保立道久氏による論述より 関係部分のみ借りる。(略あり・太字は私による)
『吾妻鏡』は「義常の姨母は中宮大夫進<朝長>の母儀、よって父の義通、妹公の好に就き、始め、左典厩((義朝))に候ずるの処、不和の儀ありて、去る保元三年春の比(ころ)、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住」(治承四年十月一七日条)
義通は、本来は、義朝の父の為義に親しい郎等であったが、妹が義朝の妻となって朝長を産んだ縁で義朝に仕えるようになった。
ところがそのために、義通は保元の乱の直後、義朝の親殺し、兄弟殺しの片棒を担がされ、ここに義通と義朝の間での「保元三年」の「不和の儀」がきざしたということであろう。
こういう経験が波多野氏の歴代当主、義通ー義常を頼政に近づけたのであろうが、あるいはその記憶が頼朝との齟齬の根底にも存在したのかもしれない。
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コトバンクによると…「姨母」は、
母の姉妹。おば。いぼ。
※観智院本三宝絵(984)下「昔仏の御姨母(イも)(〈注〉ヲハ)の橋頓彌仏の御もとにきたりてかみをそりて御弟子にならむと」 〔説文解字段注‐女部・姨〕
② 一族の目上の女性をいう語。〔吾妻鏡‐貞応元年(1222)四月二七日〕
…とあり、義通の妹である可能性も残されているのではないかと思うが、中河辺清兼の娘の説もあると思う。
この中河辺清兼が、此の論述の中で【下河辺清親】(行吉・行義)の事、と示唆されている。
更に源義朝の許を去った波多野義通が波多野に戻ってきていることがわかる。保元三年(1158年)の春。
地図は『川村家の歴史』川村章一著
松田殿と呼ばれていた源朝長とその母はどうしたのであろうか?
《松田》とあるからには、何等か松田郷と関係があったと思われるが、義常の母と実の姉妹とすると、朝長と義常は幼き頃は共に育った可能性もあるかもしれない。
そして、義朝の息同志であった朝長と頼朝。
wikipediaより
朝長:保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた(『山槐記』)。
頼朝:女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている(『山槐記』)。
平治元年(1159年)12月、父の義朝は反信西派の中心にあった藤原信頼と結んで京でクーデターを起こして三条殿を襲撃、その後同じく信頼と結んだ源光保によって信西は討ち取られた(平治の乱)。
朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。
朝長は17歳・頼朝13歳。
義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ちていく。
近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。
その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。
一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。
一行はここでもてなされて休息した。
ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。
義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。
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中原久経が義朝の右筆となる15年以上は前に朝長の母であった人物が中原に再嫁している必要がある。(15歳で右筆という事が可能であるならば‥‥だが。)
1143年生まれの朝長、
1145年前後生まれの久経、という事でないと、右筆にはなれないのではと思う。
とすると、義通が波多野に戻ってくる十年以上も前に、義通の妹か義理の妹は中原氏に再嫁した…と思う。
朝長が松田冠者・松田殿と呼ばれていたことからも、姉妹の居る松田郷で朝長を産み育てていて、朝長を連れての再嫁と思われてならない。
とすると、忠綱の母が宇都宮宗綱の娘であったことからも考えられるのが、宇都宮宗綱自身か、その息が相手であったのではないだろうか?という事だ。
宇都宮朝綱(1122年生ー1204年歿)か知家、もしくは中原宗綱の兄弟宗房か、宗綱の実父宗家の方を遡る系と繋がる中原広季も東国とのつながりが密で可能性があると思われる。(わかりにくく、スミマセン。また後の記事で書き直します。)
其の広季の方とすると、親能と久経は異母兄弟になるか?
親能もまた、母親が波多野(大友)経家の娘である。
ともかく、この辺りに久経がいるであろうと思うのだが。
そして、もしも前述のように久経の母の実家が下河辺氏であるならば、頼政の郎党である。
しかも兄小山政光の妻が寒川尼であり、中原・宇都宮宗綱の娘である。
義通の妻に 下河辺清親娘(松田義常の母)・中原宇都宮宗綱娘(波多野忠綱の母)がおり、下河辺の娘の姉妹が相模に帰ってきた(住んでいた)とすれば、宇都宮宗綱か、その周辺の中原氏とつながるのが自然ではないだろうか?
京都にいた場合は、また別なこととなろうと思う。
今回分った事は、近藤国平も源頼政の郎党であった事。
「鎌倉殿御使」の国平と久経のコンビは、お互いに秀郷流と言うばかりではなく、共に源頼政とつながりがあった…と云う事であった。
しかし何故、久経が系図からこぼれているかのように記述が無いのか。悲しい。まだ文書が残っているだけでもありがたいが…
何処かに潜んでいると思いたい。
中原久経の系図にお心当たりのある方には、ご一報いただけますとありがたいです。
中原経任の兄弟か?