くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十七話

2020-09-16 23:50:24 | はらだおさむ氏コーナー

月亮 代表 我的心

                       

  九月になったが、残暑はなお厳しい。

  台風がひとつ、ふたつと現れては西へそれ、夕立も思い出したかのように局所ゲリラシャワーをふりまいて、サウナのような湿気が立ち籠る。

 それでも九月 日の暮れるのが日一日と早くなり、月の出をそぞろ待つ気がめばえてくる。

 

表題の「月亮 代表 我的心」(ユエリアン/タイピャオ/ウオディシン)は、テレサテンのヒットチャートテンには入るメロディだが、なぜか日本語の歌詞になったのは少ない。日本語に訳しにくいというか、甘ったる過ぎてアルコールが入っても・・・というところだが、八十有余歳になると厚顔無恥もいいところ、今年のコーラスの新年会の余興で、独唱した!(中国語で・・・)。誰も知らないと思っていたが、上海に在住二年のメンバーがいてあのころよく流行っていましたねえ~、に、ドキッ!!(いまや、中国は、遠い国ではない)。

  月に託した乙女の愛の告白だが、お月さまにはお聞き伝えいただけたのだろうか・・・。

 

  今年の中秋節は、10月1日だそうだが、そもそもの由来は平安時代に唐から伝来の風習とか。すすきに丸いお団子を添えての慣習も昨今では薄れてきているが、暑い夏が過ぎて台風などが通り過ぎた空に浮かぶ満月は何か願い事でもかなえてくれそうな安堵感をもたらしてくれる。

  本場中国では「月餅」の販売キャンペーンがひと月も前からはじまる。  各家庭で慎ましく一家団らん、丸い「月餅(ユエビン)」をいただくのが基本だが、三十年ほど前の改革開放の初期にはこの月餅の贈呈ブームがおこり、たらい回しから底に人民元の束を忍ばすことも“話題”になった。

キャッシュレスが生活の主流になってきているいまの中国、賄賂もIT(人工知能)のお世話になるのか・・・。

 

  今年はコロナのせいで日本の夏のイベントはすべて中止になったが、先日 中島 恵さんのリポート(8月28日:ダイアモンドオンライン)を見て驚いた。

 上海や杭州など中国各地で日本風の“夏祭り”が、早いところでは数年前から行われている由。リポーターの中島さんも中国の友人から写真を送られてはじめて知ったとのことだが“知日”の若者たちが、“貸出し”の浴衣姿で屋台を廻っている。

  今年はコロナで日本へ行けなかった、そのうっぷん晴らしが中国の若者たちの、日本式“夏祭り”ブームを盛り上げているようだ。

 

  話は変わるが、遠藤誉さんの「『中国製造2025』の衝撃」(PHP出版、昨年1月刊)を読んで、オドロいている。

  いまや「月の世界」を支配しかけているのは、中国とか。

「宇宙空間と通信手段はアメリカとほぼ互角」、「『情報通信』に関しては、中国はいま世界の最先端をいっている」(p269)。

  古くなった通信衛星を打ち落として更新しているが、これはアメリカの衛星も打ち落とせる!? 

  「一帯一路」は、いま「一空一天」をも目指しているのか!

  九ちゃんの♪見上げてごらん 空の星を・・・♪の世界をこわす、オソロシイ動きがこの天空を巡っている。

 

  ところで地上の政界、日本は安倍総理の残任期限まではということで落ち着くところに決まるだろうが、アメリカはどうか。コロナ対策よりも人権問題が決め手になるのではないだろうか。

  読めないのが中国だが、30年前のあの事件の後「中国包囲網」を崩したのは、日本(海部→宮沢内閣)であり「天皇訪中」が決め手になった。そしてそれを支持して“浦東開発”を喧伝していたわたしたちであったが、ときの外交部長銭其琛の『回顧録』を読んでガクッときた。「日本は最も結束が弱く、天皇訪中は西側諸国の対中制裁の突破口になった」。そして江沢民の言いたい放題の来日発言とその後の「反日愛国教育」。(中国は戦略・戦術に長けているが日本はムード派、温情主義)。

 

  習近平国家主席の語る「中国の夢」は、どうみればいいのか。

  5月28日 全人代閉幕のあと、李克強首相の記者会見での発言(テレビ中継)=「(総人口14億のうち)6億人が月収千元前後(@15円)」は、習近平主席の看板政策「今年(2020)、脱貧困、小康社会の全面的実現」が、希望的スローガンに終わることを示唆している。

  選挙戦でラッパを吹いているのではない、最高権力者の発言は重い。

  実務権力者・李克強総理の発言には、厳しい思いがある。

          (2020年9月2日 記)

 

PS 私事ですが、いま本紙連載のこれまでの「日々徒然」をまとめて、「日々徒然之私記」と題する本を発行準備中です。順調にいけば、来月発行も。新書版より少し大きめの(US 5x7)版。連載(年月日順)を組み替え、どこからでもパラパラと読めるようにしています。表紙はコロナ退治を念じて江戸時代の「アマビエ」の古絵図。

 


日々徒然(ひびつれづれ)之私記(目次)

2020-09-15 09:23:15 | はらだおさむ氏コーナー

日々徒然(ひびつれづれ)之私記(目次) 

 ぷろろーぐ

 

第壱部

■ 庚子(かのえね)年之過(どしのすぎし)半年(むつき)

この夏のむかぶ(向伏)すに・・・

三度目の敗戦?

あたらしい五月

なぜか、だれか?

生かされて、生きる

白 鳥

  乙女の舞

 

  第弐部

 ■ 聴く/歌う

歌 う

 雪

  いい日旅立ち

  防人の詩

 ■ スポーツ

TV観戦のあとで

“神ってる”と“神速”

男たちの挑戦 パートⅠ

男たち 挑戦 パートⅡ

・・・のてっぺん

 ■ シネマ雑感

  ある映像ふたつの結末

  西郷どん

  映画を観るまでに

  ジャー・ジャンクー

  きみと旅たとう  

第参部

 ■  大和路紀行

  初一念

  二階の書棚

 ■  海外歴遊

  ソーリー、タイピーオンリー

  あのときと、それからと、

  はじめての留学

  ユメはいつ・・・

  ホタル

  聖徳太子のこと

  あのとき(天皇訪中)

  いまは、むかしか・・

  三十年と五十年

  旅をする

 ■ あのひとたちのこと

  あのひとたち

  ある作家展から

  初冬の京都

■  歴史のなかで

戊戌の歴史

ある春の日に

歴史を歩く

浦島伝説のこと

世の移ろい

「非常事態宣言」発令後の数日

 

えぴろーぐ

 

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十話

2020-09-10 14:17:41 | はらだおさむ氏コーナー

あなたと旅立とう

♪コンテ、パル、ティーロ♪

     

 地震後の再開発で隣の駅前にできたビルの5階に、全国でも珍しい公立民営のシネマPがある。100シートの観覧室が二つあり、独立系で「洋・日」自在の選択で話題作を比較的早く上映している。

 二十年ほど前の開館当時はわたしも若く(60代)、このシネマの会員になって毎月のように話題作は見に出かけていたが、このところチラシはよく見るがシートに座ることは少ない。いつぞやの猛暑の折は、昼寝タイムに利用するなどと不心得なこともしたことがあるが、このところ感度が鈍くなったのか涙腺の緩む場面に出会うような映画にも出くわさない。それでも見かけるチラシだけは手に取っては、眺めている。

                              

先日の午後 三時間ほど空いたので「アンドレア・ボチェッリ~奇跡のテノール歌手~」のチケットを購入(予約番号11)、昼食の後上映十数分前ロビーに行くとかなりの人出、婦人が多いが、そうか、わたしとおなじ、ボチェッリの「コンテ・パルティ―ロ」(あなたと旅立とう)に魅せられた人たちかと何か安心感を覚える。チラシで見るかぎり、これは、ボチェッリの生い立ちから舞台に立つまでの物語で、音楽映画ではないが、シートの周辺を70代の女性に囲まれるとなにか、二十年ほど前の気分になる。

 

 あのころ 昼食時にはビルの七階にあった事務所から地上に出て、ここかしこの食堂に首を突っ込んでいたが、食後のおしゃべりがまた楽しかった。女性たちの話題にはなかなかついていけなかったが、あるときCDが話題になり、サラ・ブライトマンだの、ボチェッリだのが出てきた。わたしはちんぷんかんぷん、ご講義を受けることになり、後ほどそのCDを拝借して耳にすることに。

 そのころ上海でお目にかかったのが機縁に加古 隆のフアン会のメンバーとなり、近在でのコンサートに出かけてはCDにサインをいただいたりしていたので、よく楽器店のCDコーナーなどにも立ち寄っていた。

 女性たちの話によると、中国ではボチェッリなどの海賊版CDがすでに出回っている、音質もかなりよく価格は日本より半額以下で手に入るがどうでしょうかということになり・・・その後の出張時に、上海の人民公園の近く、いまはあるかどうかわからないが、南京東路/福州路の楽器店のCDコーナーを覗いたことがある。中国もその後国際協議を経て海賊版の規制に努めたので、いまはもう出回っていないはずである。

 いま手持ちのCDをチェックした。

 「アンドレア・ボチェッリ」二枚(版権江西・・・出版社)、(貴州・・・、中国大陸限定販売)

 「サラ・ブライトマン」日本製(東芝EM)二枚、中国製四枚 莎拉・布莱曼

「重回失楽園」(権利取得)、「月光女神」(中国唱片・・・出版)、「再見」(福建・・・出版)、「安徳魯・葺伯 作品選」(雲南民族・・・出版)

 よくぞ買ったものだが、当時聴いたのでは不備はなかったはずである。

 

 さて映画―。

 ボチェッリの自伝に基づく作品。

生まれた時からの弱視で両親の悩みを叔父がカバー、ピアノなどで音感教育を進め、少年時代は歌唱にも才能を発揮するが声変わりで落ち込み、その上12歳のときサッカーの練習で顔面にボールが当たり、完全に失明。

両親などに励まされ、点字で勉学に励んで法学博士の資格を取り、弁護士開業後、夜はジャズバーで歌っている。そこで誕生日パーティーを開いていた女性と出会い、のちに結婚。その前後、かれの歌を聴いていたピアノ調律師の紹介でオペラの指導者のレッスンを受け、そのつてでオペラ歌手と会うが、パートナーとしての出番がなかなか回ってこない。

待つこと二年、ついにステージに立ったかれのバリトンの歌声は、全ヨーロッパに響き、イギリスのソプラノ歌手サラ・ブライトマンの申し出によるデユエットは全世界に響く。

映画は世界各地での舞台を早送りしながら、この「コンテ・パルティ―ロ」(きみと旅立とう)を流し続ける。

わたしもここで二十年ほどのむかしを思い出し、すこし鼻がツンとした。

 

歌詞の一部を拾い出してみる。

コンテ・パルティーロ(タイム・トゥセイ・グッバイ)

 

   一人でいるとき 水平線を夢見て 言葉を失ってしまう

   太陽のない部屋は暗くて あなたが傍にいないと

   太陽は消えてしまうの(中略)

 

       **************

 

   別れの時が来たわ 

   あなたが一度も見たことも 行ったこともない場所

   いま私はそこに あなたと共に旅たとう(中略)

   ♪コンテ・パルティ―ロ…   あなたと共に旅立とう♪ (後略)

                         日訳By Maria Karen

                                (完)

                2021年2月9日 記 (2020年?)

 

 PS 前29号の海南島の「白毛女」について、一読者から「『白毛女』の話の元は河北省の『白毛仙姑』の伝説が元となっておるようです。海南島の革命的な女性は、『紅色娘子軍』(日本名「女性第2中隊長」)の主人公・呉瓊花のことないでしょうか」とご指摘がありました。

 再調査の結果、海南島のはなしは1930年代の悪徳地主に手向かう女性の物語を謝晋監督が1960年に映画化(「紅色娘子軍」)、文革中バレー化されたものでした。

 わたしの記憶間違いをご指摘いただき、ありがとうございました。


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十九話

2020-09-08 00:03:19 | はらだおさむ氏コーナー

乙女の舞

  

尼崎城天守閣が再建・一般公開されて九ヶ月が経った。

 阪神尼崎駅から徒歩数分、武庫川の一支流・庄下川(かっては御濠)を渡った東にある。

 四百年前 初代領主・戸田氏鉄がこの城を築いたころは、大阪城を主格に岸和田城と共に徳川幕府の西の構えの一角を演じて、西国街道を城で中断・迂回させ、南は海に面していた(「古地図で見る 阪神間の地名」大国正美編著)。

 

 国道二号線を西に向かうと、これも武庫川の一支流の蓬川に出会う。

 その東詰めを南下すること一区画、旧西国街道にかかる蓬川公園に出会う、その袂の

叢にひとつの句碑がある。

 

  序の舞の まこと静けし 足袋きしむ 地朗

 

 作者は「尼崎の芭蕉さん」とも呼ばれた母方の大叔父。

『尼崎市史』第三巻に「小学校の憶い出」と題した本人のスケッチが掲載され、そこには「琴城尋常小学校 明治二九年卒業生」とある。

第一次大戦後の軍縮で退役、書店を経営。謡、俳句に長じ、わたしの結婚式でも「よい趣味を持て」と訓示、すこし俳句の添削・指導を受けた。

米寿のとき ご夫婦で富士登山に挑み、踏破。晩年は俳画にもその才能を披歴、謡の訓育を受けた兄の話では、「人間 いくつになっても毎週松阪の牛肉を食すべし」であったとか。

その白寿の宴が宝塚のホテルで開催されたとき、妙齢?の着飾ったご婦人方に囲まれてご満悦の大叔父。「せんせぇ~、長寿の秘訣、教えてぇ~くださっぁい」「あんたらみたいなきれいな おなごし(女性衆)と、いっしょにおることや」で、ドット笑いの渦が巻きあがったが、わたしはあと50年もと、ゾっとした思い出がある。いまは、あと14年になったのだが・・・。

 

 一九六四年二月はわたしの初訪中のとき。

 一月にフランスが中国と国交回復(日本は八年後の七二年)、香港の羅湖から共に板橋を渡ったのは、大半がフランスからの友好訪中団であった。

その夜 広州での歓迎宴の後、大劇場で演じられたのは革命歌舞劇の「白毛女」。

   わたしの両サイドはフランスの紳士淑女、彼らたちのブラボー!!に声を合わせ、手を叩いていたが・・・。

   そのストーリー:貧農の娘は匪賊の手を逃れて深山の洞窟に潜み、(栄養不良のせいか)白髪になりながら、国民党軍の追撃に耐え、闘う。

             そこへ解放軍の先兵がやってきて情報交換。    

その進撃のラッパの音は、いまもわたしの耳朶を打つ。

タータタタ・・・タータタタ、そして、総攻撃! 

地の利を知り尽くした「白毛女」の道案内で、国民党軍の本拠地を奇襲攻撃!ついに、大勝利を得る。

ブラボー!ブラボーと拍手の大波!! 

 

   オーボワール ムッシュ エ マダム、ボンニュイ!

 

 このときは文革発動の二年前 まだ江青たち「四人組」の“暗躍”はなかっただろうが、この革命劇、のちには映画からバレーまで、その後十余年の中国の演劇界を牛耳る。

 

 それから二十余年後 海南島が広東省から分離、省に昇格の前後、なにか?の会議で広州から海口(のちの省都)に飛び、それから中国のハワイ(緯度が同じくらいとか)三亜市へ向かうことになった。が・・・まだフライトはない。マイクロバスをチャーターして往路一泊二日の旅。

   宿泊の温泉地には、印尼(インドネシア)華僑の集団宿舎があった。ガイドの説明では、スカルノ政権崩壊後亡命を余儀なくされたかれらの仮の宿とか。      

久しぶりの温泉の大浴場で、なぜか“風呂酔い”した。

 

   三亜の白波は、当日は摂氏18度で水浴禁止。

ここは蘇東坡(号)・流刑の地。

   宝塚の清荒神鉄斎美術館には、鉄斎が蘇東坡と誕生月日を同じくすると私淑、蘇軾(本名)にあやかった作品が多く蔵されている。

   「天涯地果」へ行く海岸べりで、ヴェトナム製の菅笠を買う。

   これを被って成田に着いた一行は、空港でどこの旅役者だとひやかされた。

 

これまでもなんどか肺炎で床に臥しているが、一昨年の誤嚥性肺炎では、はじめて三カ月の長期入院、最後の一か月はリハビリ病院で過ごした。

半月ほどたったころか、ひとりの看護師が夕食後少しお伺いしたいことがあり、という。きょうは昼勤です、プライベートなことと呟いて立ち去る。

私服姿で現れた彼女は、いきなり上海浦東空港での、トランジットのことを教えて欲しい、という。どうもわたしがその消息通とでも思ったのか、怪訝な面持ちのわたしに、彼女はスマホを取り出し、これ、二年前、京都八坂神社でのわたしたちの結婚式、と和服姿の美男美女を示す。主人は中国のひと、でも高校からニュージランドに留学、大学卒業後も日系現地企業に就職、二年前から大阪勤務となり、彼女との出会いとなる。お互いが一目惚れ、三カ月でゴールインした由。

昨夏は結婚休暇で主人と一緒に長江上流の主人の実家に半月滞在したが、今年は自分の休暇が五日しか取れず、主人が先に帰郷、あとを追っかけての一人旅。上海でのトランジットが心配で・・・という。

上海の浦東には二つの空港があり、すこし離れているので、出発前にカウンターでトランジットの行く先・機種などからどちらの空港になるかを調べておくこと。空港カウンターには日本語の出来る係員もいる、なによりもあなたのスマホで、ご主人がサポートしてくれるじゃないかと云うと、彼女はそうかと頷き、微笑んだ。

   退院時 彼女は既に旅立っていた、去年よりは短い滞在だが義父母との再会で、来年は孫を連れて一緒にね、とせがまれていたかも・・・。

 

  わたしの晩酌は、奄美産黒糖焼酎「八千代」(25度)のお湯割り、サトウキビが  

 原料のすこし甘みのあるところがいい、いつも現地のなじみの店から六本単位で取り寄せる。昨今はこれで四カ月はもつが、数年前までは30度を月三本ペースで飲み干していた。  

  しかし 正月は、純米大吟醸で寿ぐ。                                                                                                                           

数年前から宝塚市の西谷地区(北部)の「山田

錦」を酒米に、伊丹の小西酒造で醸造の「乙女の舞」(16度)で酒杯を上げることにしている。

   地元限定販売の由だが、そのネーミングがいい、観劇のあとはこれで会食もいい、「地産地消」の、宝塚らしい大吟醸酒である。         

(@www.tca-pictures-net)

            

    新年 好!(シンニエン ハオ!)

   あけまして おめでとうございます    

                                                                   (2019年12月23日 記・20年3月13日改訂)

 

お詫び (写真が挿入されていますがUPできませんので、文章が不ぞろい箇所があります)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十八話

2020-09-05 20:36:10 | はらだおさむ氏コーナー

二階の書棚

    

  来年の一月十七日は、阪神淡路大震災25周年のメモリアルデー。

 

あのとき倒壊した我が家の跡に、急遽新築した二階の小部屋には、奈良(正確には京都府木津川市)浄瑠璃寺の矜羯羅(こんがら)童子の写真が鎮座している。

  この小部屋は狭いながらもわたしの城になるべきで、窓に向かって机、右は小さな観音開きのケースに続いてがっしりした木製のスライド式五段書棚、左の奥は回転式ハンガーラック、手前は七段の衣類・小物ケースなどで埋まっている。

仕事を終えて、持ち帰ったXPをデンと一階のリビングに据えたため、いつの間にかその周辺に手作りの五段(一部三段)の書棚がならび、大きなテーブルはいまや私専用になってしまって、そこに数年前から置いたノートパソコンの横には、古文書の辞書や図書館から借りてきた本などが雑然と置かれている。

 矜羯羅(こんがら)童子は二階の部屋に鎮座したままだが、寝室が二階にあるため一日に一回は声をかける。もう四十年近くの付き合いになるのか・・・。

 あのとき 元学友たちと猿沢池の近くで宿をとり交歓の宴(うたげ)の翌朝、だれの発案だったかバスで浄瑠璃寺へ向かったのだが、工事中か何かで阿弥陀堂の参観は出来ずに、売店で手にしたのが、この童子の写真であった。

 阪神淡路のあのときまでは、一階の居間の机の上の壁に、中国の大同石窟寺院の仏像写真と並んで飾ってあったが、後者は倒壊したがれきの下にくだけていた(身代わりになってくれたのか・・・)。

 

  こんな話を昨初冬 薬師寺と唐招提寺を参観したとき(<「日々徒然」第27話 初一念>ご参照)、奈良在住の友人に話していたのだろうか、初秋のころ、紅葉と秘仏・吉祥天女立像(重文・鎌倉時代)の開扉日をセットにした交遊プランの案内があった。

前日海外視察から帰国したばかりの参加者もあったが、11月も末、近鉄奈良駅に集合できたのは6名になっていた。

 昼食は奈良町、世界遺産・元興寺を通り過ぎての『玄』(手挽きの十割そば)で。すこしぬる燗の酒の香を残して、タクシーで浄瑠璃寺へと走る。

 

 最後の紅葉を愛でんと集う人波をくぐりぬけ、九体阿弥陀堂(藤原時代)に向かう。なぜか、加古隆の“阿弥陀堂だより”のメロディが浮かぶが、廊下を走りつたう猫のあとを追って、堂内へと足を踏み入れる。薄暗いなか、黄金の阿弥陀如来坐像を横目に、開扉中の秘仏・吉祥天女立像も拝顔中の人波を避け、わたしはひたすら“わたしの” 矜羯羅(こんがら)童子を追い求めるが・・・、ない。もう出口にまで来てしまっている、見落としたのだろうか、もう一度戻ろうかと思案したとき、出口のわきの小さな売店の陰に人影があった。思わず、“請問一下(チンウエン、イシャ)”と出かかった中国語を呑み込み、童子のありかをお尋ねすると、この、目の先、あの薄暗い中におられると。童子は、不動明王の眷属、その左脇の立像であるとは承知していたが、その薄ぐらい闇のなか見透かしてみると、不動明王像そのものが一メートル足らずの立像で、矜羯羅(こんがら)童子像は尺にも及ばないものであった。また、そのお顔がわたしの部屋の額縁に収まって、毎日言葉を交わしている、あの優しいお顔ではない。オメェ~、挨拶に来るのが遅いじゃね~か、と怒っているような顔立ち。わたしは思わず、後ずさりせんばかりに恐れをなして、売店の方に問う。なにか、わたしの持っている写真の主(ぬし)とは、違うような・・・。仏様は、光線の加減や写す人の姿勢、シャッターチャンスなどでそのお顔が変わるらしいですね、・・・と。わたしは心残りしながら、それでももう一度拝眉もせずに、堂宇をあとにした。

 帰宅後、額縁から取り外してわたしの矜羯羅(こんがら)童子の写真の裏を見ると、「永野鹿鳴館」との印字があり、永野太造氏(故人)撮影のものとわかった(添付の写真は比較的わたしのものと相似しているが、永野氏のものではない)。

 念のため、図書館で『入江泰吉写真集 仏像の表情』(新人物往来社・2011年)を手にした。これには、矜羯羅(こんがら)童子像はなかったが、巻末の「佛像と私」(入江泰吉)のつぎの一文には、首肯するものがあった。

 「佛像の表情(この場合は如来、菩薩型)というものは、写真のライトの角度のように、私たちが、佛像にふれるときの心のありかた、うけとりかたによって、その表情もさまざまな、あらわれを示されるのかも、わからない、そうだ、とすると、もともと、佛像の表情とは、無表情の表情、ということになるようである。

 この『佛像の表情』に収録したそれぞれの佛像の表情に、皆さんの心のライトをあてて、見ていただきたい、とねがうものである」

 

 二階の書棚の半分は、仕事のからみで読み、買い集めたものだが、残りの大半は作者や作品にばらつきがあり、出張や旅行の余暇・入院などのすさびに読み続けたものも多い。

 そのなかで、吉村 昭の作品は愛読して全作品、東西緊張時にはフリー・マントルのスパイものに時間を費やし約30冊、わたしのバイブルとでもいえる竹内実先生の『毛沢東 その詩と人生』はもう黄ばんだ箱入り、堀田善衛の晩年の大作『定家名月記私抄』や『ゴヤ』は箱入りで眠ったまま。司馬遼太郎や堺屋太一の作品にはえりごのみがある。藤沢周平は、この二十余年来の病床の付き合いで40冊ほど、棚に入らず床に寝ている。

 いま本文の執筆で二階の机上を覗いたら、読んだふしもない『神権と特権に抗して―ある中国「右派」記者の半生』、いまでも通用しそうな題名だが、03年刊、戴煌著・中国書店刊もほこりにまみれている。

 数年前、若くして天国への階段を駆け上った友人の形見分けにいただいた本のいくつか、『長江文明の探求』(梅原猛・安田喜憲著、04年刊・新思索社)は既に読んで、一階の書棚に来ているが、この本・何清レン(シ+蓮)著『中国 現代化の落とし穴―噴火口上の中国』(02年、草思社)はいま二階から下ろしてきたばかり。故人はかなり読み込んだのか、随所に折り目があるが、大きく折り込んだページの小見出し<黒と白の合流―「赤い帽子」をかぶる黒の親分>に手が止まった(完)。

                                                                                    (2019年12月8日 記)