実置文には藤原忠通の時に最勝金剛院に寄付された院領の1つと見える。また、この間の正治元年(1199年)には、藤原定家が預所職とみられる下級所職を与えられ、正治2年(1200年)に当所職を辞退・返還したことが明月記に見える。
在地領主は平安時代末期には片岡氏であったが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月28日条によれば、片岡常春は舅の佐竹義政に同心して源頼朝に謀反を企てたかどで当荘を収公され、代わって千葉常胤に与えられ、その後は千葉氏一族が領有した。建保6年(1218年)11月、東胤頼の孫胤行は当荘に下向したまま鎌倉に帰参せず、源実朝は和歌を詠じて参上を催促したという(『吾妻鏡』建保6年11月27日条)。その後当荘を領したのは胤行の弟胤方の系統で海上氏を称した。

この辺りが、どうも中原富木蓮忍(九里太郎)・富木常忍を考えるに関係がありそう、と思う。

web上には、以下のようにもあった。

文治元(1185)年10月、常胤から海上郡三崎庄五十五郷が譲られて、椿海(旭市)に面した桜井(旭市桜井)に館を構えたと伝えられている(『千葉大系図』)。 下総国東庄を与えられて東六郎大夫を称す。 


(略)胤頼には東荘33郷(今の東庄町とその近隣)が与えられ東氏を名乗りました…ともある。

つまり、東胤頼は、海上郡の三崎荘と東荘ともに譲られていたのだ。
八十八ごうもあったのなら、何処か中原経任が任されていた郷があった可能性もあるか?とも思う。

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奥州の金売橘次 と 源光重(波多野御曹司・深栖三郎)

2024-01-08 | 片岡氏

「奥州の」多賀?の金売橘次という事で、違う人物かもしれないが、一応中原経任(片岡為春)と仮定しよう。
此の人、金売を装って諜報活動をしていたのではないだろうか。
九里家は「調法の家」でもあったようだ。

またいろいろと調べていくうちに何かわかるかもしれない。

さて「波多野御曹司」だという光重とその息の頼重。
頼重が片岡常春の居城であった佐貫城へ案内するわけなのだが、
なぜ此の片岡常春の佐貫城を目指したのだろう。

光重は波多野御曹司という事なので、周囲に波多野氏と清和源氏(摂津・美濃源氏)と通じていた者がいたという理由から義経をつれてきたのだ…と思う。

光重の関係の系図は様々あるが、どれが本当であるのかは私には分からない。が、今回は ↓ を考えてみる。

「光重は実は源光信(土岐氏・出羽判官)の息であり、源頼政の義理の弟でもある。」とすると、ストーリーが浮かび上がってくるではないか! (伊賀氏となった者も近かったのではないだろうか?)

源義朝の息朝長の母でもある中原久経の母は、藤原秀郷流の波多野義通の妹である。

経久の父となる橘次経任は、片岡常春の弟になることで橘荘(三崎荘)の橘を称したのではないだろうか。


下記の系図
(此の光衡の横にいる光行は、光定の父ではなく、別人である。)
光信の息に光基と光重がいて、光基の息に光衡となる。
光衡の息に土岐光行(妻・千葉成胤の娘)となる。
光行の息に土岐光定がいる。(東氏より妻を迎えているが、胤頼では年代が合わないような気がしている。)








上記には【伊賀守光基(出羽判官光信の子)出羽蔵人光重】とある。(源頼政が生きている時代)

そして、その後…義経が登場し、
源光重は下総国相馬(の深栖)にいた。

その場所は、意外と三崎荘・佐貫城に近い!?
野田市の下にあるのが下総国相馬
野田市の上にあるのが下河辺荘(源頼政?八条院の所領)で、下河辺氏が荘司であったと記憶している。つまり、秀郷流の小山氏の裔である。

そして銚子の上に東荘とあるあたりが三崎荘で、佐貫城も近いと思う。




次に佐貫城があった付近。刑部岬




相当な「こじつけ」かも知れないのだが、片岡常春の居城に寄る意味があったのだと思う。(義経は、深栖に一年逗留しいていたという説もある)

片岡為春の息経久は1175年生まれ。

1174年に15歳であった義経が自らの手で元服を終え奥州へ向かっている頃、経久はまだ生まれていない。

常春は1174年には22歳。(1152年生)
為春は1174年には21歳 (1153年生)

片岡弘経の名も見えることから、こちらは中原久経(多分1147年付近生)の弟など、何かしら関係者かも知れない。(?)

義朝の右筆であった時代もあるという久経。
13歳で右筆はあり得るのだろうか?

もしそのように義朝の近くに居たとすれば、同世代の頼朝のことも知っていたであろうと思う。(其の縁で「鎌倉殿御使」 に選ばれたのかもしれない。)

さらに義経の赤子の頃も観た事があったかもしれない。

弘経を調べてみようと思う。




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間違いだったかもしれない? 大中臣=片岡常春の説は間違いか? (2)金売橘次の登場

2024-01-07 | 片岡氏
此の片岡氏の続きになんと、、、、金売橘次が出てくる。
橘次である。

経久の父「経任」は改め橘氏であり、橘荘(海上郡)の橘を称したのではないか?と思っているので、この金売橘次が怪しいのだ。
(中原)橘次経任である。

そこに続きがでてきた。
片岡常春の佐貫城に義経を連れてきて逗留したというのだ。本当か?






為春が実在し、その息に経久がいたという説が大和葛城郡の系図である。経春(常春)・為春一歳違いの兄弟という事である。



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間違いだったかもしれない? 大中臣=片岡常春の説 

2024-01-07 | 片岡氏
昨日から行方の片岡常春の周辺を調べているのだが、

片岡氏は源頼義の時代永承6年(1051年)片岡常憲‥‥と出てくる。
さらに承保三年(1076年)に海上郡佐貫城主片岡常明


この片岡、江州中原氏系図の中原経憲のことかもしれない?
なぜなら千葉氏の祖ともいえる「平常長」の母親が中原氏からであろうこと、そこに天女の伝説があり、近江国伊香郡余呉の伝説と似ていること。

1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣・・・という説も多賀氏の本にあった。

江州中原氏 成行の兄弟が経行(経憲)で九里に続く系である。(近江国御家人井口中原系図では経行)
 
大和北葛城郡史にあった系図は正しかったのかもしれない。
源頼義に追随している【為利】の記載がある。









もしかして、この片岡氏と伊香郡の片岡という地名と関係があるのかもしれない??

大中臣とのつながりが良く分からなくなってきた。

もう一件気になっている部分。

千葉胤正の息 成胤の母は上総介広常の娘
成胤の妻は千葉尼聖光 
千葉尼聖光の娘に播磨局了阿
播磨局了阿は結城朝光の妻

この中の千葉尼聖光の父が行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)であったこと。

行方景幹・鹿島政幹は常陸吉田氏の流れを継いでいる桓武平氏国香流大掾氏(鹿島氏) であるようだ。
その流れと関係しそうな【海上庄司常幹】の息に片岡常春が書かれていること。

佐貫城主でありながら、海上氏の息となるだろうか???

この辺り、もう少し資料を探してみたい。


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改訂房総叢書 第5輯の系図にみえる 千葉氏と土岐氏

2024-01-06 | 美濃源氏
私にとっては、新鮮な系図が出てきた。
1959年の出版なのでただ知らなかっただけなのだが、
これが年代的には合っているのではないだろうか?と思う。





胤綱には息がいなかったために弟であった時胤を養子とし、家を継いでいる。

其の胤綱の妹が土岐判官光行の妻となっている。
更に胤綱弟千葉次郎泰胤の娘を千葉介頼胤の妻としている。

土岐七郎左衛門尉という系図は、実は『光行』のことであったようだ。
私なりの考えだが、土岐氏のはじまりであった国房が『美濃七郎』を称していた。
其の「七郎」が引き継がれてたのかもしれない。

土岐光衡の時代、源頼朝に美濃国守護職を賜わり、鎌倉幕府とは近い関係であったのだが、承久の乱で上皇方についていたために、光行は『土岐浅野判官 出羽守』となっていた。

また今回の調べで源範頼の源国長の息国江がいて、三河目代となっていたことがわかった。源国長は中原祐安の同じ時代を生きた人物で、共に従五位下となっている。

更に土岐光信の息光長は、寿永の乱で木曽義仲に組しているそうである。











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千葉聖光尼の父親は行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)

2024-01-04 | 美濃源氏
千葉聖光尼の父親は…と調べると、行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)
行方景幹・鹿島政幹は常陸吉田氏の流れを継いでいる桓武平氏国香流大掾氏(鹿島氏) であるようだ。

この周辺に佐竹氏がいる。
佐竹昌義の母は吉田清幹の娘(常陸吉田氏・常陸平氏・大掾氏)であり、父は源義業(源義光の息)である。佐々木為俊の母が源義光の娘であり、その兄弟となる。

さて、竹昌義の息義政の娘が片岡常春の妻となっている。
片岡常春は海上庄司常幹の息と言われている。が、大中臣氏と関係があると思う。



親鸞の弟子に片岡信広がいる。僧名は「順信」という。
その片岡信広の父片岡信親は常陸国鹿島明神(現在の鹿島神宮)の大宮司であったようだが、順信=信親との説もある。?


つまり、鹿嶋神宮の宮司家に「片岡」がいた証拠となる。
しかも、此の片岡氏は「中臣鹿島連」というが、大中臣公利(片岡氏) と書かれた本を見つけた。此の大中臣公利から片岡に住したという。
「片岡を以って氏としていた。」とある。



中臣鹿島連と大中臣氏が交代に大宮司を務めていくという決まりがあったようなのだ。が…途中から勢力争いのようになっている。

鹿島神宮誌の中に大中臣の系図があり、此の片岡信親・信広は大中臣の系に入っている。




つまり片岡常春は此の大中臣の一族であった可能性がある。

さらに、行方との縁(海上庄司常幹)があったために「三崎荘(橘樹)」の所領を、そして佐竹氏の妻を娶る事となったのだろうと思う。母が大中臣氏であったのかもしれないとも思う。(海上常幹と妻が大中臣の息子が常春と仮定)

その三崎荘が源頼朝よりの所領没収の憂き目にあい、東氏(海上氏)に所領が渡ったのだろう。

大中臣と中原氏の関係は大中臣略系図の註に記載があった。
『東国での妬みがあり「藤原姓」を名乗らず「中原姓」にしている』との記載もあった。大中臣氏も始まりは藤原(中臣)鎌足なので藤原氏であった。

更に中原氏と多氏は養子縁組もあり、古くからの付き合いがあったのではないか。
其の多氏が鹿島神宮の初期の宮司であったようなのである。
(大和岩雄氏説)

*****

九里氏と絡めて考えようと思う。

富木常忍の母は千葉氏と考えられるそうだが、

常忍の父か叔父の経久は、大中臣(中原氏)の父を持ち片岡氏であり、たまたま富城の地頭となったために「冨城氏」を称し、一緒に連れ立っていた常忍もそのように称した。(養子となっていたのか。)

片岡常春は経久の叔父か、親戚で、弟或いは義弟である片岡為春の養子が経久なのではないか?(ここはまだあやふやであるが。)


佐々木高信の配下にいた孫中原秀重は唐崎合戦で討死している。
では、なぜ近江国にいたのか、ここに千葉氏との関係が絡んでくるのだろうと思う。

中原経久の実父経任は橘樹庄(三崎荘)の地頭か何かで橘を称し橘次と名乗っていたのかもしれない。

其の経任の兄弟か義兄弟に中原久経がいたのか…
中原久経は1185年に近藤国平と全国を飛び回っていたので、その頃40代前後くらいであったと思う。源朝長の弟(異父)ともなるので、1143年以降、1150年前後に生まれたと思う。

太郎経久蓮忍入道は1175年生まれとなる。
1235年孫の秀重が高島高信の配下に、
和歌山系図にみられる 助泰(住・蒲生郡石寺)は六角判官氏頼の配下についた。

という事は、この中原経久がまだ片岡氏であり富城氏を称していた時代から3代目(孫時代)に中原秀重は高島高信の配下につき、永田胤信と同世代として生きていたことになる。ここで近江国佐々木氏との縁ができたのではと思われる。(もっともっと以前かもしれないが・・・)


この永田氏は胤信と云う名前からも千葉氏の周辺とつながりがあるのだろうと思われ、上総国本納の橘樹神社の付近にも「永田」という地名が残っている。

更に高信の弟泰綱の曾孫時代である六角氏頼(泰綱ー頼綱ー時信ー氏頼)の時代になって蒲生郡に入り「九里」となったのではないだろうか?


蒲生郡石寺
現在の「近江八幡市安土町石寺」のようである。
観音寺城へ行く途中




そして佐々木京極氏に付いた方はキュウトク…久徳氏となったと思われる

*****

気になる永田胤信の【胤】である。
千葉頼胤の三男か四男が胤信と同じ名前である。
桓武平氏文良系全系図 - 第 1 巻 に「三男胤信(奥州葛西氏第四代清信となる)」とある。

また葛西史郎清時の箇所に下記のようにある。

『建治2(1276)年、清時は千葉介頼胤の子・胤信を養子として迎えたとされ、頼胤は胤信に一族の臼井三郎左衛門常俊、千葉飛騨守胤常、千葉左馬助胤氏の三人を附けさせて奥州へ下向させたとある。葛西氏に入った胤信は「清信」と名を改めて太守となったことが伝承として伝えられている。 』

高島高信の妹(佐々木信綱の娘)が千葉胤綱の妻となっていたことも、近い間柄を象徴している。

そして、胤綱の妹が土岐七郎左衛門尉に嫁いでいる。

*****

蛇足だが、
永田氏は、系図によっては長田と註に書かれている。
以前気になっていたのが大中臣実経と長田実経が同一人物ではないかという事。(memo)


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千葉成胤の母は上総介広常の娘 そして成胤の妻は…(1)

2024-01-03 | 美濃源氏
富木常忍の周辺に再び来ている。

土岐氏と千葉氏(東氏)の繋がりの他にもいろいろと再考したい箇所が出てきているので、復習!を兼ねながら深めていこうと思う。


千葉胤正の息 成胤の母は上総介広常の娘
成胤の妻は千葉尼聖光 
千葉尼聖光の娘に播磨局了阿
播磨局了阿は結城朝光の妻

結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女
業胤=成胤であるので、千葉成胤の娘であったことがわかる。

千葉成胤と千葉尼聖光の娘=播磨局了阿=結城朝光妻

結城朝光 1168-1254年
播磨局了阿は寒河時光・山川重光の母

その聖光尼の父親は…と調べると、行方景幹(結城市史 第4巻 古代中世通史)という。

行方景幹は鹿島政幹の従兄弟と言われ、行方郡を支配する鹿島社惣検校なのだそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E6%94%BF%E5%B9%B9

因みに鹿島政幹の娘は千葉常胤に嫁いでいる。


*****

千葉成胤ー胤綱ー時胤ー頼胤

諸説あるが一応このように仮定する。
時胤は胤綱の弟かもしれないという説もある。

さて、この千葉介頼胤の娘が 土岐光行の妻という系図がある。





他に、胤綱の妹が土岐七郎左衛門尉に嫁いでいるという系図もあったはずである。

*****

佐々木信綱の娘が千葉胤綱の妻になっている。
此処は大きい。
胤綱の息カ孫の頼胤の周辺に土岐氏と佐々木氏がいるのである。


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能登地震 お見舞い申し上げます。

2024-01-03 | 日記

おめでたいはずのお正月にこのような甚大な被害があり、なんとお声掛けしたらよいものか…と…

私が此処で書いたところで何も自体は変わらないのですが、
地震国日本では他人ごとではないと思ってしまいます。
そして、古来より幾多の大地震を乗り越えてここまで続いてきたはずです。
どうか気を落とさずに、お願いいたします。

被災された方々には、これ以上被害が大きくならぬように心よりお祈り申し上げます。

思いもかけず亡くなってしまった方々には、ご冥福をお祈り申し上げます。

能登半島の左側には富来院?(荘)があり、先の方には九里尻があり、九里にもご縁のある場所です。

どうか気を落とさずに、お願いいたします。

神様、どうか立ち直る力を、立ち直るための光を降り注いでください!!



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