九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大江久兼の息(または孫)の久康は中原景康の養子となる。だが、中原景康と大江景康は別人である。

2024-02-04 | 九里【只今の状況・まとめ】
大江久兼(平安中期から後期・鎌倉初期)と紀久兼(平安前期・鎌倉初期~後期))も別人であった。

『大江久兼』
天養元年(1144年)に帷子がネズミにかじられ…と…(大江久兼は右史生)
まだ若い頃と思われる。↑

仁安元年(1166年)に山城介(従六位上)、同じ年に左少辨(従五位下)となっている。
(大外記清原頼業と同時代に名前がみえる)

さて、大江久兼の息カ孫の『久康』が中原景康より秘曲伝授させてもらったのだが、気に入られたのか、景康の養子となっている。
この二人、実はあまり年が違わないのでは?と思うのだが、雅楽の世界では伝授した場合このように養子縁組するものなのかもしれない。

景康の息光氏も狛氏に唱舞を伝授してもらい、養子(猶子)となっている。
光氏1218年生まれである。

因みに経久(蓮忍)の息カ甥の常忍は1216年生まれである。



河守荘の領主であった『久兼』は沙弥蓮忍の先祖とも思われる。
沙弥蓮忍は地頭となって丹波国河守御荘にいたわけだが、領主でもあったのだろうか?

彼の後に沙弥明浄、平賀氏、細川氏、京極氏とこの荘園が渡っている。なぜだろう。

大江久兼の息に久家・久康(・久経…想像)がいて、久経の息カ甥に経久がいたのではないだろうか? 

中原経久は九里太郎で、かつ沙弥蓮忍・蓮忍入道のことである。

この時代大江氏と中原氏は系図上でも重なりがあり、また、両方を使い分けている節もある。別人のこともある。
非常に紛らわしい状態なのだ。

大江久経が一名見つかった。
『1261年に北面』は中原久経ではありえず、別人となる。





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楽家録 巻之十六 絃管系図に 畠山重忠と梶原景秀(季)の名が! そして大江久兼

2024-02-02 | 九里【只今の状況・まとめ】




畠山重忠と梶原景秀(季)は、ちゃんとレッスンを受けて、伝授されていたのだ!

突然担当になってよくできるなぁ~と感心していたのだが、正当な教えをいただいた後に鶴岡八幡宮で奏したのであった。

其の重忠の右に 大江久家(江次久家)の名がみえる。
父の久兼は大江とも中原とも名乗っていたようで、どちらの名でも検索に引っかかる。
さらに紀久兼も、紀久経も存在している。こちらは年代がわからないことからも別人の可能性も大きいカ?

さて、加佐郡河守荘はその後どのようになっていたのか。





尼きやうくわんは貞泰の室であったと、砺波市史 資料編 1にある。
1321年のこととなり、沙弥蓮忍の文書から82年もあとのことである。

大江氏が事情があり手放したか、もしくは婚姻関係により渡ったか。


平賀氏を調べてみると、平賀義信の息が大内惟義となる。
コトバンクによると以下のようになる。
「生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。源義光の曾孫で平賀義信の子。一の谷の戦(1184)では源義経に従って戦い,その直後に伊賀国守護に任じられた。大内の呼称は同国大内庄(上野市)に由来するが,惟義がこのときに同庄に本拠をおいたのか,あるいは以前からなのか,定かではない。伊勢,伊賀両国の鎮圧に功があり,文治1(1185)年には相模守に任じられた。源頼朝の死後は在京することが多かったようで,後藤基清らの逮捕,梶原景時の残党の追捕などを行っている。また後鳥羽上皇にも仕えるようになった。源氏一門が次々と排除されていくなかでよくその地位を保ち,数カ国の守護を兼任,駿河守,修理権大夫などに任じた。承久1(1219)年ごろに死去したと思われる。
(本郷和人)」

*****


大内惟義の妻は藤原秀宗の妹となっており、此処で、源光基(土岐氏)とつながる。光基の娘は藤原秀宗の室となっているのだ。

更に平賀氏と日蓮宗は深く繋がっており、過去帳が残っている本土寺平賀氏の屋敷であったそうだ。

また、平賀氏から【日朗】
(父:平賀二郎有国。母:印東治郎左衛門尉祐昭娘 )
という弟子が育っており、富木常忍が病に陥った際には付き添って一週間も看病してくれたそうだ。ありがたい。


*****

此の河守荘と関係のある平賀貞泰の先祖が平賀義信・朝雅か?

武家家伝平賀氏に詳しい系図があり、それによると義信・朝雅とは別の系のようである。残念…
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大江久兼 息の久家・孫?久康 が 【中原景安】(中原祐安の養子 : 近江国?)とつながる

2024-02-01 | 九里【只今の状況・まとめ】


沙弥蓮忍の河守荘の文書より大江(中原久兼)からの相伝と思われ、それを基に調べることとした。

以前からお世話になっている論文
『初期鎌倉幕府の音楽と京都社会 ―の音楽受容とその基盤 ー』渡邊浩貴 著

この中にとびきりのヒントが隠されていた。
鎌倉幕府が多好方に鶴岡八幡宮神事のために大江久家以下十三名に神楽秘曲伝授を依頼し伝習させたという。(1191年)
さらに中原景安が大江久康に秘曲伝授することとなり(1237年)

此の音楽儀礼のために雅楽・舞楽の伝授をし、鎌倉に持ってくる役目を担っていたメンバーに大江久兼・久家・久康が入っていた事は、大きなつながり!と思う。



なぜこのメンバーに選ばれたのかを考えるに、長男であろうと思われる久経の母が東国・下河辺の裔であり、源義朝の妻であったことが大きかったのではないだろうか?

次男久家・右近次郎?久康(久家の息か?)もまた、東国とのパイプはできていたが、軸足は京であったようだ。
この論文によると久家は近衛府官人久康は蔵人所の所衆とある。

此処で、近江国の中原氏とつながったのである。
大江久康の「」は、中原景安(景康と系図にはある!)の「康」をもらい受けていることが証のように思えるのである。

そのあたりを調べると、本当に出てきたのである。奇跡~!





久経の名の書かれている、大江広元の文書も見つかった。


今回のことで、沙弥蓮忍が大江久兼とつながっていること。
また、近江国御家人井口中原系図の中の、九里の祖と同じ系図の中の景康と大江久兼の孫が繋がっていることが判明された。

此の蓮忍入道が経久で、久経とつながっていることはまだ未解明だが、近くなったように感じている。

大江久兼 コトバンクによる
?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
源頼朝の招きで,幕府の神宴をとりおこなうために元暦(げんりゃく)2年(1185)京都から鎌倉におもむいた陪従(べいじゅう)(楽人)。文治(ぶんじ)2年には幕府の使節として京都にいく。その後,伊勢(いせ)(三重県)治田御厨(はったのみくりや)の所領紛争の調査などにもかかわる。
伊勢常楽寺荘の地頭であったともいわれる。 






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関東流中原氏 と 因幡国の大江広元裔の中原氏

2024-02-01 | 九里【只今の状況・まとめ】
復習の意味も込めて、勉強し直し!

基本ともいえる「姓氏家系大辞典 ナカハラ」より 中原久経や九里と繋がりそうな項目を選んでみよう。


① 広宗ー広忠ー広季ー親能・広元(広光)・章弘
この太字人物達の年代少々後に中原久経・政経がいたはず。



②江州中原系図の【賢清】に続くのが 経任ー経久(九里の祖・沙弥蓮忍)となる。




③25にある若狭の中原氏と伊香郡にいた経行(経憲)の系は関係がありそう。
27にある因幡の中原氏 も 沙弥蓮忍と常忍が赴いていることから、大江氏と中原氏の重なりの中にいる中原氏が九里とつながっているのだろうと仮想している。28の矢部氏も後に冨城郷にも所領があったそうである。(Wikipedia:暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。 )



ピンポイントで言うと、この辺りにいるはずの【中原久経・経久】である。

また、丹波国加佐郡 守荘も室尾谷観音寺に寄進をしていることが文書に残っており、同一人物(蓮忍)と思われるが、確定はできないでいる。
大江山の近くの荘園である。
延応元年(1239年)の文書なので64歳となる。(が、生まれ年も1175年と仮定しているが違っている可能性もあるので、此処に書き留めておこう。)



大江久兼(中原久兼)が文書に残っているのが保元~仁安ナノで、此の沙弥蓮忍の父親に当たる? 
(読みがあっていれば…だが。)

もしもそうだとすると、大江久兼(中原久兼)が久経の父となるか?!

このあたりは、麻呂子親王の伝承(鬼退治)がある場所である。

多禰寺




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中原広季の周辺

2024-01-30 | 九里【只今の状況・まとめ】

中原師任 ー 貞親(尾秋時時の息) ー 広宗この人が広忠宗政
広忠は(忠順・広季)ー(親能・広元…と続き、カッコ内は兄弟である。

下記は宇都宮氏となった中原氏である。
宗政宗家宗綱ー朝綱…と続く。
宗綱の弟に宗房がおり、孫が信房となる。



稚拙とは思うが、当ブログ内の「中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点」の(1)~(4)で、それぞれの事跡について簡単に調べてある。

さて中原氏のどこかに嫁いでいると思う中原久経の母だが、系図内には見当たらない。しかも「経」や「久」の通字の人物がいない。

とすれば、京都にいる時に、近江国の中原に嫁いだか?
こちらは「経」が通字でもある。
久経の息か甥かと思われる「政経」も伊香郡に逼塞していたらしく(政恒法師)鎌倉幕府に出てこい…という文書も残っているため、やはりここに帰結するのか。

素直に考えると年代的にも「経任の父=賢清」が当たりそうなのだが。賢清という名を僧名として見ると、東寺観智院の蔵本「真言付法血脉 仁和寺」(高野山密教文化研究所 紀要)にある。


しかし、それが中原久経とは断定できない。が、文治三年は1187年で、鎌倉殿御使の二年後となる。年代的にはぴったりである。





もしくは、系図には出ていない経任の兄弟としての久経という可能性もある。

久経が1145年生まれとした場合は経久(1175年生まれ)は息カ甥となると思う。

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札幌 空と雪

2024-01-30 | 日記
 

   
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中河辺清兼(波多野義通の妻の父)は 【下河辺清親】であったのだろうか?

2024-01-29 | 宇都宮氏

保立道久氏による論述より 関係部分のみ借りる。(略あり・太字は私による)

『吾妻鏡』は「義常の姨母は中宮大夫進<朝長>の母儀、よって父の義通、妹公の好に就き、始め、左典厩((義朝))に候ずるの処、不和の儀ありて、去る保元三年春の比(ころ)、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住」(治承四年十月一七日条)

義通は、本来は、義朝の父の為義に親しい郎等であったが、妹が義朝の妻となって朝長を産んだ縁で義朝に仕えるようになった。

ところがそのために、義通は保元の乱の直後、義朝の親殺し、兄弟殺しの片棒を担がされ、ここに義通と義朝の間での「保元三年」の「不和の儀」がきざしたということであろう。

こういう経験が波多野氏の歴代当主、義通ー義常を頼政に近づけたのであろうが、あるいはその記憶が頼朝との齟齬の根底にも存在したのかもしれない。



*****
 コトバンクによると…「姨母」は、
母の姉妹。おば。いぼ。
※観智院本三宝絵(984)下「昔仏の御姨母(イも)(〈注〉ヲハ)の橋頓彌仏の御もとにきたりてかみをそりて御弟子にならむと」 〔説文解字段注‐女部・姨〕
一族の目上の女性をいう語。〔吾妻鏡‐貞応元年(1222)四月二七日〕

…とあり、義通の妹である可能性も残されているのではないかと思うが、中河辺清兼の娘の説もあると思う。

この中河辺清兼が、此の論述の中で【下河辺清親】(行吉・行義)の事、と示唆されている。


更に源義朝の許を去った波多野義通が波多野に戻ってきていることがわかる。保元三年(1158年)の春。

地図は『川村家の歴史』川村章一著



松田殿と呼ばれていた源朝長とその母はどうしたのであろうか?
《松田》とあるからには、何等か松田郷と関係があったと思われるが、義常の母と実の姉妹とすると、朝長と義常は幼き頃は共に育った可能性もあるかもしれない。

そして、義朝の息同志であった朝長と頼朝。

wikipediaより
朝長:保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた(『山槐記』)。

頼朝:女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている(『山槐記』)。

平治元年(1159年)12月、父の義朝は反信西派の中心にあった藤原信頼と結んで京でクーデターを起こして三条殿を襲撃、その後同じく信頼と結んだ源光保によって信西は討ち取られた(平治の乱)。

朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。
朝長は17歳・頼朝13歳。

義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ちていく。

近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。
その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。
一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。
一行はここでもてなされて休息した。

ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。
義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。

*****


中原久経が義朝の右筆となる15年以上は前に朝長の母であった人物が中原に再嫁している必要がある。(15歳で右筆という事が可能であるならば‥‥だが。)

1143年生まれの朝長、
1145年前後生まれの久経、という事でないと、右筆にはなれないのではと思う。

とすると、義通が波多野に戻ってくる十年以上も前に、義通の妹か義理の妹は中原氏に再嫁した…と思う。

朝長が松田冠者・松田殿と呼ばれていたことからも、姉妹の居る松田郷で朝長を産み育てていて、朝長を連れての再嫁と思われてならない。
とすると、忠綱の母が宇都宮宗綱の娘であったことからも考えられるのが、宇都宮宗綱自身か、その息が相手であったのではないだろうか?という事だ。

宇都宮朝綱(1122年生ー1204年歿)か知家、もしくは中原宗綱の兄弟宗房か、宗綱の実父宗家の方を遡る系と繋がる中原広季も東国とのつながりが密で可能性があると思われる。(わかりにくく、スミマセン。また後の記事で書き直します。)

其の広季の方とすると、親能と久経は異母兄弟になるか?
親能もまた、母親が波多野(大友)経家の娘である。

ともかく、この辺りに久経がいるであろうと思うのだが。

そして、もしも前述のように久経の母の実家が下河辺氏であるならば、頼政の郎党である。
しかも兄小山政光の妻が寒川尼であり、中原・宇都宮宗綱の娘である。

義通の妻に 下河辺清親娘(松田義常の母)・中原宇都宮宗綱娘(波多野忠綱の母)がおり、下河辺の娘の姉妹が相模に帰ってきた(住んでいた)とすれば、宇都宮宗綱か、その周辺の中原氏とつながるのが自然ではないだろうか?

京都にいた場合は、また別なこととなろうと思う。


今回分った事は、近藤国平も源頼政の郎党であった事。

「鎌倉殿御使」の国平と久経のコンビは、お互いに秀郷流と言うばかりではなく、共に源頼政とつながりがあった…と云う事であった。

しかし何故、久経が系図からこぼれているかのように記述が無いのか。悲しい。まだ文書が残っているだけでもありがたいが…

何処かに潜んでいると思いたい。
中原久経の系図にお心当たりのある方には、ご一報いただけますとありがたいです。

中原経任の兄弟か?



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【宇都宮頼綱】妻に稲毛重成娘・ 北条時政娘・梶原景時娘 佐々木氏との接点

2024-01-28 | 宇都宮氏
宇都宮頼綱(1178-1259年)は小山政光養子となる。(政光妻は寒川尼である。)結城朝光よりも10歳年下となる。
頼綱の実父は宇都宮業綱である。

宇都宮宗円か宗綱の娘は佐々木経高の母となっている。
秀義の妻であったことになる。
大庭景親の娘は佐々木義清の室となっている。

大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。

この寒川…寒川尼を連想させる。

実は寒川尼となった女性は小山結城朝光を産んだのが30歳。
小山政光より前に嫁いでいた人がいたのではないだろうか?

それが、波多野義通ではないか?と思うのだ。
波多野忠綱の母は宇都宮宗綱の娘となっているではないか。

波多野義通は1167年に歿しており、結城朝光が生まれているのは1168年。

波多野の勢力が及んでいると思われる場所に近いと思う。
ここには梶原景時がいたようだが、相模国一宮があった場所である。

「寒川」と称した背景に、この近辺に居た…という事も考えられないだろうか?
下野国にも寒川郡がある。現在の小山(おやま)市南西部一帯 という事で、こちらは小山氏に嫁いだ後についたのかもしれない。

宇都宮頼綱の妻に梶原景時の娘がいた事とも関連しているのではないだろうか?と思うのである。

かなり前に見た宇都宮氏の系図では、宗綱に3人の娘がいたので、其の一人が忠綱の母であった可能性もある!





右の青い丸に寒川町がある。

下の地図は栃木県の方の寒川
      


文治三年(1187年)のことである。
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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (4) 宇都宮宗綱の時代 坂戸源氏(文徳源氏)とのつながり

2024-01-27 | 宇都宮氏
【宇都宮(八田)宗綱】

宇都宮氏一族の群像  川村一彦著

下記に朝綱の母が【八田局】とあるが、彼女は朝綱の娘であったという説もある。






中原大和守忠順の娘か…と思われるのである。
註によると、忠順は初め親盛を名のっていたようである。









久寿二年 1155年 山塊記 中務丞であったのか?


この辺りで、一つ情報が入ってきた。
wikipediaに「中原宗房には坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた。 」このようにあるが、其の「坂戸」は河内国とあるが、

其の「坂戸」が現在の神奈川県の「中原」のすぐ近くに、さらに源季実(坂戸源氏と同じか重なる文徳源氏)の母が下野毛敦俊の娘とある。
つまり季実の父である源季範の妻である。

地図で確認すると面白いことがわかったのである。


上が下野毛(中原区も見える) 下が坂戸  ごく近くなのである。


しかも、鎌倉時代は橘樹郡であった場所である。
この中原と橘樹と文徳源氏が、宇都宮・中原・八田氏のつながりを示唆しているような気がするのである。

さらに、この辺り(橘樹)は稲毛重成がいた場所に近いのではないだろうか?
稲毛重成とは、中原(八田)宗綱の娘が嫁いでいた小山田別当有重の息である!
つまり重成の母は中原宗綱の娘である!

小山田有重の父は秩父重弘であり、有重の兄に畠山重能、姉妹に千葉常胤室がいる。









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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (3) 中原広宗・宗政・宗家 の時代

2024-01-25 | 宇都宮氏
中原氏と宇都宮氏との接点であった「中原宗綱」の周辺を一人ずつ見ていこうと思う。

貞親ー広宗ー(広忠)・広政ー広家-広綱

【中原貞親】 尾張氏 尾張宿禰秋時の息




【中原広宗】 大学助教  石見守にもなっていたことがわかる。









【中原宗政】 広忠の弟 宗政 伊豆守









【中原宗家】
國史摘要寶祚大典 義之巻の表より
 


【中原宗綱】は【宇都宮宗綱】として、次の記事にする予定である。



memo
波多野義通


波多野忠綱

佐々木経高


長田実任

中原清業

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