くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第六話

2017-02-07 12:36:57 | はらだおさむ氏コーナー

あのとき、と、それからと・・・

 

 仕事の都合で行けなくなったのでと、「ミス・サイゴン」(@梅田芸術劇場)のチケットをいただいた。

 わたしは まだ「ホーチミン市」とは改称されていなかった76年10月に、解放後一年数か月目のサイゴンを訪問している。

 それよりも何よりも、50年前、病床からべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に共鳴、ベトコンの活躍に拍手を送っていた。

 

 あのとき 湿性肋膜炎は治癒した後、右肺底部に親指大の結核菌病巣が残っていた。主治医は、これが今回の主因、いつ再発するかもしれない、思い切って切除してはどうか、この手術は交通事故よりも確率は少ないと勧められた。

心臓手術よりも成功率は高いと励まされて転院、右肺三分の一を切除した。心臓手術が脚光を帯び始めた時であったが、同じ病棟の数歳の幼女は術後数日であの世に旅立っていた。

 いくつかのトラブルもあったが、抜糸後、香枦園の浜(まだ防潮堤はなかった)の療養施設に移った。術前は三七〇〇あった肺活量も術後には二〇〇〇に低下していたが、数か月後の退院時には二四〇〇にまで回復していた。

 退院後ノートに書きなぐっていた雑文の中から10数編の詩らしきものを選んで「詩集 ふくらみ」を発刊した。いま読み返してみてこれが詩なのか、疑無きにしも非ずだが、そのなかで比較的短いものを再録する。

 題して=火山礫=

 煙がきなくさく思えた。/灰も何かいじましかった。/あつい溶岩はまだ来なかった。 死んだ火山礫を拾い集めた。/記念は いらないと思った。/ガラガラと くずれて 散った。 おれの火山は死んだ。/息の根をとめてやった。/

がれきの底で何かが動いた。 

  

 それから数年 はじめたばかりのゴルフの練習も、テニスもソフトボールも右手を使って振り回す競技はすべてダメ、ひたすら飽食の末一〇キロほど体重は増えて、はじめて六〇キロオーバーになった(それから更に数キロアップ) 

 いま頭がこんぐらがって、どちらが先だったのか・・・。

 

 第一回ベトナム経済視察団で訪越したとき: 

 ハノイ市内は北爆投下の爆弾でまるで堀池のようにえぐられ、市内を貫流するホンホー(紅河)に架かる橋はすべて破壊されたままだった。

 某日 ハイフォンへ遊覧に出かけた。 

 道はガタガタ、時速三〇キロ?、わたしたち一行は♪田舎のバスはおんぼろ車…♪と合唱したが、同行の通訳はモスクワで日本語を学んだとあって、この歌はご存知なかった。

 ハイフォン港は天然の良港、翌朝小舟を駆って湾内を一周する。

 “海の桂林”と称される湾内の岩礁の数々は、そのむかし「封建中国」が我が国を攻めたとき、ベトナムの“守護神”龍が目から火花を飛ばして敵を撃退しました。そのときの“火花”が海に落ち、この景観となりました、と。

  言ってみれば、蒙古来襲のお話だが、通訳氏の「封建中国」には、なんだか力が入っているかの思いがした。

  ハノイへ帰った翌日は、いよいよサイゴンへ。

  ベトナム航空スチュアデスの、アオザイ姿が目に映えた。

 

  むかしのサイゴンを知る一行の面々は、あまり変わっていないよ、な!とのことであったが、港の岸壁に乗り捨てられた乗用車の数々はすっかり赤錆びて撤退時の慌ただしさを告げていた。中華街ショロンの商店のシャッターは閉じられたまま。宗廟に献じられた香煙は周辺に悲しみの幕を張り巡らしていた。

  夜の帳が下りたころ、数人のメンバーとむかしの酒場界隈を歩いてみた。

 ほとんどのバーはクローズしていたが、外れの小さな酒巴のネオンは微かに瞬いていた。

  一歳未満の幼児を抱いた女が出てきて、酒ならある、とつぶやいた。英語が少しできた。ヤンキー、ゴーホームで商売にならないといいながら、奥に

 幼児を託してカウンターの向こうで酒の準備を始めた。 

  「ミス・サイゴン」の第一場のようなストーリーが、二年前のこのバー周辺でも繰り広げられていたことであろう。 

  いま舞台で演じられている「ミス・サイゴン」の第二場は、バンコクが舞台。子供をアメリカへ託す話がまとまり、彼女は舞台の袖でわが胸を撃つ。

 バーン・・・。その響きは、3F最前列のわたしの胸にも突き刺す。思わずわたしもよろめき、椅子の両袖を握りしめる。なぜか・・・おかしい。

  カーテンコールが繰り返されているが、わたしは腰を上げて下りのエスカレータの列に立ち並ぶ。

 

  帰路茶屋町の古書店街をぶらつく予定は取りやめ、宝塚行急行の空席にドット座り込むが・・・、どうもおかしい。

一駅手前で途中下車、ホームドクターの扉を開く。 

  受付のナースに体温計を求め、検温したまま差し出す。

  何度でした・・・38.6度、わたしは無反応。

  おどろいた彼女から、もう一度測ってくださいといわれ、再検温。

  いくらですか、38.7度、わたしは相変わらず無反応だが、彼女は奥へ駆け込む。せんせ~、はらださんが・・・。わたしは急患扱いで、診察室へ押し込まれ問診、検診、レントゲンなど<急性肺炎ですな、左肺三分の一が侵されている>。注射、調薬、<お大事に>と送り出されて、徒歩数分の駅前調剤薬局へ。なんとなくからだがダルイ、薬剤師と話しているうちに我が家まで十数分の坂道が億劫になってきて、タクシーを呼んでもらう。

  翌日も熱が下がらず、トイレにも一人で行けなくなる。

  翌々日 知り合いの院長に電話を入れて貰って入院、左肺の影は三分の二に広がっていた。

 

  入院四日目にして、ようやく平熱に戻ったが、入院のその夜、意識が混濁して主治医を男性看護師と見間違い、寒いので毛布を貸してください、とお願いしている(主治医の後日談)。二日目の夜 古文書講座(初級)の司会の代行を先輩にお願いするとき、家の方におはようございますと述べ、先方からこんばんはと言われて始めて間違いに気が付くなど、トンチンカンなことを繰り返していたらしい。

  入院六日目 主治医から今後の治療方針が文書で示された。

  病名に、肺炎、脱水、横紋筋融解とあり、肺炎はすでに基本的に完治と勝利宣言。横紋筋融解は右大腿部の痺れに表れており、腎機能の低下につながっていると説明を受けたが、よくわからない。腎機能を示すPSAは正常値の

 7倍を超えていた。 

  点滴は量やその内容は変化したが入院十一日目まで続けられ、リハビリは

 退院まで七日間実施された。 

  入院は十六日間、肺炎は十日で完治したが、同時発症の横紋筋融解による

 痺れ(いまは夜の横臥時のみ)と腎機能の復治にはホームドクターに後を任された。

 

  退院四日目の今日は、整形医など往復4キロほど杖を突きながら歩き、本文を二日で書き上げた。ステップバイステップの、日が続く。(22日)