九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (3) 中原広宗・宗政・宗家 の時代

2024-01-25 | 宇都宮氏
中原氏と宇都宮氏との接点であった「中原宗綱」の周辺を一人ずつ見ていこうと思う。

貞親ー広宗ー(広忠)・広政ー広家-広綱

【中原貞親】 尾張氏 尾張宿禰秋時の息




【中原広宗】 大学助教  石見守にもなっていたことがわかる。









【中原宗政】 広忠の弟 宗政 伊豆守









【中原宗家】
國史摘要寶祚大典 義之巻の表より
 


【中原宗綱】は【宇都宮宗綱】として、次の記事にする予定である。



memo
波多野義通


波多野忠綱

佐々木経高


長田実任

中原清業

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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点 (2)

2024-01-23 | 宇都宮氏
昨夜間違えて、まだ書きかけの記事を出してしまったので、、、、書き足します。

以下の系図は論文
「平家物語」の成立と成長の環境  佐々木紀一 著 からである。
 
宗家の息宗綱となり、伊豆守であった宗政の系となる。
兄広忠は、大江氏の系図にいる人物である。

↓の系図 の 広宗の父が尾張貞親で、
貞親ー広宗ー広忠・宗政―宗家ー宗綱 となるのではないかと思う。
尾張氏の血をひいている。

寒河尼も、尾張氏の系につながることになる。

さらに、広季の息に親光もいる。
其の親光の息に『「親厳」東寺長者,京都小野の随心院の初代門跡(もんぜき)をへて,嘉禎(かてい)元年東大寺別当となる。大僧正。』がいる。

近江八幡の九里(九里村)は隋心院門跡領である。
九里の祖である「中原」はそのあたりと思っていたが、
宇都宮氏の中に入った中原であった可能性もあることになるか?
まだわからないが、この辺りと秀郷流のはざまに九里氏は位置すると思う。




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中原の系図 の中の 宇都宮氏との接点

2024-01-22 | 宇都宮氏
父親が尾張貞親が広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父である。













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波多野忠綱の母が宇都宮宗綱の娘=義通の妻に宇都宮氏だったことになる。か、養子か。

2024-01-22 | 宇都宮氏
義通の妻に宇都宮宗綱の娘がいた…ということは、妹も母親が宇都宮であった可能性がある。

随分前に調べた際の記憶では、寒河尼以外に姉妹がいたはずである。





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光る君へ~  藤原道兼が先祖になる宇都宮氏

2024-01-21 | 宇都宮氏
2024年の大河ドラマに、乱暴者として登場する道兼。











藤原兼房 母は佐々木氏とも繋がる 源扶義の娘
しかも妻は 大江匡子(江侍従) - 大江匡衡の娘 










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中原経任は佐々木経高なのだろうか? (2) 蒜間中務丞計経高

2024-01-20 | 九里【只今の状況・まとめ】
私は、前回の記事で一つ大きなことを忘れている。
それは、父親は佐々木秀義である…ということ。(ここ、大事だったはず…)

秀義の息の名前の中では、此の経高、義清、巌秀(僧名かもしれない)は浮いている。定綱、経高、盛綱、高綱、 義清、厳秀、能恵 

しかも「中務丞」であった経高。
中務丞は波多野忠綱 がなっていた。(義通の息=義常の兄)

佐々木氏系図の経高の註に號「蒜間中務丞」とあるが、どうやら吉田郡蒜間のようで、常陸大掾氏(吉田氏)が代々持っていた場所なのでは?と思う。



そこに、八田知家・小田知重が常陸守護となって登場する。

そのつながりで、なのだろうか?
佐々木経高が號「蒜間(ひるま)中務丞」と呼ばれるのである。

*****

系図に波多野義通の息で中務丞の忠綱(義通の息)を見ると、母親が宇都宮宗綱の娘であった。



そして、その弟大槻高義の孫に小五郎経高・曾孫に四郎経高がいた。
但し、中務丞ではない。

烏帽子親は忠綱であったかもしれないし…または…
この忠綱の息が養子として佐々木氏に入った可能性、または、反対に秀義の息を波多野忠綱の養子として相模で育てた可能性などを思う。

ともかく、此処波多野氏と関係がある事は確かなようだ。

しかし、九里経任と同一人物説は怪しい…😰 
同じ地域で共に育って顔はお互いに知っていたかもしれないが。

経任の父は「中原」のはずなので…可能性はゼロではないと思うが…。

経久の代になり国衙官人・地頭職を与えられ、晩年には泰時に召されて一万石を賜わっている? 十二支は印刷間違いか、御深草天皇のときは「丁己」ではなく「丁巳」である。1257年
なので、1174年か1175年生まれと判断した。

これは片岡氏の系図の中なので、波多野氏の庇護の下で育ち、その後、京で朝廷・九条家に仕え、後に鎌倉幕府に仕えた「久経」だが、その息が、どのような経緯で此の片岡家の中に入ったのか。

此の経久は本当に蓮忍入道となって九里太郎経久となった人物なのか‥‥甥は常忍なのか?

堂々巡りが続いているようだが、少しは進んでいると信じて祈りつつ調べている。

      






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中原経任は佐々木経高なのだろうか?

2024-01-19 | 九里【只今の状況・まとめ】
中原橘次経任は「経たか」とも読める。


そして、佐々木経高の母親は宇都宮氏である。(父は佐々木秀義)

佐々木哲学校の記事より (一部略)


佐々木兄弟 歴史 経高流佐々木氏
佐々木経高(?-1221)秀義の次男。母宇都宮宗綱娘。佐々木次郎。中務丞。中務入道経蓮。相模渋谷荘司重国の娘婿になる。…子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、…略…子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。

経任の息九里経久の名前はその中には無い。
しかし、母親が宇都宮氏で、波多野で暮らした…中原経高を称してもいた…
渋谷重国の婿となれば橘樹郡(相模)と関りがあったかもしれず、橘も使っていたかもしれない、しかも次郎。などなど気になる点がある。重国の父・河崎重家や祖父・基家(秩父武綱)は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住していた。

宇都宮某の妻は波多野の出身かもしれないと思う。
経高は1142年 - 1151年の間に生まれ、そこで育てていたとなると、中原久経と同世代であり、もしも中原経任が佐々木経高となると、久経の兄弟であったかもしれない。


以前(2015年)佐々木先生に質問した際の答えがある。

『佐々木次郎経高(母宇都宮氏)は渋谷庄司重国の女婿で、烏帽子親は相模波多野氏です。烏帽子親は波多野右馬允義常(義経)と考えられます。』

*****

つまり義常の姉か妹の息の中原経任の烏帽子親となった…は充分に考えられることだ。これは、中原久経の兄弟の【経任】となるのではないだろうか?とすると久経の母は宇都宮氏とごく近い中原氏に嫁いだことになる。

 
つまり、波多野(松田)義常…父は波多野義通
非常に中原久経と近い! 義常は「久経の母」にとって兄弟にあたる。

久経から見ると叔父に義常がいたことになる。
波多野義通は1167年に歿し、義常は1180年に歿している。
佐々木経高は1221年に歿している。

以前は中原経任とは別人と判断したが、
宇都宮氏周辺が少々分かってきた事で、中原経任と佐々木経高は、いまは同一人物かもしれないと思う。











千葉成胤の娘の息ではないかという富木常忍とどのような形でつながるのだろう。

千葉成胤の息胤綱の妻が佐々木信綱の娘となる。
信綱は経高の兄である定綱の息である。






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小山氏と千葉氏  藤原秀郷流の下河辺行平妹(行義娘)が東胤頼妻であった。

2024-01-17 | 九里【只今の状況・まとめ】
下河辺行平の妹 東胤頼の妻…とある。
行平の父は下河辺行義で、小山政光の弟である。
政光の息(三男)が結城朝光となる。(母が宇都宮・八田宗綱娘の寒河尼)


播磨局了阿より以前に秀郷流の下河辺氏も千葉氏(東氏)とつながりがあったのだ。

千葉氏(東氏)は土岐氏とつながり、
千葉氏(東氏)と藤原秀郷流下河辺氏ともつながりを持ち三崎荘・海上荘・下河辺荘周辺の近隣関係を強化し、
其の同族の小山氏は宇都宮氏(中原氏)とつながりがある。

更に歌の関係では

御子左流藤原定家の息である為家の室としてと宇都宮頼綱娘、
東胤行室として為家の娘が入っている。

と、藤原の御子左流とのつながりも持つ。

歌関係は京の内部情報をも運んできたのではないかと思う。
東氏・宇都宮氏にとっても、歌会は和歌が好きで才能発揮というだけではなく、情報を得るためでもあったように思う。

戦国時代からの「茶の席」がそうであったように。

*****

さて、九里となった中原久経の母は源義朝に嫁ぎ、離縁し、中原氏に嫁いだというが、この宇都宮氏の中原ではないかと思って調べていた。
「宗」「綱」や「房」が付いておらず、通字的には遠いと感じた。

しかし、富木常忍の親戚に秋元氏がおり、宇都宮氏の中にも秋元氏がいる。
また、宇都宮・中原宗房と同じ時代の主典代中原政経中原基兼がいたが、常忍の親戚と思われる中原能兼がおり、ともに日蓮の支援者でもあり関係が近い。

その周辺事項を考えると、宇都宮氏であった可能性もある。
そして宇都宮・中原信房の所領善積荘が近江国の湖西にある。高島郡と思う。かなり大きな荘園であったようで「善積郡」ともよばれていたそうだ。(コトバンクより)

そうなってくると、高島郡を持っていた佐々木高信の許に居たと思われる中原秀重(唐崎で討死)1235年‥‥が信憑性を帯びてくる。

もう少し、宇都宮・中原氏を調べてみようと思う。

以前書いたことの中に答えがありそうな気がしている。
特に、佐々木経高周辺。

もう一つ、因幡国富城郷が100年後だが宇都宮氏の山田氏庶流友枝氏に渡っていることも、何かしら関係があるのではないかと思う。







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小山氏と富木氏(中原氏)

2024-01-17 | 九里【只今の状況・まとめ】
頭を整理してみようと思う。

富木常忍の母は千葉成胤娘(1185年生)、父は土岐光行(1180年代生)であると仮定する。
父が土岐光行となる可能性がある場合には、叔父になるか?と思われる富城中太蓮忍=九里太郎経久(1175年生)。其の経久の父か叔父は中原久経(1147年以降)母は不明であると仮定する。

久経の母は源義朝の妻となり朝長を産んだ後に離縁し、中原に嫁ぐ。波多野義通の妹という事なので秀郷流の中で過ごしたのではないかと思う。

その久経の父となった中原は近江国にご縁のあった人物であったのだろうと思う。
そのために近江国御家人井口中原系図に入れたのではないかと思う。

しかし、近江国御家人の系図の丁度良い位置には久経の名前は無い。
三左衛門事件で有名な中原政経しかり…である。

中原久経は九条家の、また中原政経は、一条家の家司であった。

*****

さて、本題はこれからである。
小山氏周辺で、近江国との関係があった人物は中原信房である。

「寒河尼の父八田宗綱」の、弟が宗房。
其の宗房の息か孫と言われる人物が宇都宮信房である。




此処に、新しい情報が入ってきた。
千葉氏のHPの中の宇都宮氏、八田氏のページである。
これからじっくりと読むが、ヒント満載!で、嬉しい。


上記のページに《『待賢門院庁下文』などに見える「主典代造酒正中原朝臣」は「女院主典代造酒正宗房」(『長秋記』大治四年七月十六日条)で、即ち中宮璋子院司(中宮大属)であった「中原朝臣宗房」》とある。

此の主典代という職には、中原政経もなっている。

【院政時代における 院領荘園関係申請雑事の処理形態 】 槙 道雄 著
の論文の中に、

《年預の主典代 うち、大江以平・中原基兼・中原政経などは院庁発給文書作者となっていたようである。》とある。

この大江以平は疋田以成の父では?と言われている。(藤原利仁流)
中原基兼は様々な活躍をした人物だが「主典代造東大寺判官中原基兼 」とある。
政経は三左衛門事件の後、大江氏の働きで許されたようであるが逼塞していたのか…後に近江国伊香郡で「政恒法師」がおり、同一人物ではないかと思っている。

…このように、中原氏の中の主典代という範疇に中原宗房も、中原政経も入っているのである。

中原宗房の兄宗綱の娘に寒河尼がいるので、小山氏とも近く、頼朝とも近く、更に大掾家ともつながりがある。

宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としている)


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土岐氏と千葉氏の接点  富木常忍の父は土岐氏・母は千葉氏であったと仮定する。

2024-01-16 | 小山氏
徳山氏史伝



此の『土岐播磨守胤継』も違うという意見もあり、微妙である。
五郎である、三郎である、、等々も様々である。

富木常忍が生きていた時代の播磨守(wikipediaより)は以下の如くであり、
生きている間になったとすると、かなり短い期間…となりそうであるが、私は播磨守にはなっていなかったと思う。
千葉氏の執事的存在であったはずなので、この説は違うと思う。

  • 下河辺行平:文治元年(1185年) 〜 ?
  • 梶原景時:? 〜 正治2年(1200年)
  • 小山朝政:正治2年(1200年) 〜 建保2年(1214年)頃?
  • 後藤基清:? 建保2年(1214年) 〜 承久3年(1221年)
  • 小山氏:承久3年(1221年) 〜 建治2年(1276年)頃?[注 1]
  • 北条氏家督(得宗):? 建治2年(1276年) 〜 弘安4年(1281年)
姓氏家系大辞典の中にも、土岐氏の條に「下総の土岐氏」として富木常忍が登場している。


土岐氏と因幡国は大きな関係はないのではないかと思う。
関係があったとすると、大江氏・中原氏であろうと思う。

つまり、富木常忍が土岐氏と千葉氏の息であるならば、
蓮忍入道=叔父は元因幡守であった大江氏(含む中原氏)・藤原秀郷流周辺氏・大中臣氏など、あるいは国衙関係者であろうと思う。

後藤基清が承久の乱で幕府側にいた息基綱に処刑され、【安保実員】が播磨守となり、安保氏を経て小山氏にバトンが渡されたそうだ。(栃木県史 通史編3)
安保実員のwikipediaに「承久の乱の恩賞として播磨国の守護に任じられる 。」ともある。

播磨守となった小山朝政
その弟結城朝光の妻が千葉成胤と聖光尼の娘播磨局となる。
(結城朝光が播磨守だったことがあるのではないかと疑問が残る箇所)

さらにその朝光の息である結城朝広の妻が安保実光である。
実光の息が安保実員で、播磨守となるのだ。

播磨守の流れを系図風にすると・・・

小山朝政 ー 後藤基清 ー 安保実員


結城朝光の母は寒河尼(源頼朝の乳母)であり、八田宗綱=中原宗綱である。

氏で見ると、千葉氏・結城氏(小山氏・秀郷流)・中原氏・安保氏(秩父氏)…というつながりである。

安保氏は秩父綱房(元、丹綱房、のちの新里恒房)の次男である安保実光が氏祖でありる。

千葉胤政の母は秩父重弘の娘 だが、
網房は同じ系ではないのか秩父氏のwikipediaの系図には見えなかった。

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